その日の昼下がり。お部屋にフィリップ様が来る。
「フィリップ様。」
フィリップ様は微笑んでお部屋に入って来る。
「どうなさったんですか?」
聞くとフィリップ様が言う。
「父上が先程、リリーと私の正式な婚約式を開くと仰った。」
正式な婚約式…。
「婚約式というのは…?」
それがどんなものか分からなくて聞く。フィリップ様は私の頭をポンポンと撫でて言う。
「婚約式自体は神殿で行うんだよ。互いの名前を記して、婚約を誓い、婚約指輪なんかを渡すんだ。」
神殿で行われる…。
「そこでは互いの親族も呼ばないといけない。」
そう言われて少し不安になる。
「お父様もお母様もお姉様も、皆、私がフィリップ様と婚約した事を知らないのでは…?」
言うとフィリップ様が頷く。
「そうだろうね。君はグリンデルバルト家に出された。グリンデルバルト家の当主が私だという事は世に知らされていないからね。」
フィリップ様は優しく微笑んで言う。
「今回、婚約式をするのは私とリリーだ。だからルールはいくらでも変えられる。婚約式自体は二人で行う。父上も母上も参席されない。」
そう聞いて驚く。
「そんな事が許されるのですか?」
聞くとフィリップ様が微笑む。
「二人とももう成人している。婚約する当事者が成人している場合は二人でのみの婚約式も可能なんだ。」
二人きりでの婚約式…。
「でも国王様と王妃様がそれを許されないのでは?」
聞くとフィリップ様が笑う。
「大丈夫だよ、父上にはもう話して了承を頂いている。」
フィリップ様はそこで少し苦笑いをする。
「母上に関しては父上から話をしてくれるそうだ。だから大丈夫だろう。」
私の事情を加味した上でそういう決断をしてくださったのだろうと思うと申し訳なかった。
「私のせいで…」
そう言うとフィリップ様が言う。
「リリーのせいじゃないよ。私がそうしたいんだ。だけどね、リリー。」
フィリップ様が言い淀む。
「婚約式をしたその日の夜は大々的な夜会になる。王国の王太子が婚約したのだから、その祝いを王宮でやるのが習わしだ。それに関しては国中の貴族が参席するだろう。そこでリリーは私の婚約者として皆に紹介される事になる。」
いずれにせよ、私はフィリップ様の婚約者なのだから、それが遅かれ早かれお父様やお母様、お姉様に知られる事にはなるだろうとは思っていた。
「大々的に皆に知られると、リリーには今まで以上に負担がかかるかもしれない。社交界にデビューをしていないリリーが急に私の婚約者として登場するんだからね。恐らく、リリーの父上や母上も黙ってはいないだろう。そしてそこでリリーが聖女として正式に認定された事も発表する。」
その場で私が聖女として認定された事も公表される…。
「きっと国中が大騒ぎになるだろう。その渦中の人物になるのだから、リリーには負担をかけてしまう。今まで以上に貴族らしい振る舞いをしなくてはならないし、その言動が噂の的になるだろう。」
きっとフィリップ様は心無い私への噂が広まらないか、それが私の耳に入らないか、心配してくださっているのだろう。
「私は大丈夫です。どんな事を言われても、どんな噂が立っても。」
言うとフィリップ様が微笑む。
「リリー、君は本当に強くなったね。」
強くなったのではない。今まで多くの暴言や蔑みの言葉にも耐えて来たのだ。言葉だけならきっと大丈夫、そう思った。
「そこで、だ、リリー。」
フィリップ様がまるで子供のような笑顔で言う。
「婚約式の衣装や夜会の衣装を誂える為にテイラーを呼ぼうと思う。」
テイラーと聞いて嬉しくなる。
「テイラーを?」
フィリップ様は微笑んで言う。
「あぁ。テイラーはリリーのお抱えデザイナーだからね。」
リリーの部屋を出て、王太子宮に戻り、婚約式についての指示を出す。婚約式は二人で行うとしても、夜会は貴族たちが参席し、私や父上が健在である事を示す、大事な舞台でもある。取り仕切りは抜かりなくやらなくてはならない。この場にセバスチャンが居ない事が悔やまれた。今からでも呼び出すか、テイラーと共にこちらへ向かって貰うか。そんな事を考えている時、ノックが響く。
「入れ。」
言うと侍従が一人、扉を開け、その場で頭を下げ、言う。
「王妃殿下がお呼びでございます。」
このタイミングで私を呼ぶのだから、そういう事だろうと察しが付く。
「分かった、すぐに向かう。」
扉の前で一呼吸おいて、ノックする。
「フィリップです。」
言うと中から声がする。
「お入りなさい。」
言われて扉を開ける。部屋の中央のテーブルにティーセット。母上は座ったまま自分の目の前の椅子を指し、言う。
「掛けなさい。」
言われてセッティングされている椅子に座る。侍女がお茶をいれる。
「婚約式の事、国王陛下から聞きました。」
母上が静かに言う。
「そうですか。」
それだけ言うと、母上が私を見て聞く。
「本当に二人だけでやると言うの?」
私は母上の言わんとしている事を汲み取る。
「えぇ、二人きりでやります。父上も了承してくださっている話です。」
そう言い切れば母上はもう口出し出来ない事も知っている。母上がお茶に手を伸ばす。
「分かりました。それについてはもう良いわ。」
母上がお茶を一口飲んで言う。
「夜会は私が取り仕切ります。」
そう言うだろうと思っていた。
「助かります。」
言うと母上はティーカップをソーサーに置いて言う。
「すぐに取り掛からねばなりません。」
そう言われて私は微笑む。
「支度には一週間、頂いております。」
本来ならば婚約式の後の夜会などという大きな夜会はその準備にひと月はかけるのが通例だ。それを一週間でやるというのだから、異例ではある。
「こんなに大きな夜会なのに一週間しか無いのです、デザイナーも王室御用達の者を呼ばなくては。」
そう言われて私は母上に言う。
「デザイナーはもう決めています。東部に腕の良い仕立て屋が居るのです。」
母上が私を見る。
「もうデザイナーまで用意していると言うのね?」
母上の表情は柔らかい。
「はい。」
そう言うと母上は微笑んで言う。
「あなたが東部に行ってから、こちらに帰って来るまでに、こんなに成長しているなんて、思わなかったわ。」
そして私に手を伸ばす。テーブルに置かれた私の手に自分の手を乗せる。
「あのおかしなデザイナーじゃないでしょうね?」
そう聞かれて笑う。あのおかしなデザイナーというのはサマンサの事だろう。
「いえ、違います。」
言うと母上は私の手を優しく包み言う。
「あのデザイナーはゴテゴテ飾り過ぎていて、好きじゃなかったの。良かったわ。」
婚約式の準備が慌ただしく進んでいく中、私は国王様への治癒とフィリップ様への治癒を続けた。いつも二人からは体は大丈夫かと聞かれる。私の体はいつにも増して、元気だった。誰かの役に立っているという実感があったから。フィリップ様には私の昔の話をしてしまった。初めて自分の傷を治した話、お母様とお姉様にどう扱われていたのか、それを知ったフィリップ様は私に幻滅しないだろうかと心配だった。フィリップ様はいつも変わらず、私に微笑み、優しく話を聞いてくださった。懐が広く大きい人なんだと思う。
その時。私の頭の中にはもう一人、浮かんだ人物がいた。銀色の髪の人。
私はあの日に彼に貰った髪飾りとブレスレットを大事に持っていた。髪飾りはいつも私の髪を飾った。ブレスレットは身に付けるのが何だか恥ずかしかったけれど、私の手首で揺れている。ムーンストーン。健康と幸運、恋の成就を願う石…。彼は何故、私にこんなものを贈ってくれたのだろう。優しく微笑む彼、彼の瞳の色は銀色だった。そしてこのムーンストーンと同じように不思議な光り方をしていた。彼の事を考えると胸が高鳴った。私をエスコートしてくれる彼の優しい手、私を見つめる優しい眼差し、丁寧に扱われる事に慣れていない私は、そんなふうに私を扱ってくれる事に、きっと感動したんだわ、そう言い聞かせる。