その男性がフィリップ様に手を伸ばした瞬間だった。気付いた時にはその男性は床の上に転がっていた。何が起きたのか、全く分からなかったけれど、それをやったのはベルナルドだという事だけは分かった。床に転がったその男性も、自分の身に起きた事が分かっていないようだった。すぐにハッとして言う。
「何をする!」
その男性が立ち上がり、こっちを見る。とても怒っている。そこで仕方ないという表情でフィリップ様がベルナルドに頷いて見せる。ベルナルドも頷くと真っ直ぐにその男性の前まで行く。
「何だ、何をしようと…」
その男性が身構える。ベルナルドが何かをその男性に囁く。みるみるうちにその男性の顔色が悪くなっていく。ベルナルドは何かを囁いた後は何も言わずにその男性を見下ろしている。その男性は慌てた様子で床の上に伏す。
「大変失礼を致しました…何卒、何卒、お許しを…」
急に土下座をしてそう言う男性を宿屋の主人がポカンと見ている。フィリップ様が微笑んで言う。
「別に構わない。私は今夜の宿を確保出来ればそれで良いのだから。」
「あのようにお許しになって良かったのですか、殿下。」
一緒に連れて来ている側近のウォルターが言う。私は笑う。
「良いんだよ、あの場では、ね。」
部屋に入ってソファーに座り、言う。
「あの者を調べておいてくれるかい?町に一軒しかない宿屋を横暴にも貸し切ろうとした不届き者だからね。」
ウォルターが頭を下げて言う。
「御意。すぐに手配を。」
ウォルターは部屋の扉を開けると、入口に控えている護衛騎士にその旨を伝える。
お部屋に入って小さなソファーに座って一息つく。
「先程の貴族の男性、酷かったですね。」
ソフィアが言う。
「そうね…」
ああやって横暴に振る舞う貴族の人間は多い。生まれが貴族だというだけで同じ人間なのに。
「全く…ああいう人が居るから、平民の間で貴族が嫌われるのです。良い迷惑です。」
ソフィアが憤慨している。私は少し笑って言う。
「そうね、ソフィアの言う通りね。」
そう言いながら私は別の事を考えていた。ベルナルドはきっとあの男性にフィリップ様の事を明かしたんだろうと思った。フィリップ様は王太子殿下だもの。改めてフィリップ様が王族だという事を実感する。どんな人であれ、フィリップ様よりも高位の方は国王陛下と王妃殿下しか居ない。王妃殿下でさえ、もしかしたらフィリップ様からしたら敬愛する人であっても、必ずしも命令を聞くなどという人物では無いのかもしれない。
「ねぇソフィア、フィリップ様は国王陛下、王妃殿下と仲が良いのかしら。」
聞くとソフィアが少し考えて言う。
「仲がお悪いとは聞いておりません。フィリップ殿下は療養の為、そして貿易領である東部の統治の為に東部にいらっしゃっていると聞いております。フィリップ殿下は国王陛下、王妃殿下の嫡子でいらっしゃいますし…フィリップ殿下に直接、お聞きになったらよろしいのでは?」
確かに、私が聞けばきっと何でも答えてくれるだろうと思った。もちろん、私には話せない事もあるだろうけど。不意に扉がノックされる。
「はい。」
返事をすると扉が開いて顔を出したのはベルナルドだった。
「ウェルシュ卿、どうかしましたか?」
ソフィアが聞く。ベルナルドは少し困った顔で言う。
「実は、今、宿の入口に人が訪ねて来ていまして…リリー様にどうしても会いたいと。」
私に?私とソフィアは驚いて顔を見合わせる。
「何故、私に?」
聞くとベルナルドが言う。
「どうやら、先日の村での治癒について噂を聞いたようなのです。」
人の噂は出回るのが早いのだなと思う。昨日の夜に治癒した話が今日にはここにまで届いているなんて。
「それで、その噂を耳にしてわざわざリリー様を訪ねて来るという事は、治癒して欲しいという事なんでしょうか。」
ソフィアが聞く。
「そのようです。先にフィリップ殿下にはお伝えしましたが、フィリップ殿下からはリリー様に直接言うようにと。」
私は立ち上がる。
「会ってみましょう。」
階段まで歩いて来ると、既に誰かの大きな声が聞こえて来ていた。
「だから!会わせてくださいよ!あの村の村長さんが治ったというなら、うちの妹だって治るかもしれない!」
階段の上まで来てエントランスを見る。そこには護衛騎士に縋っている若い男の人が居た。私がソフィア、ベルナルドと共に現れると、私たちを見上げたその人は大きな声で言う。
「聖女様ですか!どうか、どうか妹を助けてください。」
階段を下りて話を聞く。若い青年は床の上に両膝をついて懇願するように言う。
「妹は生まれ付き体が弱かったのです、何度もそのせいで死にかけました。今もやっと生きているような状態なのです。今まで命を長らえているだけでも奇跡だと医者からも言われています…状態が良くなるかもしれないと言われている薬などは何でも試しました、でも薬なんて高くてそうそう買えやしない。俺たち平民には手に入れられないものばかりです。」
そして私を見上げて言う。
「どうか、どうか妹を…お願いします…」
私に出来るだろうか。そんなふうに考えていると。
「会ってみたら良い。」
後ろから声がする。振り向くとフィリップ様が居た。フィリップ様はゆっくり歩いて来ると、私の横まで来て、私の背中に手を添える。
「私に出来るでしょうか。」
フィリップ様を見上げて聞くとフィリップ様が微笑む。
「リリーなら出来るさ。大丈夫。」
そして跪いている青年に言う。
「案内してくれるかい?」
宿を出て青年の家に行く。護衛のベルナルドと今回はフィリップ様も一緒だった。
「お体、大丈夫ですか?」
聞くとフィリップ様が微笑む。
「大丈夫だよ、リリーからの治癒を受けているからね。」
護衛騎士の方々に囲まれて歩いているのは何だか大仰で気が引けた。そんな私の様子を感じ取ってか、ベルナルドが言う。
「夜ですので、ご辛抱を。」
しばらく歩いて青年の家に到着する。家の前に立ってみる。
「何か、感じるかい?」
フィリップ様に聞かれる。家全体を見る。昨日の村長さんの家と同じように空気が淀んでいる。
「空気が…淀んでいるように感じます。」
フィリップ様を見上げるとフィリップ様も家全体を見ている。
「そうか…私には何の変哲も無いように見えるが。」
この淀んだ空気は私だけが感じるものなのだろうか。青年の案内で家に入る。家の中は更に空気が滞留している。
「こちらです。」
案内された部屋のベッドに女の子が横になっている。年は私とそう変わらないように見える。私と変わらない年なのに、こんな状態で寝たきりだなんて…。ベッドの脇まで行く。その女の子は呼吸をするのもやっと、といった状態だった。
「どうしたら良いですか?」
青年が聞く。
「手を。」
私がそう言うと青年がその女の子の手を布団から出す。私はその手を取って、祈る。
≪どうか、この子が健康になりますように…。≫
目の前でリリーが女の子の手を取ると、白い光がリリーの手から溢れ出す。その白い光は瞬く間にリリーとその女の子を包む。空気がそこだけ圧縮されて、白い光の膜の中で膨張していくように感じる。リリーがその力を覚醒させてから、初めて治癒をしている所を見た。
「すごいな…」
思わず言う。一瞬の後、その光の膜がパーンと弾けるとふわっと風を感じる。光の粒が降り注ぎ、その光が消えると同時にベッドに横になっていた女の子が目を覚ます。
「エマ!」
青年がその女の子に縋るように言う。その女の子は辺りを見回し、少し驚いたように青年を見る。
「兄さん…」
そして体を起こす。青年は女の子を支えるように手を添えている。
「何が、あったの?」
その女の子が聞く。青年は涙していて何も言えないでいる。