その日の夜。
仕事を終えて叶の家に向かう俺は、不安しかなかった。
あれからもメッセージを送り続けたが、相変わらず返事はなく、今日も家は電気もついてない。
恐らくアトリエに篭りきりなんだろう。
彼の真意が読めない。
どこまで記憶を取り戻しているんだろうか。
俺は叶さんの家の玄関を開けて中に入った。
思った通り、リビングば真っ暗で、その先のアトリエからかろうじて光が漏れていた。
そのドアの前に立ち、小さくノックしながら彼の名前を呼ぶ。
「……健斗?」
「そうです。今帰りました」
ガチャ!
音を立てて扉が開き、叶さんが俺の腕に飛び込んで来た。
「どうしたんですか」
「寂しかったよ」
返事しなかったのは自分のくせに?
それでもいつも通りの彼に心を込めてハグを返した。
「ご飯……」
「何も食べてないでしょ?お弁当買ってきました。ここの美味しいんで食べて下さい」
「ありがと」
俺たちはリビングに移動して、テーブルの上に弁当を広げた。
「ピクニックみたいだね」
「そうですか?弁当っていうと侘しい一人暮らしの男って感じがして虚しいですけどね」
「そう?僕は好きだよ。でも確かに一人だと寂しいね。誰かと食べるお弁当だからいいのかも」
「そうですね」
「ピクニックとか行きたかったな」
「いいですね。もうすぐ紅葉だし今度は山に行きましょう」
「……連れてってくれるの?」
「勿論です」
「健斗だけだな。そんなに優しくしてくれたの」
「え?」
「施設でも小さくて弱くていつも虐められてたんだ。だから晶馬が好きだって言ってくれて本当に嬉しかった」
叶から昔の話を聞くのは初めてだ。
俺は固唾を飲んで話の行方を見守る。
「でもね、ダメだった。僕は一人の人に執着し過ぎるし、晶馬は一人の人で満足できない人だった」
「叶さん!」
思い出したのか?
「だから喧嘩ばっかりで一緒に遊びになんて行ったことなかったよ」
叶は俺の目を見てにこりと笑った。
「全部……思い出したんですか?」
「まだ完全じゃないよ。少しだけね」
俺はたまらなくなって叶さんを強く抱きしめた。
「大丈夫です。全部思い出しても俺が側にいますから!」
「うん、ありがとう」
少し気の抜けた返事で俺の背を抱く叶はまるで知らない人のようだった。
「今夜からこっちで暮らしますから」
「だって契約が……」
「そんなの空家賃払えばいいんです」
「からやちん?」
「分からなくていいです」
「そう?」
離れたらどこかに行ってしまいそうな様子に俺は焦って言葉を探した。
「そうだ、来月は出会ってちょうど三カ月ですよね!記念にこの前行った海に行きましょう!夏もいいですけど秋も波が少し荒くなっていい景色ですよ」
「ほんと?見て見たい」
「でしょう?凄いですよ、波の色も濃くなって……」
そうして色々と話しているうちに少しずつ、いつもの叶に戻ってきた。
俺は肩の力を抜いて安堵のため息を吐く。
「記念に何か欲しいものないですか?」
「欲しいものなんかないよ。健斗がずっと側にいてくれて、これからも沢山いろんなとこに行けたらいいな」
「行けますよ!行きましょう!」
「うん!」
そんな風に楽しい先の約束の話をしながら、ゆっくりと緊迫した空気をほどいて消していく。
そのうち叶さんが小さくあくびを始めたので、俺はそのまま彼を腕に抱いて夜を明かした。
「それで昨日と同じシャツってことか」
湯井沢は面白くなさそうにミルクティーをかき混ぜていたマドラーを俺に向かって振り回す。
「やめろ。服にシミがつくだろ」
話せって言うから話したのになんで不機嫌なんだよ。
「それで?もう一緒に住むんだろ?今日から引っ越しか?」
「いや、それが絵に専念したいからしばらく来ないでって言われたんだよな」
「あら早速夫婦喧嘩なの?でも相手が違うんじゃない?」
「うえっ?!」
「……笹野さん、いつからいたんですか?」
いつのまにか俺たちの後ろに静かに立っていた彼女に驚いて、変な声が出た。
「あら休憩室は誰でも使っていいんでしょ?それとも行き遅れのアラサーは来ちゃダメなの?」
め……めんどくさいな。
「今めんどくさいって思ったでしょ。そんなの自分が一番思ってるわ。私にだって色々あるの」
「……そうですね。すいません」
「健斗くん」
「はい!」
「後悔ないようにね」
「はい……え?」
「大事なものを無くすのは一瞬よ」
そう言うと、笹野さんは綺麗な目を潤ませながら走り去っていった。
なに?なんなの?
「笹野さん何かあったのかな」
「まあ、人それぞれ色々あるんじゃないの?」
そう言いながら湯井沢は何かを考え込んでいる。
「なあ、健斗」
「なんだよ」
「今夜暇だろ?飲みに行こうぜ」
「いいけど?」
まだご機嫌斜めみたいだし普段かまってやれない分、今日はパーッと飲みに行くか。
そうと決めたらいい店予約してやろ。
俺はウキウキとスマホで店探しを始めた。
夕方になり仕事を終えた俺たちは、お目当ての店に向かって歩いていた。
会社から徒歩十分。
しっかりとリサーチしていい感じの店を選んだつもりだ。
「ここか?」
「多分」
店構えは落ち着いた煉瓦造りのモダンな外装だ。
カウベルの付いたドアを開けて予約の名前を告げると半個室の一番奥の席に案内される。
「いいとこだな」
「だろ?」
俺は意気揚々と湯井沢に椅子を勧めた。
「でも……」
「なんだよ」
不満でもあるのか?
「まるでデートに来るような店じゃね?」
「……!!」
なんて事言うんだ。
途端に恥ずかしくなるだろうが!!
「ま、まあ。いつか叶さんと来るための下見だ」
そんな憎まれ口を叩いてしまうが、叶さんは外食などしない。
それを知らない湯井沢はムッとした顔でそっぽを向いた。