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第五章『Graduation』②

 先ほど出て来た校舎にまた取って返し、二人連れ立って階段を上る。

 廊下を進んだ先、校舎のいちばん端に位置する、進路指導室隣の談話スペース。

 懐かしい、この部屋。

「……私がここに来るのも、もう最後なんだなぁ」

 解錠する沖を待ちながら、怜那はしみじみと呟いた。

 ドアを開けてくれた沖に礼を言い、部屋の中に足を踏み入れる。入って一番手前の丸テーブルに、ずっと持ったままだった荷物を置いて、怜那はゆっくりと部屋を見回した。

 ──あのとき、沖先生に抱き締められた。一生忘れられない、忘れるわけもない。私と先生の想い出の場所。

 感傷に浸っている怜那を、沖はすぐ傍で黙って見守っていてくれる。

 そのまま部屋の奥まで歩いて行って、怜那は窓越しに外を見下ろした。眼下には校舎の出入り口と、そこから繋がるさっきまで自分たちも立っていた中庭。

 何気なく庭の木に目をやると、その下で向かい合って立つ二人が居るのに気がついた。

 自分と同じ制服と、もう一人はスーツ。

 少し遠目になる上に、角度もつくから顔ははっきりとはわからないけれど、あの長身とヘアスタイルは間違いなくあゆ美だろう。ということは、相手は……。

「あゆ美、と康之先生、だよね?」

「ああ、もしかして。お前が言ってたバレちゃった友達って、屋敷のことだったのか?」

 いつの間にかすぐ後ろに来ていた沖の言葉に、怜那は驚いて振り向く。

 独り言のつもりで零した声に応える、その内容にも。

「先生、覚えてたんだ? そりゃそうか」

 あゆ美は確かに「卒業したら告白する」とは言っていた。それにしても早速今なのか!? ただいったん帰ったら、学校に来る機会などわざわざ作らなければもうないのだ。

 卒業するというのはそういうこと。

 ……いくら親しい友達でも、事情を知っていても。これは『他人』が見ていていいことではない。

 怜那は体ごと振り返り、視線を室内に向けた。その途端、沖と目が合って、そのまま見つめ合う。

 なんだか少し、こちらの部屋の空気の色も変わった、ような気がした。

 ──よし、今だ!

 ずっと心に決めていた。卒業したら、改めて沖に告白しようと。

 それはきっと今なのだ。今しかない!

 あゆ美の姿にも勇気をもらった気になり、怜那は気合を入れ直して沖と向かい合ったまま背筋を伸ばす。

「沖先生──」

 怜那の呼びかけは、沖に制された。「有坂、俺が先でいいか?」

「……あ、うん。はい」

 ──先生、タイミング悪すぎなんだけど……。

 胸の内で独り言ちた怜那は、続く沖の台詞に何も考えられなくなってしまう。

「……長い間、待たせてゴメン」

 沖の懺悔ざんげでもするかのような、それでも優しい声。

 彼の方からそんな風に言ってくれるなどと、想像もしていなかった。

「ずっと何も言ってやれないまま、中途半端な状態で放置して。お前が心変わりしても仕方ないと思ってた。でもお前は、こんな俺をずっと待っててくれたよな」

「待ちくたびれるくらい待ってたよ、私。でも先生だって待っててくれたでしょ。私たち、お互いに我慢比べしてたみたいなもんじゃない?」

 怜那は、高い位置にある彼の顔を見上げて、口を開いた。

「卒業したら私がもう一回告白して、付き合ってくださいって申し込もうと思ってたのに。まさか先生に先を越されるなんてさぁ」

「それくらい俺にさせてくれよ。ずっと年上の俺がお前に頼りっきりじゃ、あまりにも情けないだろ?」

 怜那の言葉に、沖は笑って返して来た。

「で、返事は?」

 沖が揶揄うように訊いて来る。

「え? 今言ったじゃん」

「それはお前が言いたかったことだろ? 俺の告白への返事は?」

「先生、子どもみたいな理屈だよ、それ」

 仕方がないな、と居住まいを正す。

「はい、私も沖先生が大好きです。だから、お付き合いしましょう」

 故意にかしこまった言い方をする怜那に、沖は「ありがとう」と言って破顔した。

「ねぇ先生。……キスして欲しい。やっと卒業したから。もう『先生と生徒』じゃないから、いいよね?」

「まだ、ダメ」

 ここまで来たらもう恥も何もない、と勇気を出して口にした怜那の願いを、沖は迷いも見せず即座に拒否した。

「え? なんで!?」

「まず、ここは学校。……ていうのは別としても、だ。卒業はしたけど、厳密には三月中は高校生だから。まだお前は俺の教え子のままだろ」

 沖はいきなり口調まで堅苦しくなって、怜那に言い聞かせるように告げる。

 ……この人は。本当にこんなときまで『先生』なのか!?

「だから、そういうのは全部四月になってから」

 ──まぁいいや、あと一か月もないんだから。どうせここまで待ったんだから、もうちょっと待ってあげるよ。

 余裕を見せたつもりの怜那は、また別の提案をした。

「だったらさぁ、春休み。えっと、四月入ってからでいいから」

 四月はもう大学が始まるから春休みではない。しかし、単なる口実のようなものだから、別に構わない。

 怜那は自分の中だけで納得して話を続けた。

「二人だけで会いたいんだけどな。どっか行ったりとか。いい?」

「いいよ、もちろん。どこか行きたいところがあるのか?」

 すんなり了解してくれた沖の言葉にホッとして、怜那は次はどうやって切り出そうか、と考えを巡らせる。

「え~、そうだなぁ。ある、けど」

「どこでも、とは聞く前に簡単には言えないけど、できる限り希望に添えるようにするよ。お前には我慢ばっかりさせて来たから。どこかに出掛けるどころか何もして、言ってさえやれなかったんだもんなぁ」

 沖は自分でもそれが気になって仕方ないようで、少しでも怜那の意に添うようにと考えているようだ。

「どういうとこがいいんだ? 俺は春休みっていっても単に授業がないだけで休みじゃないから。平日はいつも通り仕事だし、できたら週末にしてもらえるとありがたいかな。もちろん、会うだけなら平日の夜でもいいんだけどさ」

 沖は遠慮がちに提案するが、怜那も沖に仕事があることは十分承知だ。

「どちらにしても、あんまり遠くは無理だから日帰りは最低条件だよ。別に今、ひとつに決めなくてもいいんじゃないか? これからいくらでも会えるんだからな」

「いっぱいあり過ぎて、すぐには出て来ないよ」

「絞れないなら、行きたいところ思いつく限り言ってみれば? 全部順番に行けばいいだろ」 沖はそう言ってくれたけれど。

 怜那がいちばん行きたいところは、本当はもうとっくに決まっている。

「私、まず沖先生の家に、行きたい、んだけど。ダメ、かな……?」

「いいよ。四月以降ならいつでも」

 恐る恐る切り出した言葉にあまりにもあっさり頷かれて、怜那はかえって驚く。

「ホントに? ホントにいいの? え、だって家だよ?」

「いいよ。お前の方こそわかってるのか? 俺の家だぞ」

 にやりと笑った沖の表情に、怜那はまるで知らない人のような感覚を抱く。

 ──沖先生って、こんな顔してた? こんな笑い方、見たことな、……!

 ぼんやりと考えていた怜那は、沖の言葉の意味をようやく悟って硬直する。

「さっき日帰り限定って言ったけど、俺の家ならその限りじゃないから」

「……え? えーと、それ」

「ま、それはさすがに冗談だよ。すぐにはちょっと、な」

 これはやはり、『そういう』意味なのだろうか。

「でも、朝から晩まで一日中居てくれて構わないから」

「……先生、私とその、えっちなこと、したいの?」

「……お前なぁ。そういうことハッキリ訊くなよ。いや訊くにしても、もうちょっと言葉のチョイスとかさ……」

 沖は呆れたようにそう言った同じ口で、すぐに囁いた。

「したいよ。ずっと我慢してたから、俺も。お前だけじゃないんだよ」

 ──先生、その声は反則じゃないの?

「逆に訊きたいんだけど。俺のこと、いったいなんだと思ってたんだ?」

 少し意地悪な表情で、そんな風に問うてくる沖に。

 ついさっき、キスさえ拒んだ清廉潔白な教師の顔とは全然違う。

 なんと表現すればいいんだろう。こういうのを男の色気とでも言うのだろうか?

 怜那はまったく想定外の状況に声も出せなかった。

 あぁ、この恋人、は、やっぱり大人の男なのだ。

 まだ十八の小娘である自分が敵うわけがない。

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