部屋に戻るとセバスチャンが言う。
「ご苦労様でございました。」
そう労われて私は笑う。
「苦労なんかでは無いさ。露払いは私の役目だ。」
そう言いながらも、私は心から感謝していた。こんなふうに自分のやろうと思う事をやろうと思った時に出来る事、それがとても幸せな事だと実感している。以前の私はベッドの上で渡された書類に目を通し、自分の意見を言うだけで、実際に見に行ったり、実際に執り行ったりが出来なかった。幸いにも私の周囲の人間は忠誠心の強い者が多かったお陰で、裏切られた経験は無いが、それは今までの事。いつ自分が裏切られるのかは誰にも分からないし、それがいつ起こるのかも誰にも分からない。
≪力の無い王太子≫それが私だった。
幼い頃から私に忠誠を誓ってくれているセバスチャンや護衛をしてくれている黒い騎士たちのお陰で私は今まで持病よりも怖い物を知らずに生きて来られた。だがこうして自由に動き、自分の意志で物事を動かせるようになった今は、もしかしたら敵が増えたかもしれない。今日のように権力を振りかざした後は、特に注視しなければいけない。
「ウォルター、ソンブラに言伝を。燃料を投下し導火線に火をつけたと伝えろ。」
ウォルターが頷いて言う。
「かしこまりました。すぐに向かいます。」
ウォルターが部屋を出て行く。セバスチャンがお茶をいれてくれている。
「さて、どう動くか。」
私が言うとセバスチャンが少し微笑む。お茶を私の元へ運んでくれたセバスチャンは何だか少し誇らしげだ。
「何だ?」
聞くとセバスチャンが言う。
「殿下のこのようなお姿を見られて、嬉しく思っております。」
そう言われて笑う。
「そうか。」
セバスチャンのいれてくれたお茶はいつでも心を落ち着かせてくれる。
モーリス家の動きを注視していた俺の元に使いがやって来る。殿下の側近のウォルターだ。
「殿下からの言伝だ。燃料を投下し、導火線に火をつけた。」
ウォルターが直々に俺に言伝しに来るという事はそれがそれだけ重要であるという事だ。
「確かに受け取った。これから潜入して動向を探ると伝えてくれ。」
ウォルターは頷いて俺の肩に手を置いて言う。
「お前の事だから大丈夫だとは思うが、慎重にな。」
そう言われて俺は笑う。
「心配は無用だ。たかが伯爵家への潜入だ。敵陣に潜り込むより容易い。」
視界の端にモーリス家の馬車を捉える。
「あぁ、分かってるさ。だがリリー様に関わる事だ。万が一があってはならない。」
木の上から地上へ降り立つ。俺に続いてウォルターが下りて来る。
「心しておこう。俺が居ない間、殿下を頼むぞ。」
家に帰りついた途端、お父様が怒鳴る。
「エリアンナ!何故、顔を上げたのだ!」
急に言われて私は驚く。お父様に怒鳴られた事など、今まで一度も無かったのに。お父様は八つ当たりをしているんだわ、そうよ、私が怒鳴られるなんておかしいもの。
「あの青二才め!自分の父親と同年代の私を威圧するとは!」
お父様は応接室の中を歩き回りながらブツブツ何かを言っている。そして立ち止まり私を見ると言う。
「婚約式後の夜会には参席出来るんだ。その時までにクラーク家との縁談を進めるぞ。」
私はそう言われて笑顔になる。あのフェイ様と婚約出来る。フェイ様だって私との時間を過ごせば、きっと私を見てくれるようになるわ。今までずっと皆がそうだったもの。
私は朝からテイラーの作るドレスの試着に駆り出されていた。
「もう少し、腰のラインは絞れそうですね。苦しくは無いですか?」
テイラーに聞かれて私は頷く。
「大丈夫です。」
テイラーはテキパキとお直しを進めて行く。
「それではお直し致しますので、脱いで頂けますか。」
そう言われてつい立ての向こうへ入る。脱いだドレスを針子が持ってテイラーの元へ持って行く。
「次はこれをお召しください。」
そう言われて次のドレスに袖を通す。
「そこの刺繍はもっと細かくやってくれ。」
テイラーが針子に指示を出している。見渡せば多くの針子がドレスを縫い、刺繍をしている。こんなに多くの人たちの手によって、美しいドレスが出来るのだ。何だか涙が出そうになる。でもその中の誰一人として辛そうに作業している子は見当たらない。皆、一様に楽しそうに作業している。
「リリー様?」
声を掛けられてハッとする。
「どうかされましたか?」
ソフィアに声を掛けられて小さな声で言う。
「皆、楽しそうですね。」
言うとソフィアがクスっと笑う。
「皆、針子の仕事が好きな子ばかりです。世間では仕方なく針子をやっていると認識している人も居ますけど、王室の針子は皆、志願してこの仕事をしているんです。お給料も破格です。なりたくてもなれない子も居るぐらいですからね。プライドを持ってこの仕事をしているのですよ。」
私が嗜みとしてやっている刺繍とは比べ物にならない程の美しい刺繍が目の前で完成して行く。プライドを持ってこの仕事をしていると聞いて、ドレス一つ、平服一つでも人の手によって作り出されている事に感謝した。
「本当にリリー様は何を着ても美しい…」
テイラーが言葉を漏らす。美しいなんて言葉を言われた事の無い私は恥ずかしくて俯く。
「テイラー、リリー様がお困りですよ。少しは謹んで頂かないと。」
ソフィアがたしなめるように言う。
「これは失礼致しました。あまりの美しさについ言葉が漏れてしまいました。」
テイラーは少しお道化てそう言う。
「またそうやって!リリー様を困らせるようであればそれなりの策をこちらでも講じますよ。」
ソフィアにそう言われて私が言うのと同時にテイラーも言う。
「「それは困ります。」」
私はテイラーと顔を見合わせ、笑い出す。
「もう、リリー様。テイラーを甘やかさないでください。」
ソフィアがそう言うのを見て、何だか温かい気持ちになる。いつだったか、こんなやり取りをしているソフィアたちを見て、自分もその中に入りたいと思っていた事を思い出す。私もこの中の一員になれたような気がして、嬉しかった。
姿を変え、伯爵家に潜入を開始する。伯爵家には多くの人間が働いている。その中で一人ぐらい増えても誰も何も言わないが、人同士の付き合いというものがある。気を付けなければいけない。潜入はそれ程、難しい事では無い。たかが伯爵家だ、警備は無い。ほんの数分、家の中を動き回っただけで、大体の部屋の配置は把握した。誰かに扮した方が動きやすいかもしれない。でもそれをやれば潜入が見つかる可能性が高くなる。しかし、手に入れたい情報はやはり、伯爵自身の部屋にあるようだし、俺がその部屋に出入りしても不審がられない人物である必要がある。少し考えて俺はそれを実行する。
部屋の中の机を探る。鍵のかかった引き出しがある。鍵など、俺には無意味だ。懐から道具入れを取り出し、道具を鍵穴に入れる。指先に伝わる情報を精査しながら動かすとカチッと音が鳴って鍵が開く。引き出しを開けて中を見る。中には書類が何枚も入っている。その書類の間に挟まっている何かがあった。
黒い…紙…?
それに触れようとした瞬間、パチンと小さな音が鳴って、指が弾かれる。俺が触れる事の出来ない紙、何故弾かれたのかを一瞬にして理解する。俺はリリー様から祝福を受けている。指先を見ると仄かな光が指先に付いた黒い粉を包み込み、一瞬キラッと光った後、白い粉になり、ハラハラと落ちて消えた。俺は慎重に黒い紙の上下にある羊皮紙を使い、それを手に取る。真っ黒な紙には何も書かれていない。いや、見る事が出来ないのだろう。これを持ち帰る事が出来れば良いが、それはリスクが高過ぎる。道具入れから特殊な紙を一枚出し、その黒い紙に重ねる。もう一つ、今度は彫刻が施された文鎮を取り出し、その特殊な紙の上をゆっくりと滑らせる。上手く反転出来れば良いのだが。特殊な紙を巻き、懐に入れ、文鎮をしまう。慎重に羊皮紙を重ね、引き出しに黒い紙を戻す。引き出しを閉め、鍵を掛ける。周囲を見渡す。机の脚元に隠すようにトランクが置いてある。それを探りたい気持ちを抑えて俺は立ち上がり、音を立てないように部屋を出る。時計を見る。この間、2分。上出来だ。一つの事を探るのに、3分以上かけないのが俺の信条だ。次の機会を待って、あのトランクを探ろう。まずはこの紙を殿下に届けなければ。