碧珠は絶句している。他の侍女たちはくすくす笑っていた。
「あー、みんな、もうお湯は充分に入ったから下がってくれて大丈夫よ。あ、あなたは手伝ってくれる?」
そう言って、雲然は碧珠以外の侍女の人払いをした。これは日常的なことだったらしく、侍女たちは何の疑いもなく出て行った。今日は李元承一行をもてなさなければならないので、忙しいのもあるのだろう。
「雲然様は今年二十歳になられました」
碧珠は雲然が風呂桶の中に入るのを手伝いながら、ぽつりと言った。
「ええと、それって『行き遅れ』になってるかしら?」
雲然は、こそっと訊いてみる。
「ほぼ」
碧珠は言いにくそうに呟いた。八世紀では女性の適齢期は早いのだ。雲然は碧珠の言い方が面白くて微笑んだ。
「私、湖に飛び込んですっかり記憶が飛んでしまったみたい。湯浴みをしている間にいろいろ教えてくれる?」
「もちろんです」
碧珠は真顔で答える。
「門のところにいた中年男性がお父様よね。後から出て来た中年女性はお母様でよかったかしら?」
「その通りです。雲然様のお父様は
碧珠の答えに雲然はなるほどと思った。先程の母親や妹からの反応は、これでわかった気がした。
「あのう、辛いでしょうけど、昨日、紅珠が殺されたといういきさつを教えてくれる? それと、どうして私が疑われているかも」
「はい」
そう言うと、碧珠は私の髪を洗いながら少し考えていたが、やがて話し始めた。
「昨日の午後、雲然様と紅珠、そして私の三人は、お庭の
「まあ、優雅ね」
私がそう言うと碧珠は微笑んだ。
「そうなんです。雲然様は、いつも侍女の私たちを一緒に誘ってくださるのです。昨日はお天気も良く、暑くもなく寒くもなく、『
「今日、私が飛び込んだ湖ね」
「そうです。お屋敷の表側はなだらかな坂ですが、裏手は崖なのです。私たちはお庭や湖を眺めながら楽しく過ごしていたのですが、いきなり天候が変わり、雷が鳴り出しました。私は雨が降り出す前に雲然様をお屋敷に送り届け、紅珠が後片付けに残ることになりました。私が後で傘を持って四阿に戻る算段です。実際、雲然様と私がお屋敷に戻った途端、激しく雨が降り出しました。自分の傘を差し、紅珠の傘を持って四阿に引き返しましたが、そこには誰もいませんでした。食器類は籠の中に片付いていましたので、念のため紅珠の傘を四阿に残し、私は籠を持ってお屋敷に引き返しました。紅珠は何かの理由で、私と入れ違いにお屋敷に戻ったのだと思ったのです。
「ですが、お屋敷の中を探しましたが、紅珠はいませんでした。私は、土砂降りの雨の中、もう一度四阿に探しに行きました。今度は四阿から湖を覗いてみましたが、特に変わったところはないように思いました。でも、土砂降りでしたから、あまり遠くまでは見渡せませんでした。私はお屋敷に引き上げましたが、紅珠はまだ帰っていません。夜になって雨がやんでから、屋敷の男衆が周辺を探してくれ、桟橋近くで浮いている紅珠を発見したのです」
「それはお気の毒だったわ。でも、どうして私が殺したことになったのかしら」
今までの話では、自分に怪しいところは少しもない、と雲然は思った。
「それは楚然様が、雲然様が紅珠を四阿から突き落とすのを見た、とおっしゃったからなんです」
「何ですって?」
雲然は仰天した。
「楚然様は雨が降り始めた時お庭にいて、四阿に避難しようとしたらしいのです。そこで、雲然様と紅珠が言い争いをしているのを見たとおっしゃいました。そして、いきなり雲然様が、四阿の一番湖に張り出している所から紅珠を湖に突き落としたと」
雲然は絶句した。碧珠の話が本当なら、雨が降り出して以降、雲然が四阿で紅珠と二人でいた時間はないはずだ。
「楚然は、私と誰かを見間違えたのかしら。土砂降りだったし」
「楚然様はお小さい頃から、嘘ばかりついていました。いつも、自分の罪を侍女たちになすりつけるのです。紅珠も私もどんなに困ったことか」
(うわーっ、楚然は意地悪な上に嘘つきなのね。とんだトラブルメーカーの妹だわ。)
雲然はやっかいなことになったと思った。
「今回は何のために紅珠は嘘をついたのかしら?」
「私は楚然様自身が紅珠を湖に突き落としたと信じています」
碧珠は事もなげに言った。碧珠の気持ちはわかる。だが、それには証拠がない。今、四阿を見に行ったところで、何時間も土砂降りの後では、何の痕跡も残っていないだろう、と雲然は思った。四阿というのは、四本の柱の上に屋根が乗っているだけの、風通しの良い建物だ。周りに低い柵はあるだろうが、雨は入り放題のはずだ。
いったい、どうしたら自分への疑惑を解くことだできるのか。法医学者の雲然としては、紅珠の遺体を見せてもらう他はないと思った。
「あなたは、紅珠の遺体を見せてもらった?」
「いいえ。私が取り乱して大変だろうと、まだ見せてもらっていないのです。でも、こちらのお屋敷では、侍女といえども簡単なお葬式をしていただけますので、その時に見せてもらえるはずです」
まだ、紅珠の遺体が葬儀用に整えらえていなければいいが、と雲然は思った。
今や雲然は風呂桶から出て湯上り用の衣を着て、碧珠に髪を拭いてもらっているところだった。
「とにかく、紅珠は四阿から湖に落ちて溺れたのね。お屋敷の女性はみんな泳げないから」
雲然は確認のために碧珠に訊いた。
「ところが、そうじゃないんです。これは断言できます」
「え?」
「紅珠と私は海辺の村で育ったのです。そこは
「楚然やお屋敷の人たちは、あなたたちが泳げることを知っているの?」
「誰も知りません」
「どうして?」
「私たちがこのお屋敷に下女として売られて来たときは、私たちはまだ肌が日焼けして真っ黒だったんです。毎日海に潜っていましたからね。ここのような都周辺では、女性は『長白美』が良しとされるいるでしょう?」
「チョウハクビ? それは何? あ、私はよその国から来た人くらいに思って説明してね」
碧珠はふっと笑った。
「だんだん、そんな気分になっていたところです。雲然様は湖から上がられてからは、なんだか別人みたいなんですもの」
雲然は、その通りだと心の中で呟いていた。
「長は身長が高いこと、白は肌の色が白いこと、美は顔が美しいことを意味します。私たちはその白くなくてはならない肌が真っ黒だったので、みんなに馬鹿にされたんです。これで、色黒になる海女をやっていたなんて言ったら、もっと馬鹿にされるかも知れません。それで、紅珠と私は故郷での暮らしについて、一切話さないようにしようと誓い合いました。だから、私たちが泳げることは誰も知らないのです」
「そうだったの」
碧珠と紅珠の小さい頃からの苦労を思うと、もともとこの屋敷の住人ではない雲然も、何だか申し訳ない気分になった。