◇ ◇ ◇
ID交換をしたあのときの、練習のようなやり取り以来、怜那は初めて沖にメッセージを送った。
《先生、ちょっと話したいことがあるんだ。》
《もしできたら、学校じゃない方がいいんだけど。》
《通話できる時間とかあったら教えてください。》
《あ、ゴメン! 無理ならいいからって言うの忘れた!》
続けて送信して、あとは沖の応答待ちだ。
《今晩、九時頃からなら大丈夫だけど、お前はそれでいい?》
三十分ほどして返信が来た。
速攻で《私も大丈夫!》と送る。
《だったらこっちから掛けるから。ちょっと待ってて。》
沖の返事を確かめて、怜那はほっと息を吐いた。
あゆ美のことを、沖に相談してみようと思ったのだ。
生徒の自分たちには、どうしても先生側の気持ちはわからない。だから沖に訊いてみたかった。
もちろん、沖は高橋ではないから、あくまでも教員の立場的なものだけでも。
九時少し前から、怜那は机の上のスマートフォンをちらちらと見るのを止められなかった。
沖は忙しいのだから、きっちり時間通りには無理かもしれない。
そう思っていたところへ通話の着信音が鳴って、怜那は飛びつくようにしてスマートフォンを手に取り、応答ボタンを押した。
「はい! 沖先生?」
『そう。今話せるか?』
「うん。あの、相談があるんだけどいい?」
話しながらベッドに乗り上げ、掛け布団を
『いいよ、俺で答えられることなら』
「あの、友達の話、なんだけど」
怜那は、いったん台詞を頭で唱えてみてから、沖に向けて話し出した。
「えっと、誰かとかはちょっと言えないんだ、ゴメン」
そういえば、沖と直接ではなく話すのは初めてだと気づく。
それがこういう話になるとは思わなかったけれど、ちょっと新鮮で楽しい、なんて申し訳ない気もする。
沖の忙しさは知っているからこそ。
「私の友達が先生のことが、あ、沖先生じゃなくて他の先生が好きなんだって。その子、結構好きな先生のことじっと見てて、私が見る限り相手の先生も気づいててもおかしくない気がして」
何と言っていいかわからず、怜那は単刀直入に切り出した。
「これは私の想像でなんとなく、ってだけなんだけどさ。でも」
あゆ美や高橋を特定できるようなことには触れないように、それでもなるべく詳しく、と
「で、もし、なんだけど。その先生が友達の気持ちに気づいてたとしたら、どうすればいいと思う?」
『……どうって、どういう?』
「それが私にもわかんないんだよ。その子にも直接言ったんだけどさ、私みたいに──」
沖の戸惑いを隠せない声に、怜那も困ってしまうが。
「あ、そうだ。私と沖先生のこと、気づかれちゃったんだ。ゴメン」
唐突な爆弾発言に、沖は焦ったらしい。
『え、え! 気づかれた?』
「そう。先生にはまだ報告してなかったよね。私も言われたときは吃驚したよ」
沖との温度差も感じない様子で、怜那はあっさりと答えた。
「あのさ、好きな先生のこと見てるうちに、他にも仲間がいないかなっていろいろ見てたら、私と沖先生がなんかヘンだって気づいちゃったんだって。でもその友達は絶対言い触らしたりしないから! それだけは大丈夫だよ」
『……その子は大丈夫だとしても、わかってしまうってのはちょっと見過ごせないだろ。十分注意してたつもりだったんだけど。どっかに抜けがあったってことなんだろうなぁ。──どうすりゃいいんだよ』
沖の気弱な声に、怜那も事態の深刻さがようやく理解できて来た。
確かにその通りだ。
沖の気持ちを言葉ではなく告げられたあのとき以外、彼と怜那の間には身体的な接触はまったくなかった。
手を繋いだことなどもちろんないし、腕や肩に触れられたことさえなかった、筈だ。
そもそもそこまで密着したことがない。そうならないように気をつけていた。
好きだと告げたのも、最初の一度きり。
あのときは締め切った教室の中央で二人だけだった。
すぐ傍の沖に聞こえる程度の声しか出していないから、万が一教室の外に誰かいたとしても、聞こえることはないだろう。
アプリのID交換のときも事情は同じだ。
直前に大翔が出て行ったから、もし外に誰かいたのなら必ず戻って来て注意してくれた筈。
他にはそういった話もまったくしたことがないから、何か取り返しのつかないようなことを聞かれてしまったという可能性もない。
では、何が?
……二人の間の空気が、普通ではなかったということ、なのか。
黙り込んだ怜那に、沖が慰めるような言葉を掛けてくれる。
『もし何か見落としたことがあったとしたら、それは全部俺の責任だから。お前は何も気にしなくていいんだよ。それで? 相談の続きがあるんだろ?』
沖が故意に話を変えようとしてくれているのはわかったので、怜那もそれに乗ることにした。
済んだことを、ただ嘆いても仕方がない。
それについては、当然ながら別に話す必要はあるけれど。とりあえずは。
「……うん。えーと、なに話してたっけ? あ、そうだ。その子にさ、私みたいに勢いだけで告白しちゃダメだよ、って言ったんだ」
あゆ美との会話を反芻しながら、怜那は沖に話す内容を整理して行った。
「だけど、ちゃんと考えてからならいいのか? ってわかんなくなったんだよ。だから、それを沖先生に訊こうと思って」
怜那は、最初に沖に確認しようと思ったことを思い出して口にする。
「学校の先生ってさ、やっぱり生徒に好きだって言われたら困るもんなの?」
怜那の無邪気とも取れる問いに、沖はさすがに何とも答えようがないらしい。しばしの沈黙。
『……そ、れは、一般論としてはやっぱり困る、んじゃないか、と』
沖はようやく言葉を繋いだ。
『俺に何を言う資格もないのは承知の上で、高校生相手なんてひとつ間違えれば犯罪だからな』
犯罪。
その単語の持つ重みに、怜那も言葉を失くしてしまう。
──そんな、……そんなこと。私はただ、人を好きになっただけだよ。先生だって。それがそんなに悪いこと、なの?
『でもお前がその友達に、安易にけしかけるようなこと言わなかったのはよかったんじゃないか? どうしたって相手があることだから。望まない結果になっても、誰も責任は取れないんだからさ』沖は、決して歯切れはよくないものの、真摯に話してくれている。
『大人として、教師としてなら、俺はやっぱり止めておきなさいとしか他に言いようがないんだ。──でも結局は、その友達が自分が決めることなんだよ』
「……そうだよね、わかった。ありがとう、先生」
とりあえず相談が一段落したことで、沖が話題を戻してきた。
『なぁ、有坂。さっきの話だけど。これからは、学校ではなるべく二人きりにならないように、話もしないようにした方がいい』
沖は怜那を傷つけまいとしてか優しい声で、それでもきっぱりと結論を出してきた。
『特別避けるって意味じゃなくて、ごく普通に担任とクラスの生徒のひとりとしてだけ接するようにしよう。そう思えば、こうして連絡先を交換したのはよかったな。できるだけ時間作るようにするから、メッセージとか通話とかだけで我慢してくれないか。──ゴメン』
「先生、私は大丈夫だから。この通話とかメッセージだってさぁ、もともと前は何もなかったじゃん。学校でだって、別にずっと一緒に居られたわけでもないし」
沖がすべてを背負い込む必要なんてない。この関係は二人のものだ。
「だから、そんなに気を遣わなくていいよ。時々アプリで相手してくれたら、それだけで嬉しいから。そんなしょっちゅうじゃなくていいしさ。あ、学校ではもちろん、もうあんまり先生の傍にも行かないようにするね。補習以外では」
『悪いな、有坂。ホントに何もして、言って、やれなくて。俺は、……俺はどうしようもないダメな──』
「先生のせいじゃないじゃん! 私が待てなくて言っちゃったのが、きっと悪かったんだよ。──そうだよ、別に私は先生に騙されたわけじゃないんだから。先生は何も悪くなんかない」
沖の苦しそうな声に、怜那は必死で言い募った。
しかし、逆効果だったのかもしれない。
『それじゃ通らないんだよ。もしバレたら、俺は加害者でお前は被害者なんだ。社会ってのはそういうものだ。そういう秩序で成り立ってるんだよ。──二人が納得してればいいなんて思い切れない。俺は今も、心のどこかで怖がってるんだ……』
「そんなの当たり前じゃない? 私さぁ、先生のきっちりしてるとこも好きだよ。特別に何かして欲しいとか、全然思ってないもん」
今、沖が目の前にいたら。
見上げるほど大きな彼を、抱き締めてやりたいと思う。
……現実には、怜那が手を伸ばした段階で、沖が
「だから、もう謝らないでよ」
──なんか哀しくなっちゃうから。
『……そうだな、わかったよ』
声には出さなかった怜那の想いが、デジタルな回線越しにも伝わったのだろうか。沖は泣き言を止めて、安心させるように答えてくれる。 遠慮せずにいつでも連絡して来いよ、と最後に告げて、沖は通話を終わらせた。
──大丈夫、大丈夫だよ私は、先生。
怜那は、自分に言い聞かせるように唱えてみる。
沖が怜那を好きでいてくれるのだけは信じていた。それだけで他には何も要らない。