今度こそ話を聞くんだ。俺は必死になって痩せた背中を追いかける。
目の前の信号は赤。
チャンスだ。
俺は立ち止まったその人の細い肩を少し乱暴に掴んだ。
「なんですか?」
「すいません!あの……!」
その人が振り向いた瞬間、俺は何かで殴られたような衝撃を覚え、言葉を無くした。
初めて知る感情が激しく俺を揺さぶり、周りの景色が歪んでぐるぐると回り出す。
それは悲しくて切なくて愛しくて憎くて可哀想な……言葉にできないものだった。
初めて夢でこの人を見た時のように知らないうちに涙がポロポロと溢れる。
そんな俺をその人は呆気にとられた顔で見ていたが、そのうち何かに気づいたように大きく目を見開いた。
そして色のない薄い唇で小さく「しょうま……」と呟いた。
その後、俺は招かれるままに彼の自宅を訪れた。
大通りから二駅ほどの住宅街の小さな平屋の一軒家で、俺が通っていた大学のすぐ側だったからもしかすると昔すれ違うこともあったかもしれない。
俺はと言えば出されたお茶を飲み少し落ち着いてきて、湯井沢を置き去りにして来たことを思い出していた。
連絡を取らなければ心配させると頭では分かっているのに、何故だか彼から目が離せない。
静かに目の前に座っている
不健康に青い肌も、痩せすぎな見た目も、子供っぽい喋り方まで俺は全部知っている。……いや、思い出したと言った方が正しいだろうか。
そう、俺はこの人を知ってる。
「名前を聞いてもいい?」
「佐渡健斗と言います」
「健斗……」
飴を転がすみたいな甘い声で俺の名前を繰り返す。
「君がどうして僕に声をかけたのか知ってるよ」
「え?」
「晶馬のことだよね?」
晶馬?それが夢に出て来たもう一人の名前だろうか。
「聞かせて下さい」
何故あんな夢を見るのか
何故会ったこともない貴方のことを知っているのか
何故貴方を見た時にこんなにも胸が高鳴ったのかも
叶が語った内容は湯井沢の推測通りだった。
やはり夢に出てきた男が心臓提供者だったのだ。
叶は
彼は医療機器の営業をしており、その関係で臓器提供カードを持っていたという。
「本当に突然だった」
叶は寂しそうに晶馬が命を落とした事故のことを語る。夜中にふらふらと歩いていてトラックに跳ねられたそうだが、酔っていたわけでもなく悩みがあったわけでもないのだと言う。
「その日はいつも通りに晩御飯を食べてその日あったことを話して。本当にいつも通りの日だった。仕事が立て込んでいた僕は彼に先に寝るよう言ったんだ」
叶は絵を描く仕事をしていると言っていた。そう言われてみれば記憶の断片に絵の具や描きかけのキャンバスが浮かぶ。
「てっきり部屋で眠っていると思ってたんだけど寝室に居なかった。探しに出たら近くの公道で事故があったと大騒ぎになってて、それが晶馬だったんだ」
「その心臓を俺が貰ったってことですね」
「……彼に身寄りはなかった。だからパートナーの僕が承諾したんだ」
叶は俯き肩を震わせる。
俺はそんな彼を見て無性に抱きしめたい衝動に駆られた。伸ばそうとした指を僅かな理性で押し留め、グッと拳を握る。
この気持ちは晶馬さんのものだ。臓器に記憶があると言うのは本当だった。
「健斗くん、俺のそばにいて」
涙で濡れた顔を上げ、叶が俺《》を見つめる。
「晶馬の代わりに」という声なき声が聞こえた気がしたのは俺の罪悪感からだろうか。
けれど悲しみにくれる表情の中、その瞳だけは生き生きと輝いていた。ほんの僅かだが頭の中に警鐘が鳴る。
「健斗……」
けれど悲痛な叫びにも似た囁きに意識は混乱し、俺はそれ以上何も考えられずその違和感をごくりと飲み込んで無かったことにした。
「……叶さん。側にいます。だからもう泣かないで下さい」
そうだ。これは新しい命をもらった俺の義務なんだ。
「ほんと?」
叶はその言葉を待っていたかのように俺の胸に飛び込んできた。
湯井沢side
「健斗!!」
大通りの人混みの中、目的の人を見つけたらしい健斗は凄い勢いで走り出した。他の人より少し高い位置にある頭を目印に必死で追いかけるがなかなか追い付けない。
この先は信号だ。焦らなくてもそこで二人を捕まえられる。そう思いながら交差点に辿り着くが健斗はどこにも見当たらない。
そんなはずはない。ここは一本道だ。
僕はギリッと奥歯を噛み締めた。
あの人が本当に臓器提供者の恋人だったら……そして臓器に本当に記憶が宿るのなら……
健斗をあの人と二人にしちゃいけない。
僕は何度も電話やメッセージを送った。けれど全く反応がない。得体の知れない不安が焦りを生む。けれど待つしかないのだ。
僕は置き捨てられた鞄や上着を持ってひとまず健斗の自宅へ向かった。
いつまで待てば帰って来るんだろう。いや、そもそも帰って来るんだろうか。そんな恐ろしい考えがふっと頭をよぎる。
僕は健斗の家のドアの前にうずくまって、かれこれ二時間も広がり始めた夕闇を見ていた。
その間も健斗からの連絡はない。
膝に顔を伏せて大きなため息をつく。
そして健斗と初めて会った時のことを思い出していた。
出会いは中学生の時だった。入退院を繰り返していた健斗とは入学してから半年以上も経ってからの初対面だったがそのインパクトは絶大だった。
その日、僕は委員会の仕事でいつものようにウサギの餌やりに励んでいた。ウサギというのは可愛い見た目にそぐわず気性の荒い生き物で、柵の中に餌を放り込むだけだと強いウサギが全部独り占めして食べてしまう。他の生徒は面倒だからと餌を投げ入れてすぐ帰ってしまうが僕は最後までちゃんと全員が食べ終わるのを見届けるのが日課になっていた。
そこへ、天使が現れたのだ。
「すみません、迷っちゃって。一年二組の教室はどこですか」
静かな優しい声。
そして少し長めの艶々した綺麗な黒髪に、雪みたいに白い肌、そして大きな目に長いまつ毛。
クラスのやかましく派手な女子とは違い、お姫様みたいなたおやかさのあるその人に
僕は初めて恋をした。
その後、偶然にも同じクラスだった僕はドキドキしながら健斗を教室に案内したのだが、自己紹介で彼が男だと知り即座に失恋をした。
あの時の衝撃は凄まじかったな。
けれど運動も出来ず勉強も追いついてない健斗が、柵の中の子ウサギと重なって、結果的につきっきりで世話を焼くようになったのだ。
移植手術を受けた後はあっさり僕の背を抜かし可愛かった容姿は男らしさが勝るようになったけど、中身は変わらず天然で優しくて騙されやすくお人よしだ。
やたらと女子にモテるようになっても健斗が未だ子ウサギな事に変わりはない。
庇護欲を拗らせた僕は健斗に悪い虫を近寄らせまいと、偶然を装い全ての進路を健斗と同じにした。流石に就職先まで同じなのはやり過ぎだろうと自分でも思ったが、健斗は無邪気に偶然だなあ嬉しいよと笑ってたっけ。
けれど
その笑顔を見た時に
胸にストンと落ちてくる自分の感情に気が付いた。
拗らせてるのは庇護欲じゃない。
恋だ。
僕の初恋は終わってなかったのだ。