ケインズという喫茶店で、黒峯は今夜最初の
ケインズの壁は鏡張りで、鏡一枚一枚を縁取るようにモノクロのネオンがある。
新東京で独りぼっちだった当初、金も無くなり、治療を受けられるような希望も萎み、黒峯は末期的な暴走状態にあった。まるで別人になったように、冷酷極まりない熱心さで軍資金を調達したのだ。最初の一か月間で男六人と女三人を殺したが、その金額は一年後なら滑稽に思える程度。
ダスト・シティは大規模社会ダーウィニズム説の狂った実験に似ている。安穏とした生活を送る研究者が計画し、マウスの右クリックを連打しているようなもの。危険な
此処での
ケインズのテーブルに独り座り、結晶体が効いてくると共に額に細かな汗の雫が浮かび上がる。足先から胸にかけての体毛が一本一本ピリピリと逆立ち、ドッと汗を噴き出しながら黒峯は悟る。どこからかの時点で、自分自身を相手に勝負を始めているのだ。極めて古くから、太古の昔からあるゲームのくせに名前が無い、究極の一人遊び。今の黒峯は最早武器も持たないし、最低限の警戒すらしていない。この掃き溜めで最も速く、一番いい加減な取引をしていて、必要な武力が必要なら最も手ごろな男と評判になっている。しかしまた、その同じ片隅は、これももう時間の問題だと悟りつつ、その死の予感に独り善がりしている心の片隅こそ、ジェーン・リーへの想いを一番毛嫌いしてもいる。
黒峯がジェーンを見つけたのは、ある雨の晩、アーケードの中だった。
立ち込める紫煙に照り輝く幻影、『魔塔到来』『魔城攻略戦線』『機動甲殻・バトルライン』などのホログラムの下、顔が絶え間ないレーザーに覆われて、目鼻立ちにホログラム・ゲームが映り込んでいた。魔塔が炎上すれば頬は真紅に燃え上がり、魔城が勇者に攻略される時、額は朝焼けの蒼に濡れ、滑るように動く
アーケードを横切って行ってジェーンの傍らに立つと、取引を終えて満足そうな黒峯をジェーンが見上げた。白色の眼の輪郭を黒の化粧スティックで塗った跡がぼやけていた。走り抜ける車のヘッドライトに照らされた何かの動物の……コヨーテのような眼だ。
二人一緒の夜が朝になり、ホバークラフト乗り場の切符となり、黒峯にとって初めて新東京湾を横切る旅となった。雨は絶えず、原宿にも降りしきって、ジェーンの樹脂ジャケットに雫となる。新東京の子供達が白のローファーと防水ケープを着て、有名ブティックの前を次々と通り過ぎる。結局二人はパチンコ屋の騒々しさの中で立ち尽くし、ジェーンが黒峯の手に子供のように捕まっていたのだった。
一ヶ月の後、黒峯の暮らしそのものである
黒峯は空のカップの底にコーヒー滓が輪になっているのを見つめていた。その筋は飲み干す速さに従って波打ち、揺れる。茶色の
「恭二じゃない……」
黒峯が目を上げると、化粧スティックで縁どりした白色の眼と出会った。色褪せたフランスの作業服に新品の白色のスニーカーを履いている。
「随分と捜したんだよ」
向かいの席に座り、両肘をテーブルに乗せた。青いジップジャケットは両袖が肩の処で切り取ってある。黒峯は反射的に相手の腕に眼をやって、
「煙草、いる……」
と、ポケットからフィルター付きのピースを取り出し、一本勧めた。黒峯はそれを取り、赤いプラスティック・ライターで火を着けてもらう。
「ちゃんと寝てんの恭二……。疲れてるみたいよ」
という娘のアクセントはアメリカの南方、アトランタの辺りを示している。下瞼が青褪めて不健康そうに見えるが、身体はまだ艶やかでしっとりとしていた。二十歳なのだ。苦痛による新しい皺が、口の両端に刻み込まれはじめようとしている。黒い髪を束ね、絹製のプリント生地を紐のように縛り、模様は
「
軽く笑って答えたが、欲望がはっきりとした波になって黒峯を襲う。肉欲と孤独感がアンフェタミンの波長と相乗している。
全ては肉……タンパク質。脳の快楽物質の効果。肉体の欲求解消。
「ディックがね」
ジェーンは目を細め。
「アンタの面に風穴を空けてやりたいって」
「誰が言った……。
「ううん。エラ。あの娘の今度の相手がディックの手下なの」
「奴にそれ程の借りはないぜ。貸しがたんまり……腐る程あるくらいだけど、どっちみち奴には金が無い」
「あの人に借りてる人間が多すぎるんだよ黒峯。見せしめに殺されるかもしれない。ほんと、気を付けた方が良いと思うよ」
「あぁ、お前はどうだジェーン。寝るところはあるのか?」
「寝る……」
彼女は小さく首を横に振り、肩を竦め。
「あるよ、恭二」
身震いしてテーブルに身を屈めた。