雲然が振り向くと、三頭の馬がこちらに向かって駆けて来るのが見えた。いずれも若い男性が乗っており、彼等もまた、雲然から見ると時代劇コスプレだった。
「お前たち、どうした」
先頭を走っていた馬が雲然のすぐ側で止まり、馬上の青年が声を掛ける。髪を高い所でお団子に結い、頭全体を帽子の様な布で包んでいる。雲然のゆったりとした服装とは違い、比較的体に沿った上着を着ていた。袖は幅がなく筒袖だ。肩にはマントをつけてる。青年は美しい顔立ちだが、いかにも身分の高い者が
林雲然は、いらっとした。確かに自分はずぶ濡れでみすぼらしいかも知れないが、そんなに下に見られるいわれはない。
「失礼な人ね。困っている女性にはもう少し親切にするべきだわ」
雲然はつんとしてそのまま歩き続けた。青年を見上げた碧珠の方は小さく悲鳴をあげ、瞬時に
「雲然様、この
碧珠は雲然の耳元で声を落として囁いた。
「監察司って警察署だっけ? 警官だったら何だって言うの? こっちは悪いことは何もしてないのよ。警官は市民に優しくするべきでしょう?」
雲然は相変わらずむくれている。だいたい、この青年は警官のような武官には見えなかった。
「何てことを! 李元承様は皇帝の第二皇子でもあるのですよ!」
碧珠の必死の囁きに、今度は雲然もはっとして、慌てて拱手した。いくら中身が現代人の雲然でも、皇帝の第二皇子がどれ程の身分かは理解できた。
(どうりで威張っているはずだわ。皇子なら大部分の人間は自分より身分が下ですものね)
「無礼な
追いついて来た二騎のうちの一騎の青年が、いまいましそうに言った。身なりは元承とほぼ同じだった。
「まあ、良い。この女子はずぶ濡れだ。訳を訊こうではないか」
話し方は冷たいが、意外にも李元承は怒った様子がなかった。雲然は顔を上げた。
「恐れながら申し上げます。私はこの先の屋敷の娘、林雲然と申す者です。侍女の周紅珠を殺害した疑いをかけられております。それを苦に自害しようと湖に飛び込みましたが、自分の手で自分の潔白を証明すべきと思い直し、今は屋敷に戻るところです」
雲然はしっかりした口調で決意を述べた。碧珠は雲然の話しぶりにぎょっとした。まるで、初めて会った人を見るように雲然を見た。
(身投げしたから濡れてるの! ついでにタイムリープだか異世界転移だかしてるんだけど、あなたに言ってもわからないでしょうね!)
雲然は元承に向って、頭の中ではこんなふうに付け足していた。
「ほう、それは面白い」
元承は興味津々と言った顔つきになった。
「私の馬に乗れ。屋敷まで連れて行ってやろう。ちょうど侍女の死亡の件で林家に向っていたところだ。屋敷に着いたら、その潔白の証明とやらを聴かせてもらおうか」
そう言うと元承は、自分の馬に雲然を引っ張り上げ、自分の前に座らせた。彼は肩にかけていたマントを外し、ふわりと雲然を包んだ。
「初夏といえども、まだ気温は低い。潔白の証明とやらを聴く前に、風邪をひかれては困るからな」
元承は冷たい口ぶりでつっけんどんにそう言った。
「あ、ありがとうございます」
雲然は礼を言いながらふと思った。
(あれ? この人は見た目よりも優しいのでは?)
一緒にいた青年の一人も元承を倣い、碧珠を自分の馬に引き上げた。
「それでは林家に向けて出発だ」
元承はそう言って馬を走らせた。その口調には、どこか楽しそうな響きが含まれていた。
李元承の一行が林家の屋敷に到着すると、上を下への大騒ぎとなった。何しろ元承はこの国の第二皇子であり、監察司の長官でもあるのだ。
「これは、これは、李元承様。このような
いつもは優雅にもったいぶっている
「街でこちらの家の噂を耳にしたので寄ってみた。道中で拾い物をしたぞ」
李元承は冷たい横柄な態度でそう言うと、自分のマントでくるんだ人物を林東平の前に押し出した。
「雲然ではないか。どうしたのだ」
東平は、濡れて髪がべったりとしている自分の娘を見て仰天し、心配そうな表情を浮かべた。
「早く湯浴みをさせてやれ。私はその女子の言い分を聞きに来たのだ」
元承はそう言い放ったが、その言葉の響きに雲然はどこか優しさを感じた。碧珠が進み出て雲然の手を取った。
「まあ、まあ、これはどうしたことですの? 雲然、あなたいったい何をしたの?」
煌びやかな中年女性がやって来た。雲然を見つけると、頭ごなしに鋭い言葉を投げつける。ここの娘の林雲然は、父には愛されているけれど、母には愛されていない、と二十一世紀の林雲然は直感した。
「話は後だ。早くしろ」
元承は中年女性には目もくれず、雲然と碧珠の後ろ姿に声をかけた。中年女性はその様子を見て、慌てて元承に拱手した。
雲然が碧珠に伴われて屋敷の中に入ると、これもまた飾り立てた若い女性が二人に近づいて来た。
「李元承様が来られたって本当なの?」
女性は嬉々として取り乱さんばかりだったが、雲然の様子を見ると胡散臭そうに鼻に皺を寄せた。
「まあ、汚い。こんな大事な時に、雲然ったら何て恰好をしているの? とてもじゃないけど、あなたを元承様にお目にはかけることはできないわね。あら、違った。あなたは人殺しだから、監察官の元承様に引き渡すべきだったわ」
そう言うとこの若い女性はそそくさと門前に向った。雲然ははっきりと、自分はこの女性に憎まれていると思った。何て刺激的な家庭!
「雲然様、
碧珠が耳元で囁く。あれは、私の姉か妹ってわけね、似た名前だもの。ふーん。雲然は湯浴みをすると同時に、この家の人々の情報を頭に叩き込まなければと思った。そこで頼りになるのは碧珠だ。
日当たりの良い、大きな部屋の一角に風呂桶が設置された。桶は細長い形をしており、長さは一メートルほど、幅は人の肩幅くらいだ。木製だったが、まわりに美しい花の模様が描かれ、湯浴みする人を楽しい気分にしようという心遣いがあった。次々に侍女たちが小さな桶を持って表れ、どんどん液体を満たしていった。沸かした熱いお湯と冷たい水を混ぜて、丁度いい温度にしてくれている。お風呂に入るにはこのように手間がかかるのだ。水面には小さな巾着袋が浮いている。各種のハーブが入っているらしく、とても良い香りがした。この世界の林雲然がお嬢様であることに、雲然は感謝した。
風呂に入る前に彼女は部屋を見回した。ここは、雲然自身の部屋なのだろう。調度品はどれも女性用で美しかった。中でも直径20センチほどの金色の板のような物に雲然の目は吸い寄せられた。八枚の花弁を持つ花のような形のそれには、鳥や草花の文様が描かれている。雲然が手に取って裏を返すと、ぴかぴかの磨き上げられた鏡が現れた。
(こういうの図鑑で見たことあるわ。確か
感嘆しながら、雲然は鏡に映る自分の顔を眺めた。なんと、二十一世紀の雲然とほぼ同じ顔だった。この世界でも私は私なのだ。しかし、こちらの方が幾分若い。
「あの、私って何歳だっけ?」
雲然は思わず碧珠に訊いた。
つづく