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39話 戻った記憶は

湯井沢side



水の音がする。

健斗がシャワーを浴びに行ったのか。

寝たふりをしていた僕はゆっくりと体を起こした。


もうとっくに枯れたと思っていた涙がじわりと目尻に溜まっていく。


今夜のことを忘れてますように……


健斗はそう言った。


後悔させてしまったのだ。

僕とのキスを。




どうしてあんな誘うようなマネをしてしまったんだろう。

正直、この家に来てしばらくしたら酔いは冷めていた。


なのに、健斗がくれたキスに欲が出たんだ。


「ほんと救いようがないな」


あんなに諦めると、親友でいると決めたのに。

今すぐにでもここを飛び出して大声で泣きたかった。けれど僕がいないことに気付いたら余計な心配させてしまうだろう。


僕は必死で涙を堪えて健斗がかけてくれた布団を頭から被って眠っているフリをした。 




明日目覚めたら昨夜のことは何も覚えてないことにしよう。


そう決めて目を閉じた。







    ************






朝目覚めると、元気になった湯井沢がキッチンで朝食を作っていた。

昨日のことはまったく覚えてないようで、いつも通りの彼に安堵すると同時に、少し寂しい気持ちになる。


勝手だなと自嘲しながら食べるトーストは、少し苦い焦げの味がした。




「……君たち酒臭いね」


昼休み、ランチを食べようと社食に行った俺たちは、東堂課長に嫌そうな顔をされた。


「まだ匂います?」


俺は服をくんくんと匂ってみたが、自分では分からない。


「それよりひろくん、シャツ大きくない?誰のシャツ?」


「ひろくん言うな」


「あー?もしかしてー?けん……うっ!!」


食事もせずニヤニヤしてる課長の足を、湯井沢が思い切り蹴った。


「ひどいなー。良かったなと思ってるのに。お兄さんは常にひろくんの味方だよ」


「課長、キモいです」


何を言われても笑顔は崩さず足をさすっている東堂課長は本当に打たれ強いメンタルの持ち主だ。


「飲みに行って帰れなくなったから健斗の家に転がり込んだだけですよ」


他人行儀に湯井沢が説明するも、彼は含みのある顔でそうか、と頷いただけだった。


なんだこの空気。

早く話題を変えよう。


「それにしても(まんぼう)があんなにあっさり社内の女子達に見つかるなんてすごいですね。昨日一回行っただけなのに」


実は休憩に入ってすぐにまんぼうに行ったのだが、女子たちが入口の辺りでソワソワとしていたので社食に逃げてきたのだ。


「健斗くん違うよー。社内の女子じゃなくてさどゆいの女子」


さどゆいの女子……


彼女たちが昨日の様子を見たら大変だな。

絶対気取られないようにしよう。


そんな俺の目に、唐揚げ定食とその汁物の代わりにチャーシュー麺を淡々と食べている湯井沢の姿が映った。



本当にいつも通りだ。


気を許すと余計な事を思い出してしまいそうだったので、意識を切り替えるために目の前の食事に集中した。




「健斗くん、叶さんのその後はどう?何か糸口掴めた?」


「絵に集中したいって言われてしばらく出入り禁止なんですよ」


「そうか……」


あんな状態で無理をしてほしくはないが、叶さんにも都合があるだろうし、そこまでの強制は出来ない。


「俺の方は週末に事務の人に会うことになったんだ」


「ああ、お絵描き教室に来たショーマと会ったことあるって人ですね」


「そうそう。健斗くんにも連絡するから友達登録させて」


「いいですよ」


そういえばいつでも会えるからと東堂課長の連絡先も知らなかった。

だが、彼がポケットから取り出した携帯を何故か湯井沢が取り上げてしまった。


「僕を介せばいいんじゃないかな?」


言い方は優しいが目は笑ってない。

それを見て課長は諦めたように苦笑いをした。



……そう思えば湯井沢は昔から、こうして俺に接触しようとする人間を遠ざけてたな。悪意のある無しは別にして。


自分の気持ちに気付いた俺は、それが嫉妬なら嬉しいのにと考えていた。









ようやく叶さんからメッセージが来たのは一週間もの音信不通を経てからの事だった。


「今夜来られる?」


いつものように、たったそれだけの短文だが、元気でいてくれたことにホッとする。


「お土産買って行きます」


返事をして今後のことを考えた。


まずはきちんと自分の気持ちを話そう。

そして自分にできる精一杯のことをしよう。


家族のような叶さんと今まで通り接することは出来るけど、いずれ恋人になったり籍を入れたりを考えるのであれば、もう今の俺はその期待に応えるのは難しい。


勝手だと怒るだろうか。

ずっと一緒にいると言ったのに。

その約束を違えようとしてるんだから。







「おかえりなさい!」


叶さんはまるで昨日会ったばかりのように俺を出迎えてくれた。


「……はい、お土産です」


けれど俺はいつものように「ただいま」と言うことが出来なかった。


「お腹すいたよね、ご飯にしよう」


「叶さん」


「なに?」


「話があります」


「先に?」


「はい、出来れば」


少し考えてから叶さんは頷き、リビングの俺の向かいの椅子に座った。


「実は一緒に暮らす話なんですけど……」


「うん」


「その……すみません」


「なにが?」


「えっと……」


ああ、なんて言えばいいんだ。ほんとだらしないな!俺は……


「……好きな人でも出来た?」


「……すみません」


もうまともに叶さんの顔が見られない。


「謝ることなんてないよ。湯井沢くんでしょ?」


「……どうして分かるんですか」


弾かれたように顔を上げた俺を、叶さんは面白そうに眺めた。


「いいよ」


「……えっ?」


「いいよって言ったの」


「どうして……」


「約束したから、湯井沢くんと。健斗が湯井沢くんを好きになったら僕は諦めるって」


「いつの間に……」


「最初から晶馬の代わりとしてしか健斗を見てなかったんだもん。引き止める権利なんてないよ。それにね、本当は僕からそう言おうと思ってたんだ。僕は健斗と一緒にいていい人間じゃなかった。ごめんね、今まで」


「どういう意味ですか?」


「記憶が戻ったんだよ。だからもうおしまい」


「……全部ですか?」


「そう全部」


そう言ってふんわりと笑う叶さんは今まで見たどの時よりも大人びていた。

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