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第44話

彼は微笑んで少し会釈し、歩き出す。胸が高鳴っていたから、丁度良かった。呼吸を整える。彼とあんなに近い距離で居ると、息をするのを忘れてしまう。ずっと息もせずに彼を見つめてしまう。呼吸を忘れるなんて、これは何なのだろう。そう思っていると彼の足音が戻って来る音がする。彼は私の前まで来ると、何かを差し出す。差し出されたのは花だった。青い星型の形をしている。


「今日の記念とお礼に。」


そう言って彼はその花を差し出す。綺麗なお花だった。小さくて可愛い。


「短刀で切り、切り口を洗っておきましたので、花瓶に挿せば、それなりに長持ちします。」


彼が言う。その花を受け取る。


「ありがとうございます。」


嬉しかった。小さな星型の可愛い花。切り口はハンカチでくるまれていた。3本ほどのささやかな花束。


「祝福ありがとうございました。」


彼が言う。私は彼を見上げて微笑む。


「もし、何かあればいつでもいらっしゃってください。私は治癒が出来ます。怪我をした時や体調が悪い時、祝福を受けた後は悪しきものから弾かれる事もあると聞きました。そういう事が起こった後は、祝福を修復し強化した方が良いと思うので…」


彼は優しく微笑んで言う。


「はい、そんな事があった際には、リリアンナ様の元へ一番に。」



彼が温室を出て行く。それを見送って私は溜息を漏らす。彼に何もありませんように…。そう願った。



温室の椅子に座り、息をついていると、パタパタと足音がする。駆けて来たのはソフィアだった。ソフィアは私の所へ来ると、ニコッと微笑んで言う。


「素敵なお花ですね。」


そう言われて手元のお花を見る。


「えぇ、とても。」


ソフィアがお茶を入れ直しながら言う。


「ブルースターですね。」


ブルースター?そう思って聞く。


「そういうお名前のお花なのですか?」


ソフィアは微笑んでお茶を私に出してくれる。


「そうです、星型のお花の形からそう名付けられたそうですよ。」


ブルースター…何て素敵な名前なのだろう。


「花言葉は信じ合う心、幸福な愛ですね。結婚式などによく贈られるそうです。」


信じ合う心…幸福な愛…素敵な花言葉だなと思う。お茶を一口飲む。心が落ち着く。


「お生けしましょうか?」


聞かれて私は首を振る。


「自分でやります…やりたいのです。」


そう言うとソフィアが微笑む。


「かしこまりました、ご用意致します。」



部屋に戻る前に温室の隅でブルースターの茎を洗う。彼の残したハンカチを見る。ハンカチにはF・Kのイニシャルが入っている。フェイ・クラーク。何の変哲も無い普通のハンカチなのに、そのハンカチでさえすごく大事な物のように感じる。


「こちらでどうですか?」


ソフィアに言われてソフィアを見ると、ソフィアは花瓶を持っていた。透明な花瓶。飾り気の無いその花瓶を私は気に入った。


「はい、それにしましょう。」


その花瓶にブルースターを挿す。それを持ち、ハンカチを持って温室を出る。



部屋に戻った私は、部屋の端にその花瓶を置いた。持っていたハンカチを見て、私は自分でそれを洗って返したいと思った。花を見ているとソフィアが言う。


「リリー様、よろしければ、そのハンカチ、お預かり致します。」


そう言われて私は首を振る。


「いいえ、これは私が自分で洗って、お返しします。」


言うとソフィアが微笑む。


「かしこまりました。」



リリー様と共にお部屋を出て歩く。王太子妃宮の端にある洗濯場に入る。そこにはもう今の時間は誰も居ない。リリー様は何の躊躇も無く中に入り、手際良くハンカチを洗う。それを見ていて思う。あぁ、そうか、リリー様はこういう事にも慣れていらっしゃるのだった。


セバスチャンからリリー様の出自について聞いた時は驚きはしたけれど、実際にお会いしたら、私自身の目で見た事を信じようと思えたのだ。出自がどうあれ、リリー様はリリー様だ。最初は自信の無かったリリー様。どこか儚げですぐにでも倒れてしまうのでは無いかと心配になった程だった。それでも一緒に時間を過ごすうちにリリー様の純真無垢さに涙が出そうになった。それは今も感じている。このお方は本当に穢れていない。やましい事など何一つ無い方なのだ。そんな人間が実際に居るとは思わなかった。私自身も人には言えない気持ちを持っていたりする。日々の生活の中で不満を漏らす事もある。でもリリー様は違う。全ての事を受け入れ、受け止めて生きていらっしゃる。


そんなリリー様がご自分で切り花の処理をされ、ご自分でハンカチを洗うと仰ったのだ。手際よく洗われて行くハンカチを見ながら、私は思っていた。きっとリリー様は無自覚だけれど、クラーク卿をお慕いしているのだろうと。いつの間にか髪に付けていた白百合の髪飾り、リリー様の腕に揺れているブレスレット。本人は無自覚だろうけれど、いつもそのブレスレットに触れているリリー様。本来ならば私はそのような事が起これば、リリー様をたしなめなければいけない。でもそれが出来なかった。きっとリリー様にはこれが生まれて初めての恋という感情だろう。頂いた物が何であれ嬉しくて、何時間もそれを眺めていられて、何をするでもその人の事を思い、笑いかけられたりすれば天にも昇る気持ちになる。触れ合った所が熱くなり、胸が高鳴って呼吸さえ出来なくなる。私もそんな感情を知っている。それが実ろうが、悲しく散ろうが、それは結果の話だ。その時に得た苦しいという感覚も、胸が締め付けられる感覚も、全てを愛おしく思う日が絶対に来る。その事を知っている私はリリー様のそういう経験を大事にしてあげたいと思った。実る事が無いと分かっていても。


「ソフィア、ありがとう。」


リリー様は洗い終えたハンカチを持って振り返ってそう言う。私は何故か泣きたくなるのを堪えて、微笑んで言う。


「いいえ、私は何もしておりません。」


そう、何も見ていないし、何もしていない。リリー様から何かを聞いた訳でも、何かを見聞きした訳でも無い。お部屋に戻りながら言う。


「リリー様、そのハンカチは陰干しの方がよろしいかと思いますので、お部屋の隅にでも干しておきましょう。」


リリー様は微笑んで頷く。


「そうですね。」



その日の夜、夕食を一緒にと、国王陛下からお誘いを頂いた。支度を済ませて部屋を出る。王太子妃宮を出た所にフィリップ様がいらっしゃった。


「リリー。」


待っていてくださったのだろうか。フィリップ様は微笑んで私に手を差し出す。


「行こう。」


そう言ってエスコートしてくださる。



広間へ入る。大きなテーブルに数々のお料理が並んでいる。


「こちらへ。」


そう言ったのはセバスチャンだ。この場にセバスチャンが居てくれる、それだけでも心強かった。フィリップ様と並んで座る。ざわっと空気が動く気配がして、立ち上がる。


「いや、待たせたかな?」


そう言って国王様がいらっしゃる。王妃様を伴って。


「私たちも今、来たところです。」


フィリップ様が言う。


「掛けてくれ。」


国王様にそう言われて座る。視線を上げた私の視界に彼が居た。広間の入口に彼は立っていて、私と視線がぶつかる。視線が合った瞬間に彼はほんの少し微笑む。その微笑みを見て、私は下を向く。


「リリー?」


隣に居るフィリップ様に声を掛けられてフィリップ様を見る。


「どうかしたかい?」


聞かれて私は首を振る。


「いえ、何でもありません。」



夕食の席で婚約式とその後の夜会についての話になった。


「滞りなく進んでいるのか?デルフィーヌ。」


国王様が王妃様に聞く。王妃様は微笑んで言う。


「えぇ、滞りなく進んでいます。急にこんなに規模の大きな夜会をやると仰るので大忙しです。」


国王様が豪快に笑う。


「そうか、そうか。」


お元気そうな国王様を見ると、何だか嬉しくなる。国王様は微笑んで言う。


「まぁ、そう言うな。」


国王様も王妃様も互いに微笑み合っていて、とても素敵なお二人だなと思う。


「リリアンナはどうだ?」


国王様にそう聞かれて私は言う。


「はい、デザイナーとも相談してお衣装を決めました。」


国王様は目を細めて言う。


「そうか、そうか。」


優しいお顔…フィリップ様のお優しいところは国王様に似たのだと分かる。


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