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第一章『Lesson』④

「お前って結構素直なんだな。……あ、いや。生意気だとか太々ふてぶてしいヤツだとか思ってたわけじゃないから! ホントに違うからな」

 補習も回を重ね、互いに笑顔で向き合うことにも慣れて軽口も出るようになった頃のこと。

 沖がふと口にした感想をなんとか取り繕おうとして、かえって収拾がつかなくなってしまったらしい。

「先生。なんか言えば言うほど襤褸ぼろ出てるよ。──私はもう、今更どう思われたって平気だし。それくらい覚悟してなきゃ、普段からあんな可愛くない態度取れるわけないじゃん」

 怜那が特に自嘲するでもなく告げた言葉に、沖は笑みを消して真剣な声で詫びて来た。

「俺の失言だ。申し訳ない。お前は確かにわかりにくいってか誤解されやすいかもしれないけど、──俺が今まで見てたのは、実際の有坂じゃなかった。自分が勝手にこうだろうって決めつけたお前だったってやっと気づいたんだ」

 教師に頭を下げられたのは初めてだ。

 怜那は問題児ではないが、聞き分けのいい優等生ポジションでは決してないので、叱られたり注意を受けることは普通にある。

 中には教師の思い込みなのか、身に覚えのないことで叱責を受けたこともあるが、たとえ疑いが晴れても曖昧に流されていた。

 己に否のあることで生徒に謝罪するという行為が、教師の威厳を損なうなどという考えは沖にはないのだろう。

 正当化を図らなければ保てない威厳に、どれほどの意味があるのかも不明なのだが。

 実直で、ただ型通りを遵守しているようにしか見えなかった沖。しかし、彼が大事にしているのは『型』だけではないのかもしれない。

「有坂、これ今日の分な」

 沖から渡されたプリントを何気なく受け取り、怜那は今更のようにふと湧いた疑問を彼に投げ掛けた。

「先生、これいつも作ってるんだよね? 授業とは別に、わざわざ私のために」

「んー、まあ作ってはいるけど。定期テストと違って、一から自分で考えるわけじゃないし大した手間じゃない。──さ、集中!」

 それ以上そちらに話が流れないようにか、沖が机に置いたプリントを人差し指で叩く。

 とはいえ怜那にも、「大した手間じゃない」筈がないことぐらい想像はつく。

 生徒に対して、四十人相手の授業だろうが怜那一人の補習だろうが、変わらず手を抜くことなどない沖にとっては、本当に苦労のうちに入らないのかもしれないが。

「……教師の仕事ってさ、『いくら売り上げた!』とか『こんな凄い物作った!』とか、そういうはっきり目に見える成果ってないんだよ。でも、俺はこうやって教えてて、お前ができなかった問題を解けるようになるのが何より嬉しいかな。それだけで、プリント作りの手間なんてどうでもよくなるんだ」

 納得していない怜那の表情に気づいたのか、沖が少し違う角度から話してくれている。

「だから、生徒が教師の負担なんて考えなくていい。もし気になるんなら、その分自分の勉強を頑張ってくれた方がいいな。それが俺の喜びになる」

 教師として、生徒に本音を打ち明けることの是非は怜那には判断できなかった。ただ、沖のこの厚意に応えたいと強く思う。

 自分のための努力が、同時に相手のためにもなるのなら、とてもいい関係なのではないか。

 あくまでも、これは彼の仕事だ。

 いくら高校生の怜那とはいえ、当然理解している。

 それでも沖の、表向きにつくろったものではない熱意をひしひしと感じる。──彼が心の底から怜那の力になりたいと、全力を尽くしてくれていることを。

 共有する時間が増えるごとに、単に「仕事ビジネス」では言い表せない、沖の全身からほとばしる情熱に圧倒される気さえする。

 きっと、以前なら笑い話だった。「何ひとりで熱くなってんの!? 必死になったって給料おんなじでしょ?」と冷ややかな目を向けていたに違いない。

 けれど、その深い想いを一心に受け止めた今。怜那は、もう傍観者ではいられないのだ。

 己の立ち位置も、心のもあやふやなまま、どこからともなく押し寄せた激情に飲み込まれて行くかのように。

 ──先生に、コイツに教えても無駄だって思われたくない。ダメな奴だってがっかりされたくない。

 補習が終わって帰宅してからも、補習がない日にも、怜那は沖に与えられた課題を必死でこなした。

 こんなに真剣に数学に取り組んだのは初めてだった。高校受験時でさえ、他の教科でカバーすればいいとまともに向き合うことをしなかった怜那が。

 ──沖、先生……。

 補習など、ただ面倒なだけだった。放課後に予定があるわけでもなく、時間を取られて困ることなどないが、授業以外で何故数学などやらなければならないのか、とうんざりしていた。

 それなのに。

 補習の日を、その日が来れば放課後を心待ちにしている自分に、怜那自身が誰よりも戸惑っていたのだ。

 理由を改めて考えたことはなかったのだけれど。


「補習はもう今日で終わりにしようか」

 突然の沖の言葉に、怜那は何を言われたのか一瞬意味不明だった。

 ──いま、何……、終わり? なんで、終わり……。

「有坂、本当によく頑張ったよ。この調子で気を緩めずにやっていけば、進級や卒業はそこまで心配しなくていいんじゃないかな」

 ごく普通の声で沖が話す内容が、怜那にはよくわからない。

 日本語の意味はわかるものの、──理解できない。頭が、拒否しているかのように。

「え、で、でも。私まだ全然、先生の作ってくれたプリントだって、自分だけじゃ解けないし、あの──」

「……悪いけど、俺もちょっと忙しくなって来ててさ。授業だけじゃなくて行事も多いし。学外の研修なんかもあるしな」

 忙しい……。そうか、それなら仕方がない。、こんな個別補習など、沖には余計な仕事なのだから、──。

 必死で自分を納得させようと努めながらも呆然としている怜那から、沖は目をらして逃げるように立ち去った。

 ……少なくとも、怜那にはそう感じられたのだ。

 ──しょーがない、じゃん。先生は私の家庭教師じゃない。私だけの先生じゃないんだから。


    ◇  ◇  ◇

 柄にもなく落ち込んでいる怜那を、大翔は放置はできなかったらしい。

 一人っ子同士で兄妹のように育ち、ずっと一緒だった幼馴染み。

「先生が忙しいから、もう終わりなんだって」

 本当に忙しいのかもしれないし、……覚えの悪い怜那に、沖が呆れただけなのかもしれない。

 たとえそうだとしても、沖は生徒には当たり障りのない理由を告げるだろう。訊いても答える筈がない。だから真実は闇の中だ。

 補習のことを訊かれ、一言だけ口にした怜那に、彼は心配そうな顔で何やら考えているようだった。

 学校からの帰りに、話があると半ば強引に家に上がり込んだ大翔を、怜那は断る気力もなく黙って部屋に通す。

 普段なら、大翔は怜那の気持ちを読み取って先回りして行動してくれることも珍しくはない。

 それなのに、彼は引かなかった。怜那が今は話す気分ではないと伝わらなかった筈はないのに。

 大翔のいつにない行動の理由は、すぐにわかった。

「なぁ、怜那。思うんだけど、沖先生ってなんか言われたんじゃないか?」

「……なんかって何?」

「具体的には俺にもわかんねーけど、ひとりの生徒だけ教えるのはズルい! とかじゃないのかって」

 少し躊躇いを見せた末に、彼は思い切ったように話し出した。

「ここだけの話だぞ。生徒会の先生が、チラッとそんなこと言ってたんだ。英語の宮崎先生、怜那は受け持ってもらったことないと思うけどわかるか? ほら、あの若くてイケメンだけどちょっとチャラい感じの先生。──いや、いい先生だけどさ! 顧問なんだよな」

「知ってる、けど。一応。なんかクラスの子が『カワイイ』とか『カッコいい』とか騒いでた、ような」

 大翔は今期の生徒会長をしている。

 もともと成績もよくリーダーシップを発揮するタイプで、常にクラス委員や生徒会役員などを担っているのだ。

「なんかさぁ、ウルサイ親とかいるらしいよ。どーでもいいような細かいことで、いちいち学校に文句つけてくるんだって。だからさ、沖先生に実際にクレーム? なんかが無くても、そういうの気にして続けられないってこともあるのかと思ったんだよな」

 彼の言葉に、怜那は目を見開いた。

 その発想はなかった、けれど確かにそういうことを言い出す人たちがいても不思議ではない。

 ──学園ドラマではよくあるよね、そういうの。まぁドラマはともかく、ネットのニュースでも見たことあるような気がするし。


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