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17話 湯井沢の過去

「残念ながら無名で趣味の延長みたいなもんだよ。細々と生活費だけ何とか稼いでるくらいだから名前は恥ずかしくて教えられない」


「本当ですか?でもあんまりここには絵を置いてないですね。描いたらすぐ売っちゃうんですか?」


「そうだね」


今この家にあるのは数冊のスケッチブックと描きかけの俺の絵、それに大き目のキャンバスに海の絵が、それも描きかけで置いてある。それが素晴らしい出来なのだ。

完成したらこの目で見られると思うと胸が高鳴る。


「もっと見たいな」


「運が良ければどこかで目に触れるかもね」


「……意地悪ですね」


俺は拗ねて顔を逸らした。


「でも実は昔ね、健斗の入院してた病院にお絵描き教室の先生で行ったことあるんだよ」


「ええっ?俺たち会ってます?」


「残念ながら見覚えはないんだよねー」


「まあ確かに絵心はなかったので俺の参加率は低かったです」


「じゃあ仕方ないね」


そう言うと叶は笑いながら鉛筆を置き、俺の膝の上に向かい合わせで座った。

そして互いの鼓動を感じるように胸をピッタリと合わる。


「でもこれからはずっと一緒だよ」


「そうですね」


俺は体温の低い叶のひんやり気持ちいい体を抱きしめながら頷いた。













翌日は残業もそこそこに会社を飛び出し、二人で叶へのお土産を探しに駅前に足を延ばした。


「こんなに並ぶのかよ」


人気のショコラティエがいると話題の店があり、湯井沢がどうしてもここがいいと言うので、長い列に並ぶ。


「暇だから僕の家族の話しようか」


「こんなとこで??」


随分と突然だな。


俺は周りをそっと伺った。

確かにみんなカップルで、自分たちの世界に入ってるから聞き耳なんて立てないだろうけど。


「聞きたいんだろ?」


「そうなんだけど、今じゃなくてもいいよ」


センシティブな情報はもう少し大事にして欲しい。


「別にいいよ、隠してるわけでもないし。お前だって色々噂知ってるだろ」


……まあ学生時代はしょっちゅう彼の家庭事情が囁かれていた。

湯井沢と継母の親子仲の悪さとか、弟の傍若無人ぶりとか。

だから湯井沢本人の耳に入ることも多かったと思う。


そんなつらい話を彼自身にさせていいんだろうか……


「うちは父親と継母と弟の四人家族で」


あれ?もう始まっちゃった?


心配をよそに淡々と言葉を紡ぐ湯井沢に、俺は慌てて心の準備をする。


「実の母親は僕が三歳の時に事故で死んだ。母親が死んですぐに父親が再婚してその翌月に弟が生まれた」


「翌月に?じゃあ弟とは血は繋がってないのか」


「いや、父親の子だった」


……計算が合わないな。


「継母も再婚当初は最低限の世話はしてくれてたんだ。食事とか洗濯とかな。弟が生まれたのも嬉しかったし普通に弟も可愛がってた」


「うん」


「それがその弟が小学校に入った頃から段々継母の当たりがキツくなってきた。弟との頭の出来の差があの人をイラつかせたみたいだ」


「ああ確かに中学以降も湯井沢の成績は常にトップだったもんな」


それに引き換え弟はとんでもなく頭が悪くて、口だけは達者な捻くれ者だと聞いている。


「中学に入る前くらいから、ろくに食事も貰えなくなった。テキストやプリントも破られるから毎日遅くまで学校に残って勉強してたんだ。ある時腹が減り過ぎて倒れたんだけど、運び込まれたのが東堂病院で、そこで初めて従兄弟である東堂課長に会ったんだ」


俺は絶句した。


成長期の子供になんて酷い仕打ちをするんだろう。


「東堂家は母が死んだ事も知らなかった。それからたまにご飯を食べさせて貰ったり昼飯代を貰ったりしてなんとか過ごしてたんだけど、丁度そのくらいの時にお前と出会った。あとは知ってるだろ?これで終わり」


……あっさりしすぎじゃない?

箇条書きの台本を読んでるような口ぶりで淡々と自分の人生を語る湯井沢に胸が痛む。


「父親は?」


「あの人は継母に惚れ込んでるからな。僕が何をされてても見て見ぬ振りだよ」


「なんだそれ最低だな。じゃあ課長の家に引き取られた方が良かったんじゃないか?」


そうすれば今よりマシな人生を送れたはずだ。


「東堂課長含め親戚には親と喧嘩して食事を抜かれたくらいしか言ってないから」


「なんで?」


「うちの親、駆け落ちしたんだよ。それなのにその子供が本家に面倒かけるなんて恥ずかしかったし……」


「……し?」


「東堂の家に行くと中学の校区が変わって転校しないといけなかったから」


「確かに馴染んだ学校を変わるのは勇気がいるだろうけどそんな場合じゃないだろ?」


「僕には転校することの方が大ごとだったんだ」


湯井沢はそう言って俺を見つめた。

その目は今まで見た事もないようなもので、俺は戸惑いながらそれを見つめ返す。


だが、すぐに我に返ったような湯井沢は、視線を逸らし行列の先頭あたりを見た。


「そろそろじゃないか?」


「え?あ、ほんとだ」


「五組目までのお客様、ご注文お伺いいたします!こちらにどうぞ!」


女性店員の溌剌とした声が路地に響く。

俺たちは流れに身を任せるように店内に足を踏み入れた。






スイーツ店の袋を下げていつもの大通りを歩く頃には、俺たちの雰囲気もいつも通りに戻っていた。

合間に大学の頃の思い出話を挟みながら俺は湯井沢をナビゲートする。


「こんなとこに路地があったんだ」


興味津々で住宅街を眺める湯井沢。


「な?意外だろ?レトロで雰囲気があって結構好きなんだ」


俺は自分の手柄のように近所を案内をした。


「今回のモール出店で、ここ以外の古い住宅は全部立ち退きになったもんな。ここもいつかは無くなるのかな」


「可能性はあるな」


沢山の住宅が建ち並んでいるけれど、子供の声は聞こえた事がない。

小さな限界集落の真ん中に叶は一人で住んでいるのだ。

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