「それで?一体何をされたの?」
「何って……」
ひとまずデスクに戻ると、湯井沢がチャームポイントのはずの猫目を恐ろしいほど吊り上げて眉間に皺を寄せている。この顔を湯井沢ファンクラブの新卒女子達に見せてやりたかったが、定時を過ぎた部署にはもう誰もいない。勤め先がホワイト企業で悔しい思いをしたのは初めてだ。
「助けを求めてただろ?東堂課長に何かされたのか?あんな風に逃げ出すなんて」
「あ、ああ」
そうだった。でも結果的に大騒ぎしてしまったが、実は早く帰りたかっただけとは言いにくい。ここはちゃんと一から説明しないと湯井沢も納得しないだろう。
「実は笹野さんにお前の事で相談があるって言われて、あの会議室を取ったんだけどな」
「はぁ??」
まてまて。なんで更に目がすわるんだ?
「それで、終業後に移動して話を聞いてたら、俺の家に行きたいって言われて」
「それで?」
「どうしようかと思ってたら、東堂課長が通りすがりに助けてくれたんだ」
「……家に行きたい?あの女が、健斗の……?」
湯井沢、今舌打ちした?
「誤解すんなよ?俺にやましい気持ちはないぞ。あの人は一途に湯井沢のことを好きなんだ。お前はもうちょっと笹野さんに優しく……」
「もういい。それで?それがなんでその後、東堂課長とあんな近い距離で喋ってたんだよ」
「さあ」
いきなり隣の席に座ったのは東堂課長だ。俺に聞かれても分からない。
それに相手は男だぞと言いそうになって夢に出てくる二人を思い出して口籠もる。いや、それにしても湯井沢は心配して駆けつけてくれたんだ。ちゃんと謝ろう。
「心配させたのは悪かったよ。そんなんじゃなくて、カフェバーに誘われたから面倒くさくてついお前に助けを求めちゃったんだ。巻き込んでごめん」
恐る恐る湯井沢を見ると、複雑そうだがひとまず鬼のような顔は元のお綺麗な状態に戻っていた。
……よかった。
「笹野さんの件は申し訳なかった。僕がもう二度と健斗にちょっかい出さないように話をつけておく」
「そうしてくれればありがたい」
俺はしばらく忙しくなりそうだし、これがきっかけで笹野さんと仲直りしてくれたら万々歳だ。
「健斗、お前は本当に鈍感だよな」
「は?なんだと?」
「でも、そんなところも好きなんだよな。悔しいけど」
「?そうか、ありがとう?」
……まあ、嫌いだったらこんなに長く付き合ってないだろうしな。一言多いけど。
「俺もお前が好きだぜ。これからもよろしくな、相棒!」
「……」
俺がとびきりの笑顔でそう返事したのに、湯井沢は嫌そうな顔をして俺に背を向ける。
おい、なんだよその反応。本当にこいつは何考えてるのかわかんないんだよな。
「もう帰るぞ」
「えっ、ちょっと待ってくれ」
俺は慌ててデスクに置きっぱなしの鞄と上着を掴み、さっさと部屋を出ようとする湯井沢の後を追いかけた。
翌日の昼休憩、俺は湯井沢を社食に誘った。昨日はなんとなく話しそびれた「夢に出てくる人に会った」ということを伝えておいた方がいいと思ったのだ。案の定、奴は凄い食いつきで自分も探すのを手伝うと言った。まあ、目は二つより四つの方が見つけやすいし、俺に断る理由はない。
「早速今日から張り込もうぜ」
「ああ、じゃあ、さっさと仕事を片付けないとな」
そんな話をしながら俺は目の前の大盛りランチに意識を戻す。今日の日替わりは社食で一番人気の唐揚げ定食だ。ウキウキしながら揚げたての鶏肉にレモンを絞ろうとしていると、隣の椅子がガタリと引かれた。
「やあ、また会ったね」
聞き覚えのある声に顔を上げると東堂課長が鴨南蛮うどんの載ったトレーを持って俺の隣に腰を下ろした所だった。
なぜ隣に?そして唐揚げの日なのになぜ敢えてのうどん?鴨は確かに美味しいけども。
「……東堂課長、お疲れ様です。昨日はありがとうございました。そして、失礼しました」
昨日の今日で気まずいが、社会人たるもの礼を欠いてはいけない。俺は座ったままではあるが深々とお辞儀をした。
「いいんだよ。急ぎの用があったんだろ?また時間のある時に飲みにでも行こうよ」
「え?どうして」
思わず本音がぽろっと飛び出す。だって部署も違うし面識もほとんどない。そんな相手と飲みに行きたい理由なんて酒が大好き以外思い当たらないが。
俺、酒そんなに好きじゃないんだよな~。
モヤモヤとなんて答えるか考え込んでいると、湯井沢が「東堂課長、パワハラですよ」と吐き捨てるように言った。
うわ!その言い方はちょっと。むしろ逆パワハラになるのでは。
「君には関係ないよね?湯井沢くん」
「嫌がる部下を飲みに誘うなんて今時ありえないです」
「佐渡くんは嫌なのかい?」
「えっ?!いやそんな……」
返事しにくい事聞かないでほしい。
「健斗は当分僕と毎日帰るので、無理ですね」
「ずいぶん仲良いんだね?それより笹野さんを手酷く振ったらしいじゃないか。秘書室にこもって朝から泣いてるらしいよ」
えっ……えっ???
「湯井沢!」
「健斗は黙ってて」
「はい」
昨日早速何かあったのか?それにしても別れちゃったのか。お似合いだったのに。いや、そんなことより目の前の険悪な二人をどうにかしなければ。仕方ない。ここは課長の希望通り飲みに行くか。
「承知しました東堂課長。それでは営業部の皆の予定を聞いておきます。擦り合わせたら候補日をいくつか挙げますので社内メールでご連絡してもいいですか」
「え?」
なに?どうしてそんなに驚いた顔を?飲みに行きたかったんですよね??
「あーいや、当分忙しいのでまたにしよう」
東堂課長はそれだけ言うと、まだ食べかけの食器を持って行ってしまった。
「え?なんか悪い事言った?」
慌てて湯井沢の方を見ると奴は腹を抱えて笑っている。
「なんだよ湯井沢」
「いや、なんでもないナイス返しだ」
「?」
腑に落ちないが笑っている湯井沢がここ最近で一番上機嫌だったので、俺も嬉しくなってそれ以上追求するのを止めた。
それから二ヶ月、俺たちは休みなく例の大通りで人波を眺め続けた。いつの間にか季節は春から初夏に変わり、じんわりと汗ばむほどになっている。けれどあれから夢でみた彼には会えないままだった。
「ごめんな湯井沢」
「気にすんな。そう簡単に見つかるなんて思ってないよ」
ビルの陰にいるとはいえ、湿気を含む空気は重く体にまとわりつく。湯井沢の額にもふわりと汗が浮いていた。
こいつは汗をかいてても涼しげなんだよな。色が白いからかな。美しくさえ見えるその雫に見惚れていると、ふいに彼がこちらを見た。
「なんだよ」
「いや、なんでもない」
まるでいけない事をしたような、バツが悪い気分で慌てて目を逸らす。湯井沢は「変な奴」と笑いながら視線を大通りに戻した。
……俺はこのまま湯井沢に甘えてて良いんだろうか。笹野さんと別れてから新しい彼女を作らないのは俺がこんな事に付き合わせているからじゃないのか。
時間はどんどん過ぎてゆき、茜色に溶けた風が街を包み始める。
「湯井沢、暗くなる前に帰ろう」
そろそろ終わりにした方がいいのかもしれない。あの夢は相変わらず見ているが、昔のように声だけになってしまった。時間が経ち過ぎて、以前彼を見かけたのも幻だったような気がしている。
「よし、また明日だな」
「湯井沢……もう」
「諦めんなよ。やっと見つけた手掛かりだろ。はっきりさせようぜ。一生くだらない事に囚われるなんて嫌だろうが」
俺はハッとして湯井沢を見た。
俺より小柄で華奢なはずの彼がとても頼もしく見える。こいつはいつもそうだ。一度決めたことは絶対にやり遂げる。初めて会う奴らは見た目の可愛らしさに惑わされて湯井沢を侮るけど、最後に勝つのはいつもこいつだった。
「そうだな」
鼻の奥がツンと痛んで視界がぼやけた。涙が溢れそうになる。
「諦めない」
「その意気だ」
「うん」
湯井沢はしゃがみ込んでいる俺に向かって手を差し出した。俺はその手を掴んで立ち上がる。
その時、湯井沢の肩越しに、見覚えのある色の髪が見えた。
「あ!あの人!」
「え?」
「あの人だ!」
俺はそう叫ぶと、人混みの中に飛び込んだ。