先ほど出て来た校舎にまた取って返し、二人連れ立って階段を上る。
廊下を進んだ先、校舎のいちばん端に位置する、進路指導室隣の談話スペース。
懐かしい、この部屋。
「……私がここに来るのも、もう最後なんだなぁ」
解錠する沖を待ちながら、怜那はしみじみと呟いた。
ドアを開けてくれた沖に礼を言い、部屋の中に足を踏み入れる。入って一番手前の丸テーブルに、ずっと持ったままだった荷物を置いて、怜那はゆっくりと部屋を見回した。
──あのとき、沖先生に抱き締められた。一生忘れられない、忘れるわけもない。私と先生の想い出の場所。
感傷に浸っている怜那を、沖はすぐ傍で黙って見守っていてくれる。
そのまま部屋の奥まで歩いて行って、怜那は窓越しに外を見下ろした。眼下には校舎の出入り口と、そこから繋がるさっきまで自分たちも立っていた中庭。
何気なく庭の木に目をやると、その下で向かい合って立つ二人が居るのに気がついた。
自分と同じ制服と、もう一人はスーツ。
少し遠目になる上に、角度もつくから顔ははっきりとはわからないけれど、あの長身とヘアスタイルは間違いなくあゆ美だろう。ということは、相手は……。
「あゆ美、と康之先生、だよね?」
「ああ、もしかして。お前が言ってたバレちゃった友達って、屋敷のことだったのか?」
いつの間にかすぐ後ろに来ていた沖の言葉に、怜那は驚いて振り向く。
独り言のつもりで零した声に応える、その内容にも。
「先生、覚えてたんだ? そりゃそうか」
あゆ美は確かに「卒業したら告白する」とは言っていた。それにしても早速今なのか!? ただいったん帰ったら、学校に来る機会などわざわざ作らなければもうないのだ。
卒業するというのはそういうこと。
……いくら親しい友達でも、事情を知っていても。これは『他人』が見ていていいことではない。
怜那は体ごと振り返り、視線を室内に向けた。その途端、沖と目が合って、そのまま見つめ合う。
なんだか少し、こちらの部屋の空気の色も変わった、ような気がした。
──よし、今だ!
ずっと心に決めていた。卒業したら、改めて沖に告白しようと。
それはきっと今なのだ。今しかない!
あゆ美の姿にも勇気をもらった気になり、怜那は気合を入れ直して沖と向かい合ったまま背筋を伸ばす。
「沖先生──」
怜那の呼びかけは、沖に制された。「有坂、俺が先でいいか?」
「……あ、うん。はい」
──先生、タイミング悪すぎなんだけど……。
胸の内で独り言ちた怜那は、続く沖の台詞に何も考えられなくなってしまう。
「……長い間、待たせてゴメン」
沖の
彼の方からそんな風に言ってくれるなどと、想像もしていなかった。
「ずっと何も言ってやれないまま、中途半端な状態で放置して。お前が心変わりしても仕方ないと思ってた。でもお前は、こんな俺をずっと待っててくれたよな」
「待ちくたびれるくらい待ってたよ、私。でも先生だって待っててくれたでしょ。私たち、お互いに我慢比べしてたみたいなもんじゃない?」
怜那は、高い位置にある彼の顔を見上げて、口を開いた。
「卒業したら私がもう一回告白して、付き合ってくださいって申し込もうと思ってたのに。まさか先生に先を越されるなんてさぁ」
「それくらい俺にさせてくれよ。ずっと年上の俺がお前に頼りっきりじゃ、あまりにも情けないだろ?」
怜那の言葉に、沖は笑って返して来た。
「で、返事は?」
沖が揶揄うように訊いて来る。
「え? 今言ったじゃん」
「それはお前が言いたかったことだろ? 俺の告白への返事は?」
「先生、子どもみたいな理屈だよ、それ」
仕方がないな、と居住まいを正す。
「はい、私も沖先生が大好きです。だから、お付き合いしましょう」
故意に
「ねぇ先生。……キスして欲しい。やっと卒業したから。もう『先生と生徒』じゃないから、いいよね?」
「まだ、ダメ」
ここまで来たらもう恥も何もない、と勇気を出して口にした怜那の願いを、沖は迷いも見せず即座に拒否した。
「え? なんで!?」
「まず、ここは学校。……ていうのは別としても、だ。卒業はしたけど、厳密には三月中は高校生だから。まだお前は俺の教え子のままだろ」
沖はいきなり口調まで堅苦しくなって、怜那に言い聞かせるように告げる。
……この人は。本当にこんなときまで『先生』なのか!?
「だから、そういうのは全部四月になってから」
──まぁいいや、あと一か月もないんだから。どうせここまで待ったんだから、もうちょっと待ってあげるよ。
余裕を見せたつもりの怜那は、また別の提案をした。
「だったらさぁ、春休み。えっと、四月入ってからでいいから」
四月はもう大学が始まるから春休みではない。しかし、単なる口実のようなものだから、別に構わない。
怜那は自分の中だけで納得して話を続けた。
「二人だけで会いたいんだけどな。どっか行ったりとか。いい?」
「いいよ、もちろん。どこか行きたいところがあるのか?」
すんなり了解してくれた沖の言葉にホッとして、怜那は次はどうやって切り出そうか、と考えを巡らせる。
「え~、そうだなぁ。ある、けど」
「どこでも、とは聞く前に簡単には言えないけど、できる限り希望に添えるようにするよ。お前には我慢ばっかりさせて来たから。どこかに出掛けるどころか何もして、言ってさえやれなかったんだもんなぁ」
沖は自分でもそれが気になって仕方ないようで、少しでも怜那の意に添うようにと考えているようだ。
「どういうとこがいいんだ? 俺は春休みっていっても単に授業がないだけで休みじゃないから。平日はいつも通り仕事だし、できたら週末にしてもらえるとありがたいかな。もちろん、会うだけなら平日の夜でもいいんだけどさ」
沖は遠慮がちに提案するが、怜那も沖に仕事があることは十分承知だ。
「どちらにしても、あんまり遠くは無理だから日帰りは最低条件だよ。別に今、ひとつに決めなくてもいいんじゃないか? これからいくらでも会えるんだからな」
「いっぱいあり過ぎて、すぐには出て来ないよ」
「絞れないなら、行きたいところ思いつく限り言ってみれば? 全部順番に行けばいいだろ」 沖はそう言ってくれたけれど。
怜那がいちばん行きたいところは、本当はもうとっくに決まっている。
「私、まず沖先生の家に、行きたい、んだけど。ダメ、かな……?」
「いいよ。四月以降ならいつでも」
恐る恐る切り出した言葉にあまりにもあっさり頷かれて、怜那はかえって驚く。
「ホントに? ホントにいいの? え、だって家だよ?」
「いいよ。お前の方こそわかってるのか? 俺の家だぞ」
にやりと笑った沖の表情に、怜那はまるで知らない人のような感覚を抱く。
──沖先生って、こんな顔してた? こんな笑い方、見たことな、……!
ぼんやりと考えていた怜那は、沖の言葉の意味をようやく悟って硬直する。
「さっき日帰り限定って言ったけど、俺の家ならその限りじゃないから」
「……え? えーと、それ」
「ま、それはさすがに冗談だよ。すぐにはちょっと、な」
これはやはり、『そういう』意味なのだろうか。
「でも、朝から晩まで一日中居てくれて構わないから」
「……先生、私とその、えっちなこと、したいの?」
「……お前なぁ。そういうことハッキリ訊くなよ。いや訊くにしても、もうちょっと言葉のチョイスとかさ……」
沖は呆れたようにそう言った同じ口で、すぐに囁いた。
「したいよ。ずっと我慢してたから、俺も。お前だけじゃないんだよ」
──先生、その声は反則じゃないの?
「逆に訊きたいんだけど。俺のこと、いったいなんだと思ってたんだ?」
少し意地悪な表情で、そんな風に問うてくる沖に。
ついさっき、キスさえ拒んだ清廉潔白な教師の顔とは全然違う。
なんと表現すればいいんだろう。こういうのを男の色気とでも言うのだろうか?
怜那はまったく想定外の状況に声も出せなかった。
あぁ、この恋人、は、やっぱり大人の男なのだ。
まだ十八の小娘である自分が敵うわけがない。