目次
ブックマーク
応援する
5
コメント
シェア
通報
第一章『Lesson』③

    ◇  ◇  ◇

 二日後、怜那は沖から補習に指定された教室へ向かう。

 初めて訪れるその場には、まだ誰も来てはいなかった。

 ──なんだ、私が一番乗り? まー、まだ時間あるけど、他の子何やってんだろ。

 適当に中央部の席に座り、そのまま帰るつもりで手にしていたバッグを隣席の椅子に無造作に置く。

 しかし、開始時間が迫って来ても教室には怜那ひとりきり。

 ──ちょっと待ってよ。この補習って、……私、だけ?

 この高校は、外部の全国規模の模試はともかく、校内の試験で順位を発表することはない。

 そのため、正確な自分の立ち位置は不明なのだが、自分で思っていた以上に途轍とてつもなく出来が悪い、ということなのだろうか。

 大翔が心配するのを、大袈裟としか感じてはいなかった。しかし笑い事ではなかったということなのか?

 そんなことをぐるぐる考えているうちに、教室のドアを開けて沖が入って来た。怜那は心許ない気分で、彼に目を向ける。

「ああ、来てくれたんだな。これから、週に何回かやることになるけど、よろしくな」

 生徒がひとりであることに触れない彼に、不安が増して来た。

「……はい、あの。先生、補習受けるの私だけ、ですか? 私、そんなにダメダメだったの? 学年で断トツ最下位とか?」

 恐る恐る尋ねた怜那に、沖はあっさり答える。

「いや? 順位は公表してないから、ちょっと言えないんだけど、お前が特別どうしようもないってことだけはないから。他の奴にも声掛けたんだけどなぁ、みんな忙しいのかもな」

「なーんだ、そっか。よかった~」

 沖の言葉に、怜那はとりあえず胸を撫で下ろした。

「私だけが全然問題外で、わざわざ補習しなきゃならないくらいなのかと思った」

「いや、でもお前に補習が必要なのは間違いないから。油断はするなよ」

 今まで、友人同士で勉強会や教え合いなどしたことがないため、怜那は学力について他人と比較しての物差しを持っていない。

 唯一互いに知らせ合う存在の大翔は、何故この高校に来たのかと不思議がられるくらい優秀なので、彼と比べた結果は無意味だったからだ。

「すげー! こんな偏差値出るんだ!」

 全国模試の結果を見せてもらい、最初に出る感想がそんなものだ。

 正直、なんの参考にもならない。別世界を垣間見る機会でしかないわけだ。こうなるともう異文化交流に近い。

 もちろん模試の成績を見れば、数学の出来が悪過ぎるのは一目瞭然ではある。

 しかし怜那は、トータルではそれなりの結果を出していることで、差し迫った危機を感じてはいなかったのだ。

 特に、私大文系の合否判定に用いられるのは数学を除いた三教科のため、余計に数学軽視に拍車がかかっていた。

 ……とりあえず、己の見通しが甘かったのだ。少しは本気でやらないと、ということか。

 予定人数が変わったことで、補習の形式を考え直していたらしい沖が提案して来る。

「お前だけなら、教卓からってのもなんだな。俺もこっちでいいか? あ、近くて嫌なら遠慮せずに言ってくれよ」

「いえ。構いません」

「わかった」

 沖は怜那が座っている席の前の机を逆向きにして、二つの机を向かい合わせにセットすると椅子を引いた。

 そして、補習用に作ったのだろうプリント類を、直接目の前の怜那に手渡してくる。

「よし。じゃ、始めよう。まずは、お前のいまの学力、──どこまで理解できてるか知りたいから、これ解いてみてくれるか? わからないところはそのままでいい。あとで、どこがどうわからないかも詳しく訊くから」 

 渡したばかりのプリントを指し示しながらの沖の言葉に、怜那は頷き左手にシャープペンシルを持った。


 以来ずっと、沖と怜那の二人きりの補習は続いている。

 最初は普通教室だったが、途中から進路指導室前の個別ブースに場所を変えていた。

 広い廊下の壁に、等間隔で並んだ作り付けのパーテーション。区切られたスペースのそれぞれに、テーブル一つを挟んで椅子が二つ置かれている。

 始まった頃は、教室の前後のドアを開けたままで補習が行われていたのだ。

 放課後なので無理もないのだが、他の教室や廊下からの雑音が絶えなかった。耐えられないというほどのことはないが、多少気が散るのは事実だ。

 怜那は数学の勉強で余計な騒音を遮断できるほど集中力は発揮できない。

 いや、教えてもらうのだから、完全に自分の世界に没頭するのも違うだろうが。

 小規模の文化部は、普通教室を利用して活動している場合も多いのだ。

 大暴れしているならともかく、一切の声や物音を控えろとは注意もできないと沖が溜め息混じりに零していた。

 それは怜那にも理解できるのだが、ならば何故ドアを閉めないのか。

「えーと、なんていうか、その……。ちょっと言い難いんだけど、──男の教師と女子生徒が二人きりで閉め切った部屋ってのはマズいんだ」

 素朴な疑問に、沖は仕方なさそうに教えてくれた。

「え⁉ こんな広いのに? 先生、それヘンじゃない?」

「そういう問題じゃないから。第一、言うまでもないけど俺は誤解されるような真似も絶対するつもりはない。でも、やっぱりダメなものはダメなんだ。密室は密室! だからこれは譲れない」

「……そーですか」

 ──密室、って推理アニメじゃないんだからさぁ。フツーの生活で初めて聞いたよ、「密室」なんて。

 翌日、怜那は授業終了後のホームルームのあと職員室に来るように指示された。

「他の奴らもなんかもう来そうにないし、だったらあんな広い教室じゃなくていいんだよな。進路相談ブースを使えるように手配したから、次からそっちでいいか?」

 沖に訊かれて、迷わず頷く。どうやら、いろいろと考えてくれたらしい。

 進路指導室は最上階の、特別教室のみのフロアに位置している。しかも校舎の一番端になるので、普通の生徒はまず近寄らない。

 何よりも、真剣な三年生が調べ物や相談に訪れるので、近辺で下級生が騒ぐなど以ての外だった。

「私、あのブース使ったことない。なんか特別っぽい感じする」

「まー、特別には違いないな。受験学年以外で使うってなると結構深刻な説教とかだろ。一対一だし」

「……それはそうかも」

「じゃあ、次回は四階でな。先に着いたら、適当に好きなとこ座って待っててくれ」

 ──沖先生って、親切で熱心なのは知ってた。もっと真面目で堅物っぽくて、なんか融通利かなさそうって思ってたのに、……いや融通は全然利かないけど! でも、結構冗談も言うし笑うし。……それに凄く、優しい。

 初めて新しい場所で補習を受けた時。

 今までと物理的な距離はほとんど変わらないのに、彼がとても近くなった気がした。前後が仕切られた狭い空間で、視界が遮られるからかもしれない。

 進路指導室など無縁の怜那は知らなかったが、教師も生徒も意外と出入りが多かった。

 二人が居るブースの一方は廊下の壁だが、もう一方はオープンだ。覗き込まなくても、二人の姿は廊下を行き来する誰の目にも止まる状況ではある。

 ただ、とにかく静かな上、当然ながら話し掛けたりされることもなく、実際以上に沖との『二人だけの時間』を感じていた。 

 すぐ目の前に座った沖が、怜那のために用意したプリントで、ひとつひとつ丁寧に説明しながら教えてくれる。

 ……怜那のためだけに。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?