「
そう呼ばれた若い女性は、はっと我に帰った。
「どうしたの? ずっと手が止まってるけど」
声をかけて来たのは同僚の女性だ。二人は二十七歳、同期の法医学者だ。法医学の道は険しく、二人はまだまだ駆け出しだった。
「あ、ごめん、ごめん。ちょっと、ぼうっとしてた」
林雲然は頭をかいた。
ここは、病院の法医学部門。日々警察から遺体が運ばれて来る。彼女たち法医学者は、死因の特定や、場合によっては身元の特定のために解剖を行っている。現在、雲然と同僚は解剖用の装備を身に着けているところだった。
「何か私、時々古代の都市にいるような気分になるの。賑やかな大きな通りで両側に屋台が出ていたり、大道芸人が芸をしていたり……」
雲然は自分が時々不思議な幻影を見るのを説明しようとした。
「時代劇ドラマの見過ぎなんじゃないの? そんなだから、上司や同僚に『お花畑』って呼ばれるのよ。私服はいつもふわふわのスタイルだし」
同僚は手厳しかった。林雲然は、
「ああいう服が安心できるのよ。膝でスカートをちょっと蹴り上げる感じとか、足首に布がふわっとまとわりつく感じとか」
残念ながら、今二人が身に着けているのは、殺風景なディスポーザブル(使い捨て)の物だった。膝下20センチはある長い上着と、その上から着けたビニールの長いエプロン。これらは両方とも青色だった。これに半透明の帽子を被り、その上から透明なプラスチックのフェイスシールドをつけ、口には白いマスクをする。
林雲然の時たま表れる夢見るような雰囲気に、同僚はやれやれという表情をした。
「あなたは優秀なんだから、がんばってもらわないと。所長も期待して採用したそうよ」
「そんなこと言われても……。私、確かに小さい頃から一生懸命勉強したわ。まるで、何かに取り憑かれているかのように。それが何かは、わからないけれど」
二人は手を良く洗うと、順に三種類の手袋をはめていった。これで準備完成だ。
解剖室には十人ほどが集まっていた。
「みんな、こっちに来て。こちらが新しく届いた遺体だ」
解剖台の一つの側にいた所長が声を掛ける。
「遺体は二十五歳の女性、氏名は
壮年男性の所長がいつものように所員たちに問いかける。彼は所員に自発的に考えさせる方針を取っているのだ。
雲然は遺体を見、遺体の足の親指に付けてある名札を見て、途端に気分が悪くなった。こんなに調子が悪くなるのは、解剖を学ぶようになって初めてだ。今はもう、どんな遺体も大丈夫なはずだったのに。第一、この遺体はとても綺麗なのだ。紅珠、湖、濡れた遺体……。雲然は息苦しくなった、まるで水の中にいるようだ、息ができない……。
雲然はもがいていた。手足は実際に冷たい水をかいている。息が苦しい。
(待って、冷静になるのよ、雲然)
彼女は自分に言い聞かせた。もがくのをやめ、気持ちを落ち着かせる。
(泳げる、私は泳げるの)
そう、雲然は水泳が得意だった。上を見上げたると明るい。水は大して深くないのだ。雲然は勢いをつけて上に向って泳ぎ始めた。すぐに水面に顔が出た。新鮮な空気を吸う。空気はいつもと違ってどこか甘い香りがする。立ち泳ぎをしながら周りを見回した。大輪の蓮の花が咲き乱れており、美しかった。近くに桟橋がある。
(あら、私はあそこから落ちたのかしら?)
その桟橋をひとりの若い女性がこちらに向かって駆けて来た。
「雲然様! 雲然様!」
女性は雲然を見つけると、必死に叫び出した。雲然はすいっと桟橋に向って泳いだ。
「雲然様! 泳げるんですか?」
桟橋に手をかけて登ろうとしている雲然を助けながら、その女性は驚いて叫んだ。
「もちろんよ、小さい頃から水泳教室に通っているもの」
雲然は何の気なしに答えたが、その女性を間近に見て仰天した。二十歳ぐらいの可愛らしい女性なのだが、何とも変な恰好なのだ。まるで時代劇ドラマの古装のようだ。コスプレだろうか。
「何かお祭りでもあるの? それとも、ドラマかアニメのイベント? ええと、あなたはどなたでしたっけ?」
雲然は思わずそう訊いていた。女性は目を丸くする。
「雲然様、湖に飛び込まれたので記憶が混乱しているんですね。私は、
雲然はまじまじと碧珠と名乗る女性を見た。「紅珠の妹」ですって? 先程のご遺体も「紅珠」という名だった。でも、碧珠の顔はあの紅珠の顔とは全然似ていない。それにあの遺体は、髪をこんなに結い上げていなかったし、服装だって現代的だったわ。雲然は桟橋に座り込んでいる自分の服に目を向けて愕然とした。彼女自身の服装も、碧珠に負けず劣らずの古装だったからだ。上着の袖はゆったりとして長く、なんと胸の辺りからスカートらしきものが始まり、座っている自分の周りを取り巻いていた。更にその上から薄物の羽織物を纏っている。まあ、今はずぶ濡れだから全部台無しだけど。
「ああ、すみません、雲然様、気が動転しているのは私の方ですね。雲然様のお部屋の机にこれを見つけたものですから」
碧珠はずっと左手に握りしめていた細長く折った紙を差し出した。それは、雲然を助けて桟橋に上げるときに少し濡れていた。雲然はその紙が自分の濡れた手で台無しにならないように気を付けながらそっと開いた。中には墨で書かれた優美な楷書が並んでいる。まるで書道のお手本のような文字だが、その内容を読んで雲然は仰天した。
”お父様、先立つ不孝をお許しください。周紅珠を殺したのは私ではありません。私は湖で自害することにより、この身の潔白を証明します。
林 雲然”
「え、これって、私が周紅珠って人を殺したと疑われてるってこと?」
雲然は驚いて叫んだ。
「ええ。でも、そうじゃないことは、私が一番よくわかっています」
碧珠は雲然の目を見てきっぱりと言った。
林雲然と周碧珠は、桟橋を離れて湖畔の道を林家の屋敷に向って歩いていた。ゆるやかな坂の上にその立派な屋敷は見えており、桟橋から歩いて十分ほどの距離に思われた。
「すみません、雲然様。私、雲然様の書置きを見て慌てて湖に出て来てしまったので、何の用意もしていなくて。お屋敷に戻ったら、すぐに湯浴みの準備をしますね」
碧珠は隣を歩いている雲然をすまなそうに見た。雲然はずぶ濡れだった。
「大丈夫よ。私、水泳が好きだから濡れるのは平気」
雲然は強がって見せた。蓮の花が咲いているということは、今は初夏から晩夏の間だろうと思ったが、今日は少し肌寒かった。
「でも、変ですね。私は十年くらいお屋敷にお仕えしていますけど、雲然様が泳がれたのを見たことがありません。それどころか、はしたないという理由で、お屋敷の女性はどの身分の方もみんな、湖で泳ぐのは禁止されているはずです」
碧珠は湖を眺めながらそう言った。
雲然は何て答えていいかわからなかった。自分は「林雲然」という同じ名前で呼ばれているものの、どうやら別の世界にいるようなのだ。こちらの世界の雲然は泳いだことがないとは。
「あの、今は何年だったかしら? どなたの御代でしたっけ?」
雲然は恐る恐る訊いてみた。自分たちの服装から、かなり過去の時代にいる気がした。ただ、楷書の文字があるということは、さすがに紀元前とかではないはずだ。
「わあ、雲然様、そこもわからなくなってしまったんですか。今年は永暦十年、
碧珠は相変わらず、雲然が湖に身を投げたせいで記憶に混乱が生じていると思っていた。
(永暦十年、李元賢って、何帝だったかな。
雲然はかつて受験勉強で詰め込んだ、自分の歴史の知識を引っ張り出しながら驚いていた。ここは古代の国、央なのだ。
その時、後ろから馬の蹄の音が近づいて来た。
つづく