「先生は卒業まで待ってくれって……。ううん、はっきりとは聞いてないけど、私はそういうつもりで受け止めてるよ」
淡々と話す怜那の姿に覚悟を読み取ったのか、あゆ美も背筋を伸ばして話し始めた。
「あ、あの、わたし。実はその、……
「康之先生って誰?」
見事に話の腰を折る怜那の
「あ、高橋、康之先生。国語の、あの。うちの学校、高橋先生って他にもいらっしゃるから。名前で呼んでいいって、最初の授業で、だからわたしも」
「……あー、そういえばそうだっけ?」
基本的に、教員になどたいして興味もない怜那だが、一応教科担当の顔と名前くらいは最低でも覚えている。
フルネームとなるとかなり怪しいし、正直なところ高橋の名前の話など、記憶の片隅にもなかったのだが。
──国語の高橋先生って、確か学年主任の。落ち着いてて優しくて、でもなあなあじゃなくてって感じ。この子が好きになるのも、うん、なんかわかる気がする。見た目は別に背も高くないしフツーのおじさんぽくてカッコいい方じゃないと思うんだけど、大人で頼り甲斐あるからなんだろうな。
ただ、高橋はこの彼女と身長が変わらない気がする。
……いや、あゆ美にとってはそんな事実は些細などうでもいいこと、なのかもしれない。
「私はあんまり、どの先生とも話すことなんかないから。呼ぶにしてもただ『先生』だし」
怜那はひとりで納得して、彼女に弁解した。
「でもさ、たか、康之先生、がいい先生なんだろうなってのはわかるよ」
怜那の言葉に、あゆ美は嬉しそうに何度も頷く。
「そうなの、ホントに凄く、凄くいい先生なのよ」
笑みを浮かべた彼女の優しい表情に、怜那は改めて意外に思った。
──こんな顔するんだ。屋敷さんってキレイだけど澄ましてるって感じだったけど、なんか可愛いな。
「あ、有坂さんに訊きたかったのは、付き合ってるかもあるんだけど。どうしてそうなったっていうのか、告白とかしたのかなとか、それはどっちがとか。そういうのが知りたかったの」
あゆ美が思い出したように、怜那が
「えーと、さっき言ってたのでは、好きって有坂さんの方からってこと? ……怖くなかった? 断られたらっていうよりも、嫌われたらどうしようとか、思わなかった?」
あゆ美の問いに、怜那はもうこの際ありのままのすべてを話すことにした。
「……私はなんか、勢いで言っちゃったみたいなもんだから。そのあとでどうしようって感じだったんだよね」
改めて言葉にしてみると、怜那は当時の自分の考えなさに呆れてしまう。
「もし屋敷さんがこれから告白しようとか考えてるんだったら、その場の勢いとか雰囲気とかだけは止めときなって言いたいよ、私は」
辛かったはずの出来事も、今思い出すとどこか懐かしい。ただ、それは想いが叶ったからこそだということぐらい理解している。
だから彼女には。
「私はホントにラッキーだったんだろうけど。でも、屋敷さんと康之先生のことはわからないから、無責任に『告白しちゃえ』とは思わないな」
自分から苦しみに飛び込んでいくことはない。結果が見通せないからこそ。
「私だって、いったんは断られてすっごい後悔したし。『もう学校行かない!』って落ち込んだから」
自分の経験を踏まえながらの怜那の台詞に、あゆ美は聞き入っていた。
「私は康之先生のことそんな詳しくないけど、たぶん先生は屋敷さんの気持ちに応えられなくても、嫌いになったり邪魔にしたりはしないように思うんだよね。だけど屋敷さんは、先生に面倒掛けたって気にするんじゃない?」
怜那があゆ美のことを思っているのは、本人にも伝わったのだろう。
「ありがとう。ホントにわたし、いきなり失礼だったと思うのに、有坂さんがちゃんと答えてくれて嬉しかった」
笑顔で礼を言い去って行く彼女を、怜那はこの二人の未来にも幸せが来るといいと見送った。
それ以来、怜那はあゆ美とよく話すようになった。
彼女の、見た目の印象とはまるで違う、穏やかな性格はとても好感が持てる。
──こんないい子だったなんて知らなかった。以前三人でいたときは、ほとんど大翔が喋るのにあゆ美が相槌打って、私は適当に聞いてるだけって感じだったからなぁ。
「なに? 二人仲良かったか?」
一緒にいるところに大翔が通り掛かり、意外な組み合わせに目を丸くした。
「あ、うん、最近結構。ね? あゆ美」
「そうなの。怜那ちゃんって、もっとツンケンしてるのかと思ってたら優しかったし」
「なによ、それ~。アンタ、私のことそんな風に見てたんだ?」
笑い合う二人に大翔も加わって、その日は途中まで一緒に帰ることになった。
その後も何度か三人で一緒に話す機会はあったが、彼はあゆ美がいる場では、決して沖に関わる話題は出さない。
それだけではなく、少しでも恋愛に繋がるようなことも一切。
彼女がどれほどいい人間で怜那と仲が良くても、勝手に知らせていいことではないという判断なのだろう。
当たり前のことなのかもしれないが、怜那は大翔のそういうところは、本当に信頼に値すると感心していた。
……大翔はもちろん、あゆ美の気持ちは知らないだろう。高橋に想いを寄せていることは。
もちろん、怜那があゆ美の許可もなく訊けることではないくらいは承知している。
どんなに仲が良くても、彼女は他人に、ましてや男子にそういうことを知られるのは嫌がるだろう。
怜那自身、大翔は特別な存在で、男女問わず他の子には絶対に知られたくないと思っているから。
──でも、私はホントに気をつけなきゃ。うっかりあゆ美と康之先生のこと喋っちゃわないように。
それは大翔を見習わないと、と怜那は考えていた。
◇ ◇ ◇
沖との補習は相変わらず続いていた。
もうすぐ授業に追いつくとは言われたが、追いついて安心して止めたら、また授業について行けなくて遅れてしまいそうな気しかしない。
今は沖が直接教えてくれるから、必死で頑張っている。しかしそういう状況ではなくなったら、もちろん授業は聞くとはいえそれだけでは無理ではないだろうか。
自信をもって言い切ることではないのだが、怜那はそういう意味では自分をきちんとわかっていた。
沖には申し訳ないが、補を習続けてもらえないものか。
おそらく、怜那が頼めば沖は断らないだろう。
沖はそれが教員の仕事だと考えているのだろうし、それを除けても怜那のことは、生徒としてもそうでなくとも大切に想ってくれている。
実際に追いついたら、沖に確認してみよう。怜那が補習なしでもやって行けるかどうか、彼の冷静な判断を。それで大丈夫と言われたら、沖を信じて何とかひとりで頑張ってみるのだ。
ある日の補習が終わって、生徒会室に行くという大翔と別れた怜那は、ひとりで校舎の外に出た。
帰ろうか、と何気なく周りを見渡した時、中庭の木の横に立って校舎を見上げているあゆ美の姿が目に止まる。
何を、と彼女の目線を追って、怜那はそれに気づいた。
あれは、高橋……?
二階の渡り廊下の窓越しに、誰かが立っているのが見える。
そういえば、あの廊下を入ってすぐは、国語教員用の部屋だった気がする。仕事の途中で、息抜きに出て来たのかもしれない。
眺めていると、高橋が外を見下ろしたような気がした。そして、ふいと校舎へ向けて歩き出す。
……あゆ美に見られてるのに気がついた、のだとしたら──!
怜那は一瞬迷って、彼女の方へ足を踏み出した。
あゆ美はもう誰もいない渡り廊下を見上げたままで、近づいてくる怜那にもまったく気づく様子もない。
「あゆ美、アンタちょっとマズいんじゃない?」
横から怜那に腕を
「アンタにバレちゃった私がどの口でって感じだけどさ。あんなにじーっと見てたら、康之先生も気づいちゃうんじゃないかな」
「え、ホントに? わたし、そんなに見てた、かな……」
「うん、見てた」
今のが見ていなかったというなら、いったいなんだというのか。
表情から怜那の心の声を読み取ったのか、あゆ美が自信なさげに言う。
「見てた、のはわかってるよ。でもそんな、そこまでかなって……」
──この子、ホントに自覚してないんだ。大丈夫なの? 私どころの話じゃないから、他の子達にバレるのも時間の問題じゃないの、これ。
「とにかく、今日はもう帰ろ。ね? あゆ美」
怜那の声にこくんと頷いて、彼女は怜那と並んで校門へ向かって歩き出した。