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 「ほら」


 黒峯はジャケットのポケットを弄り、次にジーンズの中て手を伸ばす。そして、皺くちゃの新千円札をを取り出した。テーブルの下で何気なく皺を伸ばして四つ折りにし、ジェーンに差し出す。


 「あんたこそ要るでしょ? それをディックに渡した方がいいよ」


 と言う白色の瞳の中に、黒峯には読み取れない何か、見た事の何かがある。


 「ディックからの借りはこんなもんじゃ済まない。とっとけよ、大金が入るからさ」


 嘘を吐き、新円札がジッパーのポケットに収まるのを見つめる。


 「その金が入ったらさ、黒峯、直ぐにディックを見つけなよ」


 「またな、ジェーン」


 「うん」


 瞳の下に一ミリほどの白目が覗く。三白眼だ。


 「アンタ、気をつけなよ」


 立ち上がった黒峯は頷いたが、早く立ち去りたくて仕方がない。


 プラスティックのドアが閉まる時、振り返るとモノクロのネオンの檻にジェーンの眼が映っていた。


 余市ヨイチ通りの金曜の夜。


 オデンの屋台にマッサージ・ヘルス、ウィス・ラブという名の喫茶チェーン店、アーケードの電子騒音と通り過ぎる。ダークスーツのサラリーマンに道を譲りながら、男の甲に刻まれた日立HGジェネティクスの社章に眼を留めた。


 本物だろうか? 本物だとすれば、あの男は面倒に巻き込まれる。本物でなければ、いい気味だ。あるレベル以上のHG従業員は最新鋭の微細胞処置装置マイクロプロセッサ―を埋め込まれ、血中の突然変異レベルを常時監視されている。そんなブツをつけて、ダスト・シティを歩けば襲われるに決まっている。襲われて、闇クリニックへ直行だ。


 そのサラリーマンは日本人だったが、余市ヨイチの人混みは外国人スラブの人混みだ。港から来る船員グループがガイドブックには載っていないお楽しみを求めるのだ。緊張した独り歩きの観光客。移植・内植組織を見せびらかす都内セントラルの大物。十種以上もはっきり種別が異なる犯罪者。みんなが路上に繰り出して、欲望と駆け引きの入り組んだ舞いを舞う。


 この余市ヨイチのシマを、なぜ新東京が目溢ししているのかについては、数えきれない程の説がある。だが、黒峯としてはヤクザが此処を一種の歴史公園として保存し、ささやかな過去の想い出にしている、という考え方に魅かれている。また、新興テクノロジーが無法地帯を必要としている、という見方にも一理ある。つまり、ダスト・シティは住民の為にあるのではなく、故意に無監視にしたテクノロジーの遊び場だというのだ。


 それにしても……と黒峯は灯りを見上げ呟いた。ジェーンの言う通りなのだろうか。ディックが見せしめの為に俺を殺そうとしているのだろうか。辻褄が合わないような気がするが、ディックが主に扱っているのは禁制の生体関係であり、そんなものを扱うのは正気の沙汰ではない。


 でもジェーンはディックが命を狙っていると言っていた。黒峯には最初から分かっていたことだが、闇取引の力学では売り手買い手とも黒峯を本当には必要としていない。戦闘者……ゴロツキの仕事とは自身を必要悪と転じさせることだ。ダスト・シティの犯罪がらみの生態系の中に、黒峯は自分の為に怪しげな隙間を嘘で切り拓き、一晩ごとに裏切りで抉っていかなければならない。その壁が崩れ始めていると分かった今、黒峯は奇妙な恍惚感を強烈に覚えている。


 先週、合成腺エキスのバイヤーを殺し、敵対組織の倉庫を徹底的に破壊した。それがディックのお気に召さなかったのは分かっている。ディックは黒峯にとって主要供給源だ。新東京に九年いて、ダスト・シティ境界外の確固と階層化した犯罪組織とわたりをつけられる外人スラブ売人バイヤーの一角を占めているからだ。遺伝子素材やホルモン剤は故買屋や代理人の複雑の経路を経て、余市ヨイチに流れ込んでくる。かつてディックはどうしたものか過去を遡ることができて、今や七余の都市に確実なコネを持っているのだ。


 黒峯は何時の間にかある店のウィンドウを覗き込んでいた。ここでは船員相手に小さい光物を商っている。時計、良く研がれたナイフ、ジッポ・ライター、ポケット・ホロ、システムデッキ、万年筆、真剣、といったものだ。ナイフのように鋭い刃が付いた鋼の星、手裏剣は外国人スラブには人気のようで、クローム仕上げのものも、黒いものも、水に浮いた油のような虹色処理されたものまである。が、クロームの星が黒峯の眼をとらえた。殆ど目には見えないナイロンの釣り糸で、赤いウルトラスエードの台に留めてある。星空の中心には龍や陰陽インヤン模様が型押ししてあった。ふとおもいついたが、こうした星の下では黒峯はさすらい、安いクローム星座に運命を定められているのだ。


 黒峯は星に語り掛けた。


 「ジュリーだ、あの老いぼれに会ってみよう。何か知っている筈だ」


 ジュリアン・ディアソンは百六十二歳。毎週大金を投じた血清やホルモン剤によって、常に代謝を異常に保っている。加齢を防ぐ決め手は年に一度、新東京都内に行脚して遺伝子外科医にDNA暗号コードを整復してもらうことだ。この処理は余市ヨイチではできない。処理の後香港に飛んで、一年分のシャツとスーツを注文する事になっている。性欲も無く、人間離れした気長さを持つこの老人にとって、第一の欲求充足方法は秘教めいた仕立て崇拝への没頭にあるようだ。持ち衣装がどれも前世紀の衣服の入念な復元に思えるのに、同じスーツを二度来たディアソンを黒峯ですら見た事がない。凝ったことに、細い金縁の眼鏡をかけているが、これがピンクの人工石英から磨き起こしたもので、ヴィクトリア朝のドールハウスのように面取りしてある。


 ディアソンのオフィスは余市ヨイチ通りの裏の倉庫にある。そこの一部は何年も前にヨーロッパ製の寄せ集め家具で飾り付けをやりかけたようだ。以前はそこを住居にするつもりだったのかもしれない。黒峯が待たされた部屋の一部の、一方の壁では、新アステカ風書棚が埃を被っている。ディズニー調の丸々としたテーブル・ランプが二つ、赤塗りでカンディンスキー趣味の低いコーヒー・テーブルの上で収まりが悪い。書棚と書棚の間に壁にダリ時計が掛かり、歪んだ文字盤はコンクリート剥き出しの床まで垂れている。時計の針は、文字盤に沿って変化しながら回るホログラムなのだが、時間が正確だったことはない。部屋には白いファイバー硝子製の荷箱が山積みになっていて、其処から生姜の漬物のような臭いが漂って来る。


 姿の見えないディアソンの声がする。


 「何も隠し持っていないようだな、若いの。入ってくれ」



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