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 日本人が知り得た以上の神経外科医学を、アメリカはとっくの昔に過去のものにしている。だが新東京の闇クリニック群、他国から流入して来る違法滞在外国人のテクニクス、取捨選択を繰り返し合理性と効率性を吸収して規模を拡大した巨大企業……。それこそがアメリカの合法的施術には無い最先端であり、大量の技術が毎日のように更新されている蟲毒。何でもある。それが新東京。だが、それでも黒峯は過去の戦場で失った誇りと被った傷痕を癒すことは出来ないのだ。


 日本に帰国して一年になるが、黒峯はまだ硝煙とカプセルに眠るランナーの夢を見て、希望は夜を経るごとに消え失せてゆく。新東京集合スラム……通称ダスト・シティでこれだけ覚醒剤キャンディをやり、傷と銃弾を肩代わりし、危ない橋を渡ってきても、眠る時に見るのは没入深層筒ダイブ・カプセルに眠る電脳サイバーランナーを守る自分。無色の虚空に落ち眠り、駆ける妖精を守り輝ける重装騎士……。戦場が太平洋を隔てて遠い今、黒峯は守衛者ガントレットでもなければ電脳サイバーランナーでもない。生き延びる為に手いっぱいの無頼ゴロツキでしかない。


 それでも夢は日本の夜に疼く古傷のように押し寄せ、眠りの裏で泣き喚き、ひとりきりで目覚めてみれば辺りは闇で、何処かの安宿コクーンのカプセルで身体を丸め、両の手に拳銃を握りながら外の銃声と風に乗って漂って来る硝煙の香りに在りもしない使命感と獣性を叫び狂わせる。彼の身に沁みついた兵士としての習性と習慣は、精神と肉体を蛇のように絡んで逃さない。


 「君の彼女、昨日見かけたよ」


 自動人形オートマータが二杯目のアサヒを渡して寄越す。


 「彼女なんていないさ」


 「ミス・ジェーン・リーだよ」


 アサヒを一口飲み下し、黒峯は首を横に振る。


 「身元不明のリーさんかい? なんにもなしかい? 仕事ビズばっかりか、生真面目なお友達? ロクデナシの文無しに驀進せざるかい?」


 と、自動人形オートマータは、ビロウドを思わせる無機質な瞳で作り笑いを浮かべ。


 「あの娘と一緒にやっていた時の方が良かったよ、君は。もっと馬鹿みたいに笑っていたじゃないか。このままじゃ何時の日か君は、いつの晩か、生真面目になりすぎて駄目になるよ。クリニックの臓来タンクに突っ込んで、誰かのスペア器官になって」


 「胸が痛むぜ、自動人形オートマータ


 ビールを飲み下し、金を払って外へ向かった黒峯は強化機械義肢サイバネティクス・アームの先にあるガッシリとした肩を落とす。雨に濡れたジャケットの、煤けた狼のエンブレムが今の彼に残った過去の栄光。だが、それは落ち切った黒峯には似つかわしくないシンボル。


 惨めに、捨てられた犬のように頭を垂れた黒峯は通りの雑踏を縫って歩きながら、自分の饐えた汗の臭いを嗅いだ。




 黒峯は二十二歳。二十の頃は守衛者ガントレットであり、教官と上官から高評価を貰う一流の戦闘技能者ウォー・トルーパーだった。相棒も一流中の一流、電脳空間サイバー・スペースの伝説マリア・クワイエットと劉寅神リュウ・インシンだったのだ。その頃の黒峯は電脳空間サイバー・スペース没入ダイブする二人を援軍も無しに守り抜き、新ソ連軍のシステムを掌握したと同時にたった一人で多機能突撃型装甲戦闘服メタル・ファンクション・ドレスを着こみ制圧する鬼神の如き戦いぶり。若さと技術のおかげでもあっただろうが、恒常的に分泌されるアドレナリンで戦い続ける戦闘者バトル・ジャンキ―だった。守護者としての誇りと戦いに高揚する自分、意味のある行動に価値を見出す時代―――軍が新種の機器ソフトウェアを提供し、それを使ってまたシステムの白い壁を貫いて、焦土へ敵の血と肉片を撒き散らす。


 だが、黒峯は決して犯すまいと誓ったミスを犯してしまった。多機能突撃型装甲戦闘服メタル・ファンクション・ドレスの制御システムを乗っ取られ、神経接合の穴を突かれた防衛突破アイス・ブレイク……。電脳制御機構ブレイン・コントローラー、ターゲッティング・システムの変更による認識破壊シャドウ・ブレイク……。意識があるのに動けない、動けないのに手が動く。狂った思考と飛び散る火花。彼は敵軍の電脳サイバーランナーの手により、その力を逆に利用され、守るべき相棒の没入深層筒ダイブ・カプセルを破壊した。


 今でも忘れることは出来ない。敵の電脳サイバーランナーの高笑いとニヤニヤとした嫌な笑みを。好きにするといい―――二度とお前は戦えなくなるんだから。心的外傷に苦しみ、泣き叫び、夢に囚われ狂い堕ちろ―――これが戦争、戦場の報いになるのだからね。


 連中は軍の装備の脆弱性を調べ上げ、狡猾に、惨忍に、黒峯の誇りと闘争心を殺した。


 鋼の鎧に包まれて、血と火花に己の全てを焼き尽くされながら、悪夢の五分間で黒峯は幻覚を見続けた。彼の戦闘者、守衛者ガントレットとしての死は完璧に、完膚なきまでに失墜し、敵の策は完全んあ効果を発揮した。


 戦場で戦う事に、誰かの為に、意味のある戦いに歓喜し、価値を見出していた黒峯にとってこれは失楽園……楽園から追放されたアダムの心に近いだろう。それまで一流の戦闘技能者ウォー・トルーパーとして戦っていた場所には敵を殲滅する風があった。敵など滅ぼすべき人肉。黒峯は、その戦いからトラウマに囚われた抜け殻と化したのだ。


 黒峯の退役報奨金は、たちまち新円の多額のクレジットとして口座に振り込まれた。貨幣価値と信用が高い新円は表と裏の世界を魚群のように泳ぎ回り、閉式回線の中を環流している。新東京集合スラムでまともな紙幣で取引することは難しい。いや、紙幣での取引は日本全国で既に違法となっている。


 如何なる心療内科や精神外科でも彼の傷を癒す事は出来なかった。日本でなら必ず治療法が見つかると力強く確信し、新東京なら、集合スラムの闇医者なら……。臓器移植や神経接合、微細胞工学バイオ・メカニクスと同義になった新東京は外国人スラブテクノクス犯罪者の多くを吸い寄せ、飲み込んでいる。


 新東京では、半年の検査や診察でみるみるうちにクレジットが消えていった。最後の頼みの綱だった闇医者も、黒峯の傷を診るや否や匙を投げ、感嘆したように溜息を吐くとゆっくりと首を振る。


 軍従市民権を保持していた黒峯も、今やそれを売り払い安宿《コクーン》の最下級。廃屋のような小屋で寝泊まりし、ゴミ溜めのすぐ傍の高架線の下だ。灰空のぼんやりとした光のおかげで、東京の灯りはおろか、ソニーのホログラム看板すら見えず、悪臭を放つ汚染された川は黒で、そこでは浮浪者が水浴びをする底辺。遠くに見える都市には自動工場群と、それを見下ろす企業の環境建築の巨大なビル群がある。高架線と川を挟み、そして仕切るように、細長く古い街並みの中間地帯があり名前も無い。それがダスト・シティであり、中心が余市ヨイチだ。余市通のバーは昼間はシャッターを下ろし、ネオンも消し、ホログラムも停めている静寂の通りだった。



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