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8話 秘密の部屋

「お久しぶりです」


「そうね」


「……」


「……」


「じゃあ、俺はこれで」


そう言って立ち上がりかけた時、テーブルに置いた俺のコーヒーが奪われてしまった。


「湯井沢くん元気なの」


「はい、元気です」


「そう」


あ、別れたのに元気って言っちゃダメだったか。

そう思わせるほど笹野さんはやつれていた。


「いや、元気なのはちょっとだけでした」


「意味のわからない気遣いはやめて」


「ごめんなさい」


二人がどんな話をしてどんな風に別れを選んだのか俺は何も知らない。だからそのせいで何を言っても地雷になりそうで口が開けない。


何だこの苦行。



しばらく黙っていた笹野さんはふと薄い唇を開いた。


「私が悪いの、最初からちゃんと湯井沢くんと約束してたし、自分も納得したはずだったのに」


話しかけているわけではないのだろう。独り言のような音量のその呟きを俺は黙って聞いていた。

甘い甘いミルクティーを飲みながら。


けれど約束ってなんだろう。二人は好き合って付き合ってたんじゃないのか?

俺は好奇心に抗いきれず口を開いた。


「あの」


「うるさい」


「すいません」


謎は謎のまま笹野さんの手元のコーヒーだけが砂時計のように少しずつ減っていく。


「なんか吹っ切れたわ。こう見えて本気だったんだけどね。ヤキモチ妬かせようと下らない事をするくらいには」


そう言ってふふっと笑い、残ったコーヒーを勢いよく飲み切った笹野さんは、何だかとても格好よく見えた。







「おかえり」


女子たちは自分の部署に戻ったのかデスク周りはすっかり静かになっていた。湯井沢は何故か額に冷感シートを貼って俺を待っている。


「はい、ミルクティー」


「ありがとう」


「あれ?健斗もミルクティー?珍しいな」


「色々ありまして」


「ふぅん?」


湯井沢のミルクティーは俺が口をつけてしまったから結局買い直した。どうせなら笹野さんがミルクティーを飲んでくれたら俺はコーヒーを飲めたのに。


……でも

以前の笹野さんのイメージはコーヒーよりミルクティーだったが今日はブラックのコーヒーがよく似合ってた。もしかしたら今日の姿の方が本当の笹野さんなのかもしれない。

湯井沢だって俺の前では頭のいいしっかり者だけど世間的には甘え上手で可愛い弟キャラだもんな。


「湯井沢」


「なに」


「俺に見せてるのが本当のお前だよな?」


「当たり前だろ、何年の付き合いだと思ってんだよ。糖分で脳がやられたのか?」


「ふふっ」


「何で嬉しそうなんだよ、気持ち悪いな」


湯井沢はすごく嫌そうな顔をして額の冷感シートをぺりと剥がした。そんな素の姿の湯井沢が可愛く見えて俺は一人で笑いを堪えた。











叶さんから「帰りに家に寄って欲しい」と携帯にメッセージがあったのは夕方頃だった。

俺は昨日教えられた道を辿りながら彼の家を目指す。


大学の頃から馴染んだ街なのにこんなところに路地があったなんて知らなかった。この近くの居酒屋は再開発で廃業すると言っていたがここまで及ばなくて良かったと思う。ありふれているけれど静かで昔懐かしい住宅街だ。


家に着き、インターフォンを探していると、引き戸をカラカラと開けて叶さんが顔を出す。


「おかえり、早く入って。暑いから喉乾いたでしょ?」


ペタペタと廊下を歩く叶さんの足音。

淹れたてのコーヒーの香りや壁のシミにまで切ない気持ちが溢れ、俺は自然に「ただいま」と呟いていた。


「ごめんね連日呼び出して。会いたくて我慢できなかったんだ」


自分より十は年上のはずの彼の屈託のない笑顔に思わず顔が綻む。


「はい、冷たいコーヒー」


差し出されたグラスは昨日見せてもらったペアの片割れだ。俺が使っていいものか少し悩んだが考えないことにした。


「ねえ、お願いがあるんだ」


「なんですか?」


「絵のモデルになってくれない?」


「俺が?それはちょっと恥ずかしい……」


散々湯井沢にゴリラゴリラと揶揄われている容姿だ。絵にして後世に残すなんて烏滸がましい。


「まずはアトリエに来てみて。寛げると思うから!座って本でも読んでてくれたら勝手に描くからさ」


そう言って俺の腕を掴んで引っ張る。


この細い腕のどこにそんな力があるのだろうと不思議に思うくらいそのままグイグイと手を引かれて廊下の端まで辿り着いた。


「ここだよ。僕の秘密の部屋」


家の一番奥まった所にある、様々な花を彫り込み意匠を凝らした木のドア。平凡な日本家屋のここだけが別世界の入り口のようだ。きっと叶さんにとって宝箱のような場所なんだろうな。


「どうぞ」


「お邪魔しま……え?」


ドアが開いた瞬間、本当に異世界に来たのかと思った。

その部屋は天井から壁、床に至るまで全て真っ白に塗られていた。

窓の一つもない箱形の空間、その中央にはイーゼルにかけられた一枚の白いキャンバス。そして向かいに置かれた一脚の椅子。


それだけ。

この広い部屋にあるのはそれだけだった。



叶さんはここで寛げるのか?

俺は多分だけど無理だと思う。

モデルを引き受けたことを後悔するレベルで。



「どんなポーズでもいいよ。居眠りしてても大丈夫」

「はあ」


ここで居眠りするには薬でも盛られないと無理かもしれない。俺は仕方なく行儀良く椅子に座って正面を見た。


「ふふっ」


「なんですか?」


「こんなにじっくりと顔が見られて嬉しい」


「俺の顔でいいんですか?」


「勿論だよ。だって君は生きて呼吸して笑ってる」


確かにそれはそうだけど。


「モデルをお願いしたのは君の姿を残したいというのもあったんだけど」


そう言うと叶はゆっくりした足取りで近づく。


「引き受けて貰えたら君は毎日ここに来てくれるでしょ?だからだよ」


そんなことしなくても望まれればいつだって来るのに。だってずっと側にいるって約束したんだから。



「叶さん?」


白く華奢な手が俺の心臓の上に重ねられる。

そこは酷くゆっくりと鼓動を刻んでいた。


「晶馬が帰ってきたみたいだ」


うっとりと呟き、彼は椅子に座った俺の膝の上に横坐りに乗り上げ心臓に耳を当てた。


長めの髪の隙間から見える華奢な彼の首筋が寒そうで、俺は思わず両手でその体ごとそっと抱きしめる。柔らかい髪が俺の頬をくすぐった。


落ち着く……


今まで何かにこんなにしっくりきた事があっただろうか。まるでパズルのピースがピッタリはまったみたいに心地よい一体感を感じる。


そしていつの間にかそのまま眠りの波にゆったりと攫われていった。





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