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72話 美馬という男

 嫌気がさして会社に来ないんじゃないかと思っていた美馬は、今日もちゃっかりと湯井沢の隣の席に陣取っていた。


 こいつ……懲りてないな。


「美馬、お前の席はこっちだ」


 俺の隣を指さしてそう言うと案の定整った顔を歪めている。


「……よろしくお願いします」


 それでも社会人らしくそう挨拶して椅子に座ると黙ってパソコンを立ち上げて作業に取り掛かる。


「……お?ちゃんと出来てるな」


「当然です。僕は優秀なんです」


 ……じゃあやっぱり湯井沢に構って欲しくて出来ないフリしてたのか。

 本当にいけ好かない奴だな。


 だがこれが単に湯井沢に懐いてとかやましい下心があってだというならまだいい(良くないけど)だが、継母が差し向けたスパイだったとしたら湯井沢が危険だ。

 湯井沢の実家に不法侵入して彼を奪還した件に関しても継母からは何のリアクションもないと聞いている。不気味なくらい[なかったこと]になっている様子をみると嵐の前の静けさではないかと勘繰るのが普通だ。


 まあ騒ぎになって困るのは継母の方だからというのもあるだろうけど……。


「……沢渡さん」


「なに?」


「ここに入力するのはどの資料の数字でしたか」


「ああ、これだよ」


 俺は積んである書類から一枚を抜き出して美馬の目の前に置く。


「……沢渡さん」


「なんだよ」


「やっぱり湯井沢さんがいいです。戻してもらえないなら部長に掛け合います。沢渡さんの教え方が雑で覚えられないって」


 今の流れの何が雑だったと言うのか。湯井沢だったら「その書類の束のどっかにあったと思うよ」で終わっていたはず。

 ああ見えて結構スパルタだからな。


俺は美馬の方を見もせず「お好きにどうぞ?」とだけ返事する。


 しばらく黙っていたが、いい返しが思い浮かばなかったのだろう。悔しそうに唇を噛みパソコンに向き合う美馬。何だよ口だけかよ。

 ひとまず大人しく仕事を始めたので俺も自分の仕事にかかった。



集中すること約二時間、湯井沢が大きく伸びをして休憩にしようと言い出した。


「飲み物買って来てやるよ。美馬は何がいいんだ?」


 途端に拗ねた顔の美馬が口を尖らせた。

……なんだこいつ。


「湯井沢さん、俺のことは修二って呼んでくれるって言ったのに」


 こいつは……無理にそう呼べって言ったくせに……


「あはは、そうなんだけどやっぱり慣れないから美馬でいいよな?でないと今後一生美馬に話しかけられないかも」


 可愛らしい顔でそんなことを言う湯井沢に美馬の顔は青ざめた。


「い、いいです。美馬で。その代わり毎時毎分毎秒呼んでください」


「呼ばねーわ!」


 あっしまった。また俺が返事しちゃった。


「美馬って面白いな。嫌いじゃないぞ。じゃあ大人しくしとけよ?お前の好きそうな飲み物買って来てやるから。行こう健斗」


「あ、ああ」


 美馬が「嫌いじゃない」の部分に反応してぼーっとしてる隙に湯井沢が俺を部屋から連れ出した。

 え?湯井沢、好意をかわすの手慣れてない?

 そしてあの反応を見るに湯井沢に惚れちゃった方か。まあスパイじゃなければ良いけど。いや、やっぱり良くない。


「湯井沢……いや今日から浩之って呼んで良い?」


「だめ」


「なんで?」


 まさかの即答。


「お前こそなんでこのタイミングだよ。今まで下の名前で呼ぶ機会は沢山あっただろ。よりによって美馬を刺激しそうな今、許すわけないだろ」


「えー……」


 確かに。

 長い付き合いだからいくらでもそのタイミングはあった。

 けれど出会った時から「兄貴」って感じの頼れる存在だった湯井沢に浩之なんて呼び捨てはどうにも気が引けたのだ。


「じゃあ夜だけ」


「……それもだめ」


「え?なんで?!」


「夜だけって言い方がやらしいから」


「?!」


 俺の前を歩いているので顔は見えないが、その耳は赤く染まっている。


 俺の天使可愛くない?!


 俺は小走りで湯井沢に追いつき横に並んで彼を見下ろした。

 昔は大きいと思ってた湯井沢が、今じゃすっかり俺の腕に抱き込めるくらいのサイズ感になっている。

 それでも中身はカッコよくて男前な湯井沢。完璧な恋人だ。


「湯井沢」


「なんだよ」


「今夜も一緒に風呂に入る?」


 俺が彼の耳元で囁くと、吊りがちな目が更に吊り上がる。


あ、まずい……


そう気づいたが時はすでに遅く、俺は湯井沢から思い切りげんこつを喰らう羽目になった。。




「……遅かったですね」


 飲み物を持って部署に戻ると美馬が憮然とした顔で嫌味を言う。


「いやー二人だと話が弾んじゃってさ。二人だとね」


 俺が嫌味の応酬をすると、大人気ないと湯井沢が俺の足を踏んだ。


「いたた。ほら美馬、ありがたくいただけ。俺の奢りだ」


「……湯井沢さんから貰いたい」


 ほんとこいつブレないな。


 そうは言いつつも渋々受け取ったコーヒーで美馬も休憩を始めた。

コーヒーを片手にふうと気だるいため息をつく様子は液晶の先にいるような雰囲気を持っていて女子たちが騒ぐのも分かる気がする。こういうのをイケメンの無駄使いって言うんじゃないかな?


……芝居とは思えない湯井沢への態度で少し警戒心は薄れたが、それでもまだこいつの容疑が晴れたわけじゃない。


気を抜かないようにしないと……。

そう考えながら俺はコーヒーを口にした。




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