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化かし合い
井川奎
歴史・時代江戸・幕末
2024年07月18日
公開日
2,336文字
完結
江戸の夜の辻に立つ女、お里に惚れてしまった佐吉。
だが、佐吉にはお里に近付けない理由があった。

第1話

「もう、いかなきゃ……」


 言って、おさとは、いつものように首を傾けながらほほ笑んだ。



 秋月の輝きは、お里の面長の顔に塗りたくられた白粉を浮かび上がらせている。



 娘らしからぬ、異常に白い顔の内で、紅い小振りな唇が、半開きになっていた。



 開かれているそれは、笑むわけでもなく、言葉を発するわけでもない。佐吉さきちには良く分かっていた。



 道端に立ち、客を取るお里の商売癖なのだ。



 安っぽい小袖こそですそを翻すように、お里はきびすを返し、先の辻へ向かって行く。



 本所ほんじょ、お竹蔵から東へ余辻よつじ──。そこが、お里の商い場所だった。



 これから、お里の商売が始まるのだ……。



 ある夜、たまたま通りかかったこの辻で、佐吉は佇むお里を見つけた。



 小石を蹴って、人を待つ仕草をする、二十歳はたち手前の女。遠目からでも目鼻立ちが、はっきり分かるほど、執拗な化粧をほどこしている。



 そもそも、娘が明かりも持たず、夜更けに一人出歩く訳がない。



 素人ではないと、すぐに見当がついた。



「あら、旦那」



 目敏く佐吉を見つけたお里が、声をかけてきた。



 二言三言、言葉を交わし、それが縁といえるのか。以来、佐吉は、この辻に足しげく通っている。



 ──先の暗闇で、声があがった。何か、話し声が聞こえるが、ほとんどお里の甘え声だった。



 客を捕まえたのだろう。佐吉は、息をつく。



 自分には、銭がない。



 どんなに通い詰めようと、佐吉は、お里と挨拶程度の無駄口を交わすことしかできないのだ。



「ああ、あたしかい?里って言うんだよ」



 人慣れした口調で、初めて名乗られた時は、佐吉は頭に血が上り、ぼおっとなった。



 もちろん、源氏名に決まっている。それでも、名には変わりない。



 里、お里……。佐吉は、一人、名を呟いた。



 そして、自分は、この女に惚れてしまったんだと気がついた。



「やあ、今夜は、月がきれいだね。お里ちゃん」



 どうにか、くだけた言葉を交わせるようになっていた。



 それでも、銭を持たない佐吉ではそこまでが限界だった。



 元締めに絞られるのだろう。実入りになる客を求め、お里は佐吉を軽くあしらい、すぐに闇へ消えて行く。



 そんなお里の後ろ姿を、だまって見送る事しか出来ない我が身……。佐吉はいつも歯がゆかった。



 銭さえ持っていれば。



 吉原の花魁を相手にするわけでもない。岡場所の女以下、たかだか、辻に立つ女、なのに……。



 小さめに結った本多髷ほんだまげに、袖が長めの羽織りと博多帯はかたおび、腰には金華山織きんかざんおりの煙草たばこ入れ、白足袋と、八幡黒やはたぐろの鼻緒。



 誰もが認める、羽振り良い風体なのに銭が無いとは情けない。



 いや、こんな格好など、ぱっと、宙返りすればすぐできる。



 そう、佐吉は人ではなかった。



 狐、なのだ。



 が、ただの狐ではなく、晦日みそかの夜に、関東稲荷総司、王子稲荷へ参拝できる高位の身分。人に化けるのも朝飯前の、強い念力を持っていた。



 銭だって、その気になれば、小石か木の葉を使えば……。



 しかし、それは一晩明けると、使い物にはならない代物になる。



 まやかしの偽銭を使ってまでお里を手に入れようと佐吉は、思ってはいなかった。



 お里は、物ではない。佐吉の中では、かけがえのない女だからだ。



 男から、銭を受け取らなければならないお里の事情も汲んでやりたい。



 自分が、十分に銭を与えられれば、お里は身を犠牲にしなくても良いのに。



 日々、想いと現実との板挟みで苦しんで、好いた惚れたごときにまどわされ立ち往生しているとは、情けない話だった。



 と──、先の辻で、うわあっと、おおぎょうな男の声があがった。



 追うように、お里の馬鹿笑いが響いてくる。



 捕まえた客と、ふざけあっているのだろう。



 指をくわえて見ているしかない佐吉の胸は、きりきり締め付けられた。



 銭があったら、本物の銭を持っていたならば。



 お里があんな下世話な笑い声をあげ、客の気を引くこともないだろうに。



 いや、毎晩辻に立たなくとも……。



 でも。銭があっても……。



 佐吉は、あっと息をのむ。



 お里は、佐吉の正体を知らないのだ。



 人でないとわかったら、いくら、銭を持っていても、逃げ出すに違いない。



 結局、佐吉にとって、お里は高嶺の花。一生かけても、近寄れない相手なのだった。



 悔しさに押されるように見上げた夜空。月がやけに眩しかった。



「あらまっ、どうしたのさ。こんなところに突っ立って」



「お、お里ちゃん……」



 暗闇で、男と戯れているはずのお里が現れて、佐吉は驚きを隠せない。



「ふふふっ、ちょっと、からかってやったのさ」



 含み笑いながら、ちろりと舌をだし、お里は肩をすくめた。



 その無邪気な仕草に、つい、佐吉の顔も緩んだ。



 とはいえ、余所の男と軽口を交わしていたことに違いはない。



 素直に笑い話とも受け止められず、なんと返せば良いのだろうかと、佐吉は口ごもる。



「ほら、こうやってね」



 お里がふいに、顔を袖で隠した。



「どうだい?」



 言って、ゆるりと袖から覗かせたお里の顔には、目も鼻も口もなく、まっ平らで、のっぺりしている。



「お、お里ちゃん?!」



 佐吉は、腰を抜かした。



 瞬間、ひゅっと旋風がまき起こり、お里は、くるりと宙返る。



「どうしたんだい?あんたも、人間をだましに来てるんだろ?」



 くりりと愛らしい目をした犬が、ちょこんと座って、佐吉を見上げていた。



 そして、ふさふさとした尾先は、二つに割れている。



 犬の体をもち、尾が二股に分かれている──、と言えば、言わずとしれた……。



猫股ねこまた?!」



 佐吉のあげた、すっ頓狂な声に、お里だったはずの獣は笑った。



「なんだよ。わかってなかったのかい?あたしは、あんたの事、臭いでわかっていたんだよ?」



 まさか、お里も、人でなかったとは……。



 佐吉の体から、いっきに力が抜けた。



「……同じ穴のむじなだったのか」



 言って、へたりこむ佐吉に、



「まあ!あたしは、猫股だよ。むじななんかと一緒にしないでおくれ!」



 歯切れ良いお里の言葉が、浴びせかけられた。

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