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第二章『Problem』③

 宮崎と別れてひとりになった沖は、今日の教え子からの『告白』について考えている。

 怜那が真剣だったのだけは疑っていない。

 短い時間でも、すぐ傍で彼女をずっと見ていてそれは確信していた。

 趣味の悪い揶揄いだとは微塵みじんも思わなかったが、そうでなくても彼女は「ちょっと言ってみただけ」程度の軽い気持ちで、ああいうことを口にできる子ではないと沖は捉えていた。

 そこまでわかっていながら、あんな風に逃げを打ったのは沖の弱さだ。

 正面から怜那の真っ直ぐな気持ちを受け止める気概がなかった、ただそれだけの。

 教師と生徒。

 成人した自分と、十八歳未満の彼女。

 職業を抜きにしても、簡単に受け入れられるものではない。

 断るのが当然だ。いや、拒絶するのが義務だ。──相手は、子どもなのだから。

 自分は正しいことをした。その、筈だ。

 なのに、何故。性懲りもなく、同じことばかり考えている?

 ──何故、俺は。俺、は……。

 何故、悩んで、──迷っている? そんな必要は、どこにもないのに。

 それからの三日間。沖は迷い、悩み続けた。

 三日三晩、とは言わない。

 沖には教員としての責務がある。少なくとも日中は私事で悩む余裕などある筈もなかった。

 それでもこの間、夜一人の家に帰るたびに怜那のことを考えているのだ。

 ドアを開けて、一人暮らしのマンションの部屋に足を踏み入れた瞬間から、沖の思考タイムは始まる。

 着替えて、買ってきた弁当を味もよくわからないままに食べながら。

 空き容器を捨てて、三点ユニットの狭いバスタブの中で立ってシャワーを浴びながら。

 翌日の仕事を思い、眠気もないまま潜り込んだベッドで延々と寝返りを打ちながら。

 沖はずっと、自分に恋心を突きつけて来た生徒のことだけ考えていた。

 あの、二人きりの補習。

 普段とは段違いに近い、少し手を伸ばせば触れ合える距離で向かい合って、沖が教えて怜那が問題を解く。

 教室で教員に対しては滅多に見せない笑顔も、沖にはもうすっかり見慣れるほどに向けてくれていた。

 説明する沖を、真剣な顔で見つめる怜那。

 俯き加減でプリントに数字を書き入れて行く彼女の、少しやりにくそうにも見える左利きの手元ではなく、伏せた目元をじっと見ていた、沖。

 考えて、考えて。

 ……彼女の想いが決して一方通行ではないことから、目を背けていられなくなるまで。ずっと。

「好き、なんです」

 怜那の、落ち着いたアルトの声。

 年より幼く見える可愛らしい笑顔には、不釣り合いに感じるほどだ。

 その声で紡がれた台詞が、繰り返し脳内で再生されていた。

 そして正直なところ、無表情で無感動な印象が強過ぎて彼女の容姿に纏わる話を聞いてもピンと来ていなかったのだが。

 一度気づいてしまえば、目を奪われて逸らせないほどに整った綺麗な顔立ちも。背中を覆い隠すほどの真っ直ぐな黒髪がなびく残像も。

 沖の脳裏から、一瞬たりとも消えることはなかった。

 無意識に逃げ腰になる自分の気持ちを必死で引き戻しつつ、ただ只管に彼女のことだけを。

 彼女の言葉の、意味を。──重みを。

 ──俺はまた、有坂を突き放して傷つけている。あの子の勇気を、覚悟を、俺は自分の保身だけでなかったことにしようとしたんだ。


    ◇  ◇  ◇

 告白から三日後。

 沖の呼び出しに応じて、怜那は放課後の進路指導室前にやって来た。

 以前は二人きりの補習で使っていた懐かしい空間。

 今回は指導室前の広い廊下の壁沿いに個別の着席ブースが並ぶ慣れ親しんだ一角ではなく、指導室隣の談話スペースとして使われている部屋だった。

 椅子を丸テーブルを囲むように並べたセットがいくつか置いてあるそこは「談話スペース」という名ではあるが、あくまでも進路指導室の一部という位置づけなので、生徒だけで勝手に使用はできない。

 事前の申請が必須で、鍵も担当教員が管理している。

 沖がその教員に使用予定がないことを確認して鍵を借りて来たので、邪魔が入る心配はなかった。

「有坂、この間はゴメンな」

 沖は、入り口からも窓からも離れたテーブルの脇で、立ったまま怜那と向き合っていた。

 俯いてはいないが、自分よりずっと背の高い沖の顔を見上げることもしない彼女に、優しく話し掛ける。

「お前がせっかく……。せっかく思い切って言ってくれたと思うのに、ああいう答え方は卑怯だった」

 沖は潔く非を認めた。

 ここで虚勢を張ることに意味などない。決めたのだ。この子の純粋な勇気には、沖も素直に応えたい。

「でもな、これも卑怯には変わりないかもしれないけど。俺は教師でお前は生徒だから、思ってても言えない、できないことはあるんだよ。……わかってくれってのは虫が良すぎるか」

「沖先生、私」

 怜那が、ここに来てから初めて、沖と目を合わせて来る。

「それくらいわかってる。私は、私たちはそこまで子どもじゃないから。なのに、わかってたのに我慢できなくて言っちゃったのがダメだったんだよ。……あーそうか、これが子どもだった、ってことなのかな」

 そのまま、沖を見上げながら話し始めた。

「私の方こそ、先生を困らせちゃってごめんなさい」

 怜那が少しずつ言葉を探しながら、想いを声に乗せて行くのを、沖は黙って聞いていた。

「先生、お願いがあるんです。我が儘なのはわかってるけど。私の訊くことに何も返事はしなくていいから」

 微かに震える声で、紡がれる言葉。

「もし違ってなかったら、笑って欲しい。それだけで、いいから。……沖先生は、私が嫌いなんじゃ、ないよね? 別に先生が、私と同じように思ってくれてなくていいんだ。だから嫌われてないって、それだけ知りたい」彼女の縋りつくような瞳に、沖も覚悟を決める。

 ──もう決めていた筈だけれど、さらに。

「……嫌いなんかじゃない。それだけは確かだよ」

 まずは怜那を安心させる言葉を。

「でもゴメンな、俺は。俺はまだ言葉はやれない。つまらない大人なんだよ、俺は。だけど」

 沖は、目の前の怜那の背中に素早く両手を回し、軽く抱き締めて即離す。

 彼女は自分に起こったことが瞬時には理解できないようで、ぽかんと口を開けて呆然としていた。

「……っ、ありがと」

 ようやく現実を把握できたらしい怜那が、微妙に目を逸らして沖にそれだけ告げたかと思うと、身を翻して駆け足で部屋から去って行った。

 沖は一気に疲れが襲って来たような気がして、彼女の背中を見送ってから、近くにあった椅子を引いてどさっと腰を下ろす。

 やってしまったことは、もうどうしようもない。取り返しがつかない。

 普段の自分からは考えられないような言動。いったい何がどうしてしまったのだろう。

 ……これから、どうすればいいのだろう。

 そんな思いも、頭の片隅に確かにある。

 それでも、一方ではそんな風に考えながらも沖は心の奥底では決して後悔はしていなかった。


    ◇  ◇  ◇

 沖を置き去りに部屋を飛び出して、階段を一気に駆け下りる。

 怜那は、一階の昇降口まで来てようやく足を止めた。

 切れた息を整えながら、スマートフォンを取り出し通信アプリのトークルームを開く。

 大翔にメッセージを送ろうとして、はたと気づいた。

 ……これは誰にも、いくら幼馴染みに対してでも、言ってはいけないのではないだろうか。

 大翔は、絶対に言い触らしたりしない。どんなに信用できる相手だとしても、誰にも他言はしない。

 怜那はそう断言できるし、沖にしてもそれについては疑うことはないだろう。

 それでも、沖が怜那を信じて告げてくれた気持ちは、自分の中だけに止めておくべきなのではないか。

 沖は言葉にはできないと口にしたものの、違う形で伝えてくれた。あれはきっと怜那のためだ。怜那が子どもで、明白に見せてもらわないと不安だと彼は知っていたから。

 これは本当に、凄く大事なことなのだ。絶対に誰にも知られてはならない、そういうこと。

 怜那は大きく息を吸って、そのままスマートフォンをポケットにしまう。

 ──大翔には、もし訊かれたらその時に考えるのでいい。それも口には出さないことにしよう。YesかNoか、目で答えるくらいなら、いいかな?


    ◇  ◇  ◇

 沖はいったん座った椅子からゆっくりと立ち上がり、談話スペースの窓際まで歩いて行く。

 窓越しに外を見下ろせば、校舎から出て来た怜那の後ろ姿が視界に入り、自然に頬が緩む。頭ではなく、心が身体を支配していた。

 有坂は今、十六歳だ。あと何か月かしたら十七歳、ではあるが。まだまだ先は長い、のだけれど。

 想いを伝えてしまったことがよかったのかどうか、今はまだわからない。

 それでも、後悔だけはしない。十六歳の少女に、ただ甘えていてどうするのか。

 ──待ってるよ、お前が少しずつ大人に近づいて行くのを。……俺に近づいて来るのを。

 俺はお前をすぐ傍で見守りながら、楽しみに待ってる。


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