「やっぱり健斗と暮らしてるこの家は手放したくない。これから一生ここに住むかなんて分からないし仕事の都合で引っ越すこともあるかもしれないけど……。こんな形でこの場所を失ったらきっと一生後悔する。……そんな風に考える僕は薄情で自分勝手かな」
まるで俺の返事を聞くのが怖いかのように目の前のオムライスだけを見つめてそう言う湯井沢が悲しいくらい小さく見えて言葉に詰まった。
「僕が持ってる財産はこのマンションと別荘しかない。どちらも渡したくないってことは、あの人たちを見捨てることになるんだ」
「湯井沢……」
「あの家族の中に自分は入ってないって思い知ってたはずなのに。諦めてたのに。どうして見捨てることがこんなに苦しいんだろう」
こんなに根深く歪んだ思いをどうやって受け止めたらいいのか分からない。でもきっと分からなくていいんだと思った。例え俺が湯井沢と同じような環境で育ったとしても、同じ気持ちになるなんて不可能なんだから。
湯井沢の傷は湯井沢にしか分からないし治せない。
それなら俺は俺にできることをするまでだ。
静かに涙をこぼす湯井沢を抱きしめながら、この罪悪感を軽くするために俺はもっと詳しく継母たちの身辺を探ろうと決めた。
休み明け、俺はこっそりと東堂課長に会いに経理課に行った。
「サボり?」と揶揄われながらも防音のミーティングルームを借りて手にしていたコーヒを渡した。
「お願いがあるんです」
「健斗くんのお願いなら何でも聞くよ?どうしたのかな?」
「……詳しくは話せませんが湯井沢と彼の実家とで揉め事が起きてます。それを解決するために探偵みたいなことをしてる人を紹介してもらえませんか」
「探偵ねえ。なにか調べたいってことだよね?」
「はい。民間の業者も考えたんですが、相手が相手なんであまり外部に漏らしたくなくて。東堂課長ならその辺り信頼できる人をご存知だろうと思ってます。勿論ちゃんと仕事としてお願いするので報酬は支払います」
「いいよ。この前の当麻なんてどう?」
「えっ、当麻さん?」
そりゃ勿論あの有能な人を紹介してくれるなら言うことはない。けれどこんな依頼受けてくれるんだろうか……。
「お金のことは心配しないで。うちで抱えてる人間だから」
「いや、そんなわけにはいきません!」
「大丈夫だって。今うち平和で暇そうにしてるもん。サブスクだから別途料金は発生しませーん」
サブスクって……固定給与のことだよな?
「じゃあその給与の一部だけでも……」
「ひろくんのことなら俺だって助けたいんだ。それくらいはさせてよ。だってあいつは俺には助けを求めないだろ?いつも何もしてやれないのが歯痒いんだからさ」
「……ありがとうございます」
何だか申し訳ないが、当麻さんが手助けしてくれるなら百人力だ。
あの時一度会ったきりの人だが、何故かそう思わせる不思議な力を持った人だった。
「一つ条件があるんだけどいい?」
「はい」
「手に入れた情報はその都度ひろくんにもちゃんと伝えること。健斗くんだけで何かしようとしないように。ひろくんは実家のことになるとポンコツになっちゃうから、ちゃんと支えてやって欲しい」
「はい!必ず!」
「あ、当麻のことについては東堂の人間だって言わなくていいよ。健斗くんが別に雇った人だって言った方がひろくんの抵抗感がなさそうだし。もしそんな人いらないって言われたら困るしね」
「……ありがとうございます。それは様子を見て考えます」
「うん、そうして。東堂の人間はみんなひろくんの味方だよ。もちろんその伴侶である健斗くんもだけどね」
「は、伴侶……」
なんてことを……。顔が赤くなるじゃないか。
「やだなあ健斗くん。そんな顔でミーティングルームを出たら俺が密室でやらしいことしたみたいに思われるじゃないか」
「東堂課長!」
そんな物騒なことをむしろ嬉しそうにいう課長に俺は慌てて頬を擦った。
「大丈夫、普段と変わりません」
「うん、じゃあ当麻には終業後に連絡するように言っておく。電話番号教えていい?」
「はい、もちろんです。よろしくお願いします」
俺は深く頭を下げて部屋を出た。東堂課長はいつも通りのゆるさで手を振ってくれたので俺も冷静さを取り戻せた気がする。
……考えすぎたといいんだけどな。
継母のあの態度が本心なら何も問題はない。僅かではあるが俺の貯金を全部渡してもいいし、毎月の給料から仕送りをして助けることも出来る。
けれどもし芝居だったら。……まあ俺はそっちの線の方が濃厚だとは思ってるけど。もしそうならその時は二度と湯井沢に関われないくらいに徹底的に潰してやる。
そんなことを考えながら湯井沢の待つ仕事場に戻ると、美馬が紙袋と菓子折りを俺に差し出した。
「……なにこれ」
「週末に借りた服とお礼」
「ご丁寧にどうも」
どうやら墓参りの一件で俺に噛み付くのはやめたらしい。これで湯井沢への接触も減れば万々歳なんだが。
「わざわざクリーニングに出してくれたのか。安物なのに悪いな。サイズは大丈夫だったか?」
「うん、上は大丈夫だった。下は丈が足りなかったけどクロップドみたいでむしろ良かったよ」
え?お前それ嫌味抜きで言ってる?本心からのお礼なわけ?……まあここは奴を信じるとするか。
「はは、うんまあ……それなら良かったよ」
俺はサラッと流して今もらったばかりのお菓子を開け、真ん中の誰もいない机の上に置いた。
「あと、これなんだけど……」
「ん?」
美馬がおずおずと差し出してきたのは紙のチケットホルダーだった。
「なに?これ」
「俺が入ってる劇団のチケットなんだ。まあ趣味みたいなもんで素人も参加してるし、毎回チケットも手売りしてるくらいだから……」
もぞもぞと言い訳めいたことを言ってるが要は観に来いということなんだろうか。……芝居に限らず芸術方面には疎いが良いんだろうか?
「いつ?え?今日?」