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 ケインズという喫茶店で、黒峯は今夜最初のドラッグをエスプレッソで飲み込んだ。薬は金平糖のような多角形の結晶体で、強力なメキシコ製覚醒剤キャンディ。グレー・ゾーンの女から買ったものだ。


 ケインズの壁は鏡張りで、鏡一枚一枚を縁取るようにモノクロのネオンがある。


 新東京で独りぼっちだった当初、金も無くなり、治療を受けられるような希望も萎み、黒峯は末期的な暴走状態にあった。まるで別人になったように、冷酷極まりない熱心さで軍資金を調達したのだ。最初の一か月間で男六人と女三人を殺したが、その金額は一年後なら滑稽に思える程度。余市ヨイチに疲れ切って、やがてこの街そのものが黒峯自身すら知らなかった獣性を引き出し、死への願望の、秘密の毒の、具現化に思えてならなかった。


 ダスト・シティは大規模社会ダーウィニズム説の狂った実験に似ている。安穏とした生活を送る研究者が計画し、マウスの右クリックを連打しているようなもの。危険な仕事ビズを辞めれば跡形も無く沈み、ちょいとばかし早く動き過ぎれば闇マーケットの危うい均衡を破ってしまう。何方に転んでも奈落の闇に消え、黒い渦に飲み込まれて砕け散るしかない。痕跡を残したとしても、せいぜい自動人形オートマータのような舞台装置の記憶回路にぼんやりとしたデータが残るだけだろう。だが、心臓、肺、腎臓だけなら新円の札束を抱えた誰かの為に、クリニックの臓器タンクで生き残れるのかもしれない。


 此処での商売ビズいき下の絶えない唸りだろう。怠惰や不注意、世間知らずと複雑な掟の要求を無視することに対する報いは当然、死あるのみ。


 ケインズのテーブルに独り座り、結晶体が効いてくると共に額に細かな汗の雫が浮かび上がる。足先から胸にかけての体毛が一本一本ピリピリと逆立ち、ドッと汗を噴き出しながら黒峯は悟る。どこからかの時点で、自分自身を相手に勝負を始めているのだ。極めて古くから、太古の昔からあるゲームのくせに名前が無い、究極の一人遊び。今の黒峯は最早武器も持たないし、最低限の警戒すらしていない。この掃き溜めで最も速く、一番いい加減な取引をしていて、必要な武力が必要なら最も手ごろな男と評判になっている。しかしまた、その同じ片隅は、これももう時間の問題だと悟りつつ、その死の予感に独り善がりしている心の片隅こそ、ジェーン・リーへの想いを一番毛嫌いしてもいる。


 黒峯がジェーンを見つけたのは、ある雨の晩、アーケードの中だった。


 立ち込める紫煙に照り輝く幻影、『魔塔到来』『魔城攻略戦線』『機動甲殻・バトルライン』などのホログラムの下、顔が絶え間ないレーザーに覆われて、目鼻立ちにホログラム・ゲームが映り込んでいた。魔塔が炎上すれば頬は真紅に燃え上がり、魔城が勇者に攻略される時、額は朝焼けの蒼に濡れ、滑るように動く照準器ターゲットが戦線の闇を貫くと、唇に金色の射線が奔る。その夜、黒峯は最高に酔っていた。ディックのケタミンタンクを千葉湾へ送り出し、代金をもう懐に仕舞い込んでいたいたからだ。余市ヨイチの舗道を打って熱い湯気を立てる冷たい雨の中から其処に入った時、何故かジェーンだけが浮き上がっているように見えた。操縦桿コントローラーに向かって立つ何十人かの中で、一つの頭だけがゲームに夢中なまま浮かんでいた。その時のジェーンの表情は、それから何時間か後で見た安宿コクーンでの寝顔と同じだった。上唇の線が空を飛ぶ鴎を描く子供の絵と同じなのだ。


 アーケードを横切って行ってジェーンの傍らに立つと、取引を終えて満足そうな黒峯をジェーンが見上げた。白色の眼の輪郭を黒の化粧スティックで塗った跡がぼやけていた。走り抜ける車のヘッドライトに照らされた何かの動物の……コヨーテのような眼だ。


 二人一緒の夜が朝になり、ホバークラフト乗り場の切符となり、黒峯にとって初めて新東京湾を横切る旅となった。雨は絶えず、原宿にも降りしきって、ジェーンの樹脂ジャケットに雫となる。新東京の子供達が白のローファーと防水ケープを着て、有名ブティックの前を次々と通り過ぎる。結局二人はパチンコ屋の騒々しさの中で立ち尽くし、ジェーンが黒峯の手に子供のように捕まっていたのだった。


 一ヶ月の後、黒峯の暮らしそのものである麻薬ドラッグと緊張との様相に何時も怯えているようだったジェーンの眼が、繰り返す欲求の泉となった。黒峯の眼前でジェーンの人格はバラバラの破片と化し、氷山のように分離したかと思うや否や、最後には剥き出しの欲求、中毒症状の飢えの枠組みを露呈させた。眼前でジェーンが赤紫色の注射痕に次の覚醒剤キャンディを打つ時の集中ぶりを見せられ、黒峯は熊本通りの露天商が売っていた蟷螂《カマキリ》を思い出した。それに並んで変異種の銀色の鯉のタンクや、竹籠の蟋蟀コオロギもあった。


 黒峯は空のカップの底にコーヒー滓が輪になっているのを見つめていた。その筋は飲み干す速さに従って波打ち、揺れる。茶色の複層ラミネートテーブル面は、長年の細かい傷で曇っている。覚醒剤キャンディが脊髄を上って来るにつれ、表面がそうなるまでの数知れぬ様々なぶつかり合いに背筋が凍る。ケインズの内装は、前世紀の古臭い様式美。不安定に日本の伝統と色褪せたミラノ製プラスティックを混ぜ合わせた代物だが、全体が薄い膜で覆われているようにも見える。まるで百万人の客の異常な神経網が鏡や光沢に突っかかり、全て表面に拭えない曇りを残したかのよう。


 「恭二じゃない……」


 黒峯が目を上げると、化粧スティックで縁どりした白色の眼と出会った。色褪せたフランスの作業服に新品の白色のスニーカーを履いている。


 「随分と捜したんだよ」


 向かいの席に座り、両肘をテーブルに乗せた。青いジップジャケットは両袖が肩の処で切り取ってある。黒峯は反射的に相手の腕に眼をやって、皮膚板フェイク・スキンか針の跡を探した。


 「煙草、いる……」


 と、ポケットからフィルター付きのピースを取り出し、一本勧めた。黒峯はそれを取り、赤いプラスティック・ライターで火を着けてもらう。


 「ちゃんと寝てんの恭二……。疲れてるみたいよ」


 という娘のアクセントはアメリカの南方、アトランタの辺りを示している。下瞼が青褪めて不健康そうに見えるが、身体はまだ艶やかでしっとりとしていた。二十歳なのだ。苦痛による新しい皺が、口の両端に刻み込まれはじめようとしている。黒い髪を束ね、絹製のプリント生地を紐のように縛り、模様は微小回路マイクロ・リングかもしれないし、市街地図なのかもしれない。


 「ドラッグを飲むの、忘れなきゃ大丈夫さ」


 軽く笑って答えたが、欲望がはっきりとした波になって黒峯を襲う。肉欲と孤独感がアンフェタミンの波長と相乗している。安宿コクーンで、過熱した闇の中の娘の匂いを思い出す。黒峯の腰の裏で、その細い指を組んでいた感触。


 全ては肉……タンパク質。脳の快楽物質の効果。肉体の欲求解消。


 「ディックがね」


 ジェーンは目を細め。


 「アンタの面に風穴を空けてやりたいって」


 「誰が言った……。自動人形オートマータか? アイツと話したのか」


 「ううん。エラ。あの娘の今度の相手がディックの手下なの」


 「奴にそれ程の借りはないぜ。貸しがたんまり……腐る程あるくらいだけど、どっちみち奴には金が無い」


 「あの人に借りてる人間が多すぎるんだよ黒峯。見せしめに殺されるかもしれない。ほんと、気を付けた方が良いと思うよ」


 「あぁ、お前はどうだジェーン。寝るところはあるのか?」


 「寝る……」


 彼女は小さく首を横に振り、肩を竦め。


 「あるよ、恭二」


 身震いしてテーブルに身を屈めた。



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