「ちょっと確認なんだけどさ。怜那は沖先生の補習行きたいのか?」
大翔に訊かれ、怜那は一瞬の躊躇いの後で思い切って口を開く。
「うん、行きたい」
行けるか行けないかが真っ先に浮かんだ。けれど、そうではなくて行きたいか行きたくないかなら、答えは考えるまでもなかった。
「怜那が補習行きたいなんてなぁ。しかも数学! 天変地異の前触れかよ」
怜那の答えに、彼はにかーっと笑う。
──大翔ってホントに表情豊かだよね。顔も、……私の趣味じゃないけどカッコいい方だ、と思うし。背も高くて、性格も明るいし頭もいいもんね。男も女も友達いっぱいいて、しかも凄いモテるのに、なんで家が隣ってだけの私といるんだろ。
怜那は、一部で自分と大翔の仲が誤解されているらしいのも知っている。
実際には生まれた時から隣同士の幼馴染みという関係、それ以上でも以下でもないのだが。
彼も探りを入れられるたびに、あっけらかんと「怜那は妹としか思えないな」と返してはいたが、一緒に居ることが多いせいで疑われることも珍しくないらしかった。
──もしかして、モテすぎて鬱陶しいとかで、誤解も都合いいと思ってんのかな。それはそれでどうなんだって感じではあるけど。大翔がいいんなら、私は全然構わないんだけどさ。
怜那自身、今までに彼氏が欲しいなどとは思ったこともなかった。
それどころか大翔の存在がある種の
怜那は特別背が低いわけではないが、とにかく細身だ。女性らしい
子どもみたい、幼児体型、いくら顔がよくてもあれじゃね、と聞こえよがしに嘲笑われても、怜那には相手が期待しているだろうダメージなどはない。
しかし、羽虫のようなもので邪魔なのは間違いなかったからだ。
大翔に直接
見様によっては、か弱く繊細そうに映るらしい顔立ちや体形。
謂わばイメージだけで寄って来た男子生徒が、怜那を「キレイ」「カワイイ」と褒めそやし、「守ってあげたい」と口走るに至っては失笑しか出ない。
しかも辛辣な対応で返り討ちにあって、腹立ち紛れに悪評を振りまくような彼らには辟易していた。
「……怜那さぁ、沖先生が好きなんだよな?」
唐突な大翔の問いに、一瞬時が止まった気がした。目の前が真っ暗になり、──周囲から少しずつ色が戻って来る。
「何、何言って、大翔──」
半ば頭に霞がかかったような状態で、怜那は何とか笑い飛ばそうとした。けれど、たぶん上手く笑えていない。
「そんなわけ、ないじゃん。いきなり何なの?」
「怜那。俺に嘘吐かなくていい。……無駄だから」
「嘘、なんかじゃ……。嘘、ってそんな」
……笑えない。怜那は今、冗談では済まない事態に陥っている。
──男の話なんてどーでもよかった。今まで好きな人なんていなかった。ホントに! ……ホント、に?
「大翔、私。私、──どうしよう」
「何が? お前にとって、好きな人が居るのって困ることなのか?」
冷静に、怜那の逃げ道を塞いで回るかのような大翔に混乱する。
なんだかんだ言っても、常に優しく見守って、──甘やかしていてくれていたのだろう幼馴染みの厳しい対応。
「す、好きな、人、なんて」
「怜那、何が怖いんだ? 人を好きになるのは、全然悪いことじゃないだろ。……まあ、相手が相手だけどさぁ」
「だって私。男、なんてどーせ──」
「……沖先生は怜那の顔とかだけ見てる連中とは違うよ。それくらい、お前はわかってる筈だ」
大翔の、低く抑えた声。
「……私。私は沖先生が、好き──」
意思とは別の何かに導かれるように、自然に唇から転がり出た声が耳に届いた。呆れるほどありふれたその言葉が、熱を持って身体中を駆け巡る。
──好き。……そうだ、私は沖先生が好き、なんだ。
大翔に追い詰められて、引き摺り出された感情。
口にして初めて、怜那はようやく気づいた。いや、認めざるを得なくなった、のかもしれない。
沖への想いは、実はずっと心の中にあったのだということを。
今まで、全力で見ない振りをして目を背けていた恋心に、怜那は今初めて触った気がする。
触って確かめて、本物だと、──もう誤魔化すことはできないと悟ったのだ。
「よし、決まり! 補習行こうぜ」
一息おいて、大翔が明るい声で宣言する。
「……行きたいけど行けないんだよ、沖先生はもう補習しないって。もしホントに、忙しいっていうのがただの言い訳で、他に何か私には言えない理由があったとしてもさぁ。結局は、ひとりじゃ無理だっていうのは変わんないし」
「だからさぁ」
彼は芝居がかって、少し言葉を溜める。
「ひとりじゃなきゃいいんだよな? ──俺に任せろ」
大翔は如何にも何か企んでいるようなわざとらしい笑顔で、怜那に告げたのだ。
◇ ◇ ◇
「怜那、明日補習な。一緒に行こう」
数日後。
帰ろうと教室を出た怜那は、腕を掴んで引き留めた大翔にいきなり告げられて混乱する。
「は? 補習、……明日って、──」
しどろもどろの怜那に、大翔は何も答えず
「とにかく、行けばわかるから。な?」
「……うん」
翌日の放課後、怜那は教室まで迎えに来た大翔に先導されて廊下を行く。
「あの教室だから」
そうか。もう二人きりとは違うのだから、上のブースでは無理なのだ。
大翔が指す教室に入り、教卓の前の数列目の隣同士の席に座って待つ。
しばらくして、教室の前のドアが一気に開けられた。
「待たせて──」
ドアに手を掛けて、沖が言葉も途切れたままに固まっている。
怜那には、沖の反応の意味がまるでわからなかったのだが。
「あ、沖先生。すみません、やっぱり人数集まらなくて。本当に、せっかくの機会なのに勿体ないですよねぇ。──だから二人だけなんですけど、構いませんよね!?」
──大翔、私と二人だって黙ってたの? ……大勢でやるからって頼んだってこと?
「複数には違いないですからね、先生?」
どうやら、怜那の予想通りらしい。
もしここで、沖が「じゃあ止める」と怒ったらどうすると思い掛けて、……彼はそういうことはしそうにもないか、と怜那は自問自答の結論を出した。
実際に、沖は目に見えて動揺してはいたが、補習は「当然行うもの」という前提は揺るがない様子だ。
「二人だけなんだったら、やっぱり教卓より俺もそっちの方がいいかな」
なんとか立ち直ったらしい彼が、独り言のように呟く。
「あ、じゃあ席作りますから」
さっと立ち上がり、すぐ前の机に手を掛けた大翔に、怜那も慌てて続き二人で机を移動させた。
大翔と怜那が二人で並んで、その前に沖が向かい合うという配置だ。
どうやら、誰が来ても対応できるようにと多種類のプリントを作成して来たらしい。
沖は分厚い紙の束から二人の学力に合うものを探し出して、それぞれに渡してくれる。
改めて互いに挨拶を交わし、一対二の補習が始まったのだ。
◇ ◇ ◇
──大翔、ホントにありがとう。
心優しく頼りになる、同じ年なのに兄のような友人に、怜那は何度目かの感謝を捧げる。
沖と二人きりでなくなったのは、少し、ほんの僅かに惜しい気持ちはある。けれど、大翔が教えてもらっている間、「先生」の顔を遠慮なく見ていられるのだから、それはかえって幸運かもしれない。
沖にとっては補習など、ただ手間が増えただけの筈だ。
それくらいは怜那にもわかっている。それでも。
沖と他の誰よりも近い距離でいられるのは間違いなく怜那なのだから。大翔は、とりあえず置いておくとして。
──だから私はほんの少し、その時だけは先生の特別になれた気がして、凄く嬉しかった。
怜那はこの気持ちを沖に気づかれないように、どんなに嬉しくてもあまり表に出さないようにしないと、と気合を入れ直した。
もし知られたとしても、沖は怜那を邪険に扱ったりはしない筈だ。
たとえ内心は違っていたとしても、今まで通りにごく普通に接してくれるだろう。
そう、沖は。
しかし、万が一それ以外の他人に知られた場合、誰よりも沖に迷惑が掛かってしまう危険がある。
怜那本人ではなく、想いを寄せられただけの沖の責任が問われることになるかもしれない。
……自分たちはそういう関係で、年齢なのだ。
怜那は、ただでさえ忙しい沖に余計な気遣いをさせるようなことはしたくなかった。
何よりも、沖はみんなの『先生』で、怜那のためだけの存在ではないのだから。
怜那にとっての沖は唯一無二だが、沖から見た怜那は所詮クラスの四十人の中の一人でしかない。
それだけは忘れないように。
そして、だからこそ。
補習のときに目に焼き付けた沖は、怜那だけのものだ。
心の中の、沖を想う気持ちの横にそっと置いておく。