最初は泣いている子供が気になっただけだった。迷子なら親を探してやろうと思った。傍らに膝を付く女性が居た。その女性はその子に声を掛け、何かを囁き、そして膝を擦りむいていたその子の膝を撫でた。次に見えた時には傷が癒えていた。驚いた。あれが神聖力というものか、と。気付けば声を掛けていた。何故こんな所にお一人で?お忍びだろうか。でももしそうなら正体を暴かれるのは困るだろうと思った。だから何も聞かなかった。
亜麻色の髪、白い肌、綺麗な翠眼。ソンブラが守りたくなるお方だと言った意味が分かった。そしてその時の俺は少しでも彼女と一緒に居たいと思ってしまった。冷静になればそんな事、考えるだけでも罪な事だ。それでも互いに名乗らずにいれば、次に王宮で会っても知らない振りが出来る。彼女の記憶に残りたくて、俺は無理やりプレゼントを買った。まるで玩具のような記念品。それでも俺が買ってあげた物を彼女が持っていてくれるだけで良かったのだ。
彼女が王宮に来てから一週間ほどだと聞く。その間、出会う事は無かった。これからも出会わずに過ごせる可能性もある。ふとまた笑いが込み上げる。出会いたいのか、出会いたくないのか。自分でも分からなかった。
広場の露店でソフィアと品定めをする。
「フィリップ様は何を?」
聞かれて私は笑う。
「まだ何も考えていないよ、ソフィアはどうだい?」
聞き返すとソフィアは私を見て笑う。
「私には考えがあります。でもお教えしませんよ。」
そう言われて笑う。不意にソフィアの横を通る男がソフィアとぶつかりそうになる。私は咄嗟にソフィアを引き寄せる。意図的では無いにしろ、ソフィアを抱き寄せる形になる。
「あぁ、すまない。」
そう言ってソフィアを見る。ソフィアは顔を赤くして言う。
「いえ、こちらこそ、ありがとうございます。」
恥ずかしがっているソフィアを恐らく初めて見た。いつもリリーの為に心を砕いてくれているソフィア。普段は侍女として完璧に振る舞う彼女のこんな顔は初めてだった。素直にソフィアは可愛いのだなと思う。私はソフィアを解放する。
「行こう。」
そう言ってソフィアの手を取る。ソフィアは歩きながら言う。
「フィリップ様、競争なのですから、お互いに買う物は別々に見ないと。」
そう言われて私は笑う。
「それもそうだな、じゃあ、後で合流しよう、」
ソフィアと別れて私は露店を回る。胸の高鳴りを確かに感じた一瞬だった。見た事も無い彼女の表情を見て、胸が苦しくなった。これは持病の苦しさでは無い。そこで諦めにも似た感情が湧き上がる。考えるのは止めにしよう。ふと目に付いたもの、それを見てリリーが浮かぶ。これにしよう。
広場から戻って来たフィリップ様とソフィアはそれぞれに買って来た物を見せてくれる。ソフィアは髪を結うリボン、フィリップ様は白いウサギのぬいぐるみ。
「ぬいぐるみですか?」
ソフィアが少し驚いて聞く。フィリップ様は恥ずかしそうに言う。
「これを見た時に、リリーの顔が浮かんでね、買わずにはいられなかった。」
ウサギのぬいぐるみ…私が持つ事を許されなかったもの。それを受け取りながら思う。きっとフィリップ様は私の話を覚えてくださっていたんだろう。そう思うと何だか嬉しかった。
「ありがとうございます、可愛いです。」
言うとフィリップ様が微笑む。
「喜んで貰えて良かった。」
リリーの髪に見慣れない髪飾りがあった。白百合だろうか、小さくて細やかな髪飾り。リリーにとても似合っていた。リリーはあんな物を持っていたかな…そう思いながらも、私はそれを聞かずにいた。もしかしたらどこかで手に入れたのかもしれない。リリーの行動の全て、持ち物の全てを把握している訳では無いのだから。待っている間にだって露店を少し見る時間くらいはあっただろうから。
体調が回復した父上との久々の昼食。父上は上機嫌でニコニコしている。
「こんなに短期間でこれ程、回復するとは。やはりリリアンナの神聖力は素晴らしいな。」
父上が言う。私もそんな父上を見る事が出来て嬉しかった。
「はい、父上。リリーは本当に素晴らしい力を持っていると私も思います。でもリリーの魅力はそれだけじゃない。リリーは心優しく、純真無垢そのもの。人を恨まず、妬まない。その人間性で周囲の人を魅了するんです。」
父上はそう言う私を見て微笑む。
「お前も魅了された人間の一人か。」
そう言われて笑う。
「そうですね。」
言いながらも心に引っ掛かる。父上が言う。
「私の体調も回復したし、お前の体調も良い。この機に正式に婚約式を開こうと思っている。」
婚約式…。
「そうですね、それが良いでしょう。」
本当は気がかりだった。リリーを公式に外に出す事になる。
「心配するな。」
父上が微笑む。私の表情を読み取ったのだろう。
「リリアンナの事については私も知っている。以前、モーリス家の者が王宮に来たが、リリアンナの事について尋ねる事も無かったからな。まぁ、公にはグリンデルバルトは王族の縁戚となっているから、リリアンナがお前と婚約しているとは思っていないかもしれんが。」
その可能性は高いだろうと思っている。東部の領主は醜い中年の男、そういう噂が王国中で囁かれている事は知っていた。そういう噂が広まっても問題は無いと思って放置していた。求婚状を送られて、断るのに一苦労するくらいなら、と。持病のせいで気が回らなかったのもある。私が公に姿を現すのは王都にいる間だけだった。それも今までは何とか立ち上がり、微笑みを崩さずに皆の前で立っているだけだった。いつもベッドの上に居て、呼吸する事でさえも懸命にやらなくてはいけなかったから。
「モーリス家の者がリリアンナをどう扱っていたかは、知っている。双子の忌み子だからな。それがどういう扱いを受けるのかは、想像がつく。」
父上が難しい顔をして言う。
「だがな、だからこそ、リリアンナが聖女であると正式に発表し、お前の正当な婚約者であると宣言する事はリリアンナ自身を守る事にも繋がると、私は考えている。」
父上の言う通りだ。正式に私の婚約者だと発表すれば、リリーに簡単には手を出せないだろう。
「そうですね。」
言うと父上が微笑む。
「何か言って来るような事があれば、私やお前が対応すれば良い。」
そう言われて少し胸のつかえが取れる。今まで私と父上を治癒してくれたリリーを私が守れるのだと思うと何だか少し嬉しかった。
「では、父上、私の考えを申し上げても?」
書物を読んで溜息をつく。白百合乙女…。王国に加護をもたらす大聖女。大地と天に愛され、純粋で無垢。あの子が白百合乙女だというのだろうか。でも目の前で見たあの力は、今まで出会って来た神官や聖女とは比べ物にならない程の絶大な力だった。目の前でキラキラと舞い散る光の粒、光の根源であるあの子は光り輝いて見え、まさに聖女だと感じた。そして何よりもグレゴリーが起き上がり、立ち上がったのを見て、奇跡だと思った。
「王妃殿下、国王陛下より、言伝がございます。」
私は書物をテーブルに置き、聞く。
「そう、言伝は何?」
聞くと侍女が言う。
「フィリップ殿下と婚約者様の婚約式を近く、行うとの事です。」
婚約式…正式に婚約者として受け入れるという事ね。もう忌み子であるという事は問題では無いのだろう。国王自ら、あの子の治癒を受けて、回復したというのなら尚更ね。
「婚約式の仕切りは誰が?」
聞くと侍女は首を振る。
「そこまでは。」
私は立ち上がる。
「婚約式の仕切りは私がやると伝えなさい。」