その夜
泥酔して這う様にアパートに辿り着いた俺はワンルームにありがちな申し訳程度のキッチンで水を飲み、敷きっぱなしの布団に倒れ込んだ。
眠くて眠くて意識が朦朧としてくるとまたあの二人の声が聞こえてくる。
もうやめてくれ。
静かに寝かせてくれよ……。
(……だよな)
(またその話か)
(この目で見たんだよ!何回嘘ついたら気が済むんだ)
(お前が飽きられない努力をすればいいんだろ)
(浮気したのはお前だろ!)
浮気か。浮気はいけない。
しかもその暴言は頂けない。
悪いことをしたらちゃんと謝らないと。
迷惑だと思いつつも思わず聞き入っていた俺はその後の沈黙でふと我に返った。そして先程の湯井沢の言葉を思い出し、背中が少しゾワリとした。
そんな俺の気持ちに感応したかのようにうっすらと視界が明るくなる。そして徐々に部屋の中がはっきりと見
えて来た。こんなことは初めてだ。
目が覚めたのか?
いや、ここは俺の部屋じゃない。
広めのリビングに雑然と積まれた雑誌や洋服。壁には雑貨がディスプレイされた生活感はあるがオシャレな部屋だ。そこに大きな姿見があった。存在感のある造りに思わず覗き込むと
その鏡に映った見知らぬ二人の男がじっと俺を見ていた。
「うわあああああっっ!!!」
多分俺の絶叫は安アパートの住人全員を叩き起こしただろう。けれどそんなことを気遣う余裕もないまま俺は恐怖のあまり部屋を飛び出した。
「何なんだよ一体!!」
全く知らない顔だった。
けれど懐かしいような切ないような感情が、恐怖とないまぜになり頭の中を駆け巡る。
しばらく逃げる様に走り続けて辿り着いた公園のベンチ。そこに腰を下ろして俺はやっと少し呼吸ができる様になった。
まだ肌寒いというのに必死に走ったからか流れた汗を拭おうとしてそれが涙だと気付く。
「なんで俺泣いてるんだ?」
悲しくもなんともないはずなのに。
確かに知らない顔だった。
一人は色素の薄い白い肌に茶色の目と肩までの長めの髪。線の細い美形で。
もう一人はチャラっとした黒いシャツに派手なアクセサリー。イケメンではあるがあまり感じの良いタイプではなかった。
会ったこともないその二人を見て酷く胸が痛むのだが、理由はまったく思い当たらない。
「これは本当にお祓いした方がいいかもしれないな……」
とりあえず湯井沢に相談……とスマホを探すが家に置いて来たことに気付きため息をつく。
帰りたくないけどいつまでもここにいるわけにもいかない。鍵も開けっぱなしだしここで世を明かしたら間違いなく風邪を引く。
俺はノロノロと立ち上がると少し落ち着いた感情だけを頼りに渋々と自宅までの道のりを引き返した。
翌日出社するなり俺は湯井沢を捕まえて昨日のことを洗いざらい話した。
戻ったら住民からの通報で駆けつけていた警官にこってり絞られ平謝りしたことまですべて。
「結局朝まで寝られなかった……」
「だから酒臭いのか。全然アルコールが抜けてないぞ」
「……なんかごめん」
なんで俺怒られてんだろう。散々な目にあったのに。
「ところで実は僕、昨日あれから色々調べたんだよね」
「お祓いか?」
「それもだけど健斗中学の時に心臓移植しただろ?」
「ああ。それがどうした?」
「医学的な裏付けは無いんだけど臓器移植で以前の持ち主の記憶を自分のことのように思い出すことがあるんだって」
「え?脳を移植したわけでも無いのに?」
心臓が記憶を持ってるということなのか??
「だってほら、五本指ソックスってあるじゃん。あれ脳を活性化するとかいうだろ?足なのに影響あるんだから
心臓なんかもっとあるだろ。だって足の裏は第二の心臓だけどこっちは本物の心臓なんだぞ」
「意味がわからないけど、お前が変な通販や宗教に騙されないことを祈るよ」
「まあ、それは置いといて。それでその夢に出てくる人のどちらかが心臓提供者じゃないかなって思うんだ」
……そう言えばあの夢を見るようになったのは移植を受けて退院してからだ。
それに昨夜顔を見た時感じたのは恐怖心だけじゃなかった。
「もしそうだとしても提供者に関しては極秘扱いで調べても分からない。どっちにしてもこのまま夢を見る理由はわからないんだよな」
「それはそうだけど僕が言いたかったのは幽霊とかじゃないってことだよ」
「ん?」
「怖がらせて悪かったよ」
湯井沢はいつにになく真面目な顔でそう言うと俺の手になにかを握らせてふいっと自席に戻ってしまった。
思っていたよりも俺がダメージを受けているのを見て反省したんだろうか。あいつが謝るとこなんて初めて見た気がする。
手を開くと俺の好きな苺の飴がふた粒。
それを見た俺は昨日のことも忘れて声を出して笑ってしまった。
仕事の帰り、ドラッグストアに立ち寄った俺はお目当てのものを前にして途方に暮れていた。
「こんなに種類があるなんて聞いてない」
そこに並ぶのはいわゆる睡眠導入剤。
あの夢が心臓移植に関する精神的後遺症なのであれば治ることはないと覚悟を決めて向き合っていくしかない。つまり夢も見ないくらいぐっすり眠ってしまえばいいのだ。
「漢方薬?これは一日三回。こっちは寝る前に一回だけ」
どうしよう。ちゃんと病院に行って処方してもらったほうがいいのか?けど何科だ?
悩んだ挙句、店にいた薬剤師にアドバイスを受けて軽めのものを試してみることになった。
こんなものを一生飲み続けなければいけないのかもしれないのか。そう思うとなんとも絶望的な気持ちになる。
店を出て空を見上げると夕闇がゆっくりと落ちてきた。
道ゆく人々の境界線が曖昧になり俺は慌てて瞬きをする。
その時、人いきれの中にきらりと光るものを見つけた。
髪の毛?
じっと目を凝らすと色素の薄い長めの髪に夕日が跳ねて輝いている。
その下には同じ色の目。
そして白い肌。
すれ違う瞬間その人は視線を感じたのかチラッと俺を見て、けれど興味なさそうに通り過ぎてしまった。
「まっ!待って!」
間違いない。
間違えるはずがない。
「待って下さい!」
俺は精一杯の声を張り上げ、人波をかき分けてその背中を追う。
逃しちゃいけない!
あの人なら事情を知ってるはずだ!
だって
その人は確かに昨夜夢の中で見た人だった。