「早く行かないと」
「ん?」
「叶さんを待たせてるだろ」
「ああそうだな」
湯井沢が気を使って歩くピッチを上げる。
叶さんの為にそんな気遣いをしてくれることが俺はとても嬉しかった。
通い慣れたアパートの前を過ぎ、通い慣れた角を曲がって見慣れた家の前に着く。
すると俺の気配を感じ取ったかのように呼び鈴を鳴らす前に叶が家から飛び出してきた。
「健斗おかえり。あ!君が湯井沢くんだね?初めまして」
「初めまして、湯井沢浩之です。今日は急にすみません」
「健斗の友達なんだから遠慮しないで!中にどうぞ」
叶に誘われ俺たちはリビングに移動した。
そこには既に沢山の料理が並べられていた。
「わあ!すごいですね!全部手作りですか?」
「そうだよ。上手じゃないけど料理は好きなんだ」
「いや、叶さんの料理は美味しいです」
俺がそう言うと叶さんはにっこり笑って、ありがとうと言った。
お礼を言うのはこちらの方だ。
手間をかけさせまいと湯井沢とは外で会うつもりだったのに、自宅でもてなしたいと家に呼んでくれたのだ。
「さあ、冷めないうちにどうぞー」
「いただきます」
俺たちは自己紹介を交えつつ和やかに話に花を咲かせた。
食事が終わり、後片付けが始まると湯井沢が皿洗いの任務に名乗りを上げた。
「じゃあ俺も」
そう言って立ち上がろうとしたら湯井沢に押し戻され、ソファに倒れ込む。
「??」
「叶さんと二人で話がしたいんだ」
「なにを?」
「何でもいいだろ。健斗はここにいろよ」
「あ、うん」
初対面なのに二人で何の話があるんだろう。
まあいいか、湯井沢なら大丈夫だ。
俺はテーブルの上を拭き終わるとソファに座り直して暇つぶしに携帯を開いた。
湯井沢side
「あ、湯井沢くんありがとう。お皿持ってきてくれたんだね」
「いえ、こちらこそご馳走になっちゃって。美味しかったです」
顔まで泡だらけにして叶さんが皿を洗っている。僕は腕まくりをして積まれた皿の水洗いを手伝った。
「ありがとう。いい子だね。健斗なんて皿を洗ったら三枚に一枚は割っちゃうんだ」
楽しそうに健斗の話をする彼はとても幸せそうだ。
「健斗に聞きました。一緒に暮らすんですよね」
「うん、もう少し先だけど」
それっきり水と皿がぶつかる音だけが狭いキッチンに響く。
何とも言えない微妙な空気が流れている。
「湯井沢くん、ごめんね」
「何がですか?」
静寂を破ったのは叶さんだ。多分聞きたくないことを言われる。
僕は身構えた。
「湯井沢くん、健斗のことが好きなんだよね」
「……そうですね」
この人の前ではどんな誤魔化しも茶番になりそうだ。
僕はあっさり認めた。
「それなのに晶馬のことを盾にして健斗を手に入れようとしてる」
「でもそう仕向けたんでしょう?」
威嚇や嫌味じゃない。
欲しいものがあってそれを手に入れようとする行為は悪いことじゃない。
それさえ怖くて出来なかった僕には、なにを言う権利もなかった。
「初めて健斗を見た時に分かったんだ。彼といれば僕は一度亡くした晶馬と、また一緒にいられるって。図々しいよね」
恥じ入るように俯く綺麗なうなじ。
十も年上には見えない、よく言えば若く、悪く言えば幼稚な彼。
まあ、芸術家なんて得てしてそういうものなのかもしれない。
「それでも健斗はあなたを選んだんです」
「本当にそうかな」
オレンジめいた茶の瞳が揺れながら僕を見ていた。
「本当です。だから幸せになって貰わないと困ります」
あ、ヤバい。涙が出てきた。
そんな僕の頭を叶さんは洗い物を終えたばかりの少し湿った手で、ゆっくり撫でる。
幼い子供にするように。
「幸せになるよ」
優しい声色は僕の髪を撫でるリズムと重なり涙が止まらない。
「だから湯井沢くんも幸せになって」
「無理です」
馬鹿だな。
こんなこと言うつもりはなかったのに。
「健斗は僕のすべてです。あいつの側にいないと僕は普通の人でいられない。出来損ないの人間なんです。だから幸せにはなれない」
「そうだね」
そんな言葉さえ優しかった。
「僕も出来損ないだ。そして健斗の側にいる間だけ夢を見てられる。このまま一生、その夢を見ていたい。だから健斗には申し訳ないけど手放せないんだ」
それでも。
僕といるよりマシだ。
僕の尋常ではない執着はいつか健斗を苦しめる。
肉親への愛も自分への愛も、何もない僕はその全てで健斗をがんじがらめにしてしまうだろうから。
「でも、もし健斗がきみを好きになったらその時は潔く諦めるよ」
「え?」
「多分、今の健斗は誰でもいいんだ。それがたまたま僕だっただけなんだよ。でもこの先、本当に好きな人が現れたら諦める」
「叶さん……」
「それと一つ約束して。もし僕が何かでいなくなったら、健斗を幸せにしてあげて欲しい」
「いなくなったら?」
「勿論、簡単には離れないけどね」
「……僕も健斗から離れません」
「あはは!負けず嫌いだね!」
楽しそうに声を上げて笑う叶さんを見ていたら、何故か僕まで楽しくなってきた。
そして二人で笑い始めたら止まらなくなり、様子を見に来た健斗を酷く驚かせてしまった。
「今日はごちそうさまでした。おやすみなさい」
僕の挨拶に、こちらこそお土産ありがとうと返す叶さんは、先程の会話の時のように穏やかで優しい顔をしていた。
「じゃあ叶さん、俺も帰ります。おやすみなさい」
「うん、健斗はまた明日ね」
「はい」
住宅街は相変わらず静かで大通りより少し冷たい風が吹いている。
「どうだった?叶さん」
「うーん、好きにはなれないかな」
僕の返事に健斗は目に見えて焦り出した。
「ほんとに?仲良くして欲しいんだけど」
「あはは冗談だよ!」
「もっとわがままで冷たい、自分勝手な人を想像していたけど全然違った」
「そうだろ?ちょっと抜けてて目が離せないんだ」
自分が褒められたかのように嬉しそうな健斗。
ふんわりした雰囲気の二人はどことなく似てる気がする。
これから先、健斗が叶さんをちゃんと好きになったとしたら……
きっととてもお似合いの二人になるだろう。
路地を抜けると気温が上がった。
何故か、一気に夢から覚めたような気持ちになる。
「じゃあ、僕はここで」
「うちに寄ってかないのか?」
「もう遅いから帰るよ」
「わかった。じゃあ明日会社で」
「うん」
また明日。
そうだ。健斗と会えなくなったわけじゃない。
また明日。
そうやってずっとそばにいられるんだ。
寂しいことなんか何もない。
僕はそう自分に言い聞かせ、たった一人で前に向けて足を踏み出した。