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第三章『Message』②

 学年会議で主任の高橋から注意勧告されたのは、生徒と私的にやり取りをしないように、ということだった。

 プライベートの電話番号やメールアドレスは原則として教えない、また生徒の番号もできる限り取得しないということも。

 この学校では、部活指導やその他の行事で生徒を校外で引率する場合などは、学校で保有している共用の携帯電話を借り出すことができる。

 できるというより推奨、いやむしろ義務になっているくらいだった。

 校内にいる間に生徒への連絡が必要になれば、学校の固定電話や共用携帯からすればいいし、出たあとはそれこそ個別に連絡を取ること自体を自粛しろという話だ。

「先生方が、普段からきちんと節度を持って生徒たちと接しておられるのは、私も重々承知しています。それでも何かと難しいご時世でもありますし、今一度ルールの徹底をお願いしたいんです」

 常から丁寧ながらも毅然とした態度を崩さない高橋が、いつになく言葉を選んでいる印象を受けた。

「ただでさえお忙しいところに、改めてこんな細かいことを言うのは私も心苦しいんですが、決して先生方を信用していないとかそういうことではありませんので」

 少し心に止めておいていただければ、と高橋は話を終えた。

 高橋の台詞からは、自分たち学年の教員に思うところがあるわけではないというのは十分伝わったし、特に校内や学年内で具体的な何かがあるような印象は受けなかった。

 それでもわざわざ会議で持ち出すからには、現時点での重要事項には違いないのだろうけれど。

 沖は教員になって二年目だが、こういったコンプライアンスについては採用時にもきちんと説明されているし、当然研修も受けている。もちろん他の教員もそのはずだ。

 それが、なぜ今更?

「なんかね、他の学校で問題が起きたらしいよ」

 沖が疑問を抱いていることに気づいたのだろう。会議終了後に、隣の席の一年先輩の宮崎が解説してくれた。

「ちょっと校名は伏せるけど、まー近場の女子高で中堅の男性教員が、女子生徒に懸想けそうっていうか、その……」

 少し言い難そうにしながらも、宮崎は言葉を続けた。

「ストーカーはちょっと言い過ぎかもしれないけど、しつこく電話したりメールしたりしてたって。それで相手の女子生徒が怯えちゃって親に打ち明けて、娘の話を聞いて激高した親が学校に怒鳴り込んで、もうそっからは大騒ぎだったんだってさ」

 自分とはまったく縁のないニュースとしてなら「またか」で済むような内容かもしれないが、ごく身近な出来事だと認識すると、これはかなり重い話だ。

 もしそんな奴が同僚だったら。

 沖はそれまで通り相手と『普通』に接する自信などなかった。全身で軽蔑してしまうだろう。

 教師の立場を利用して弱い立場の教え子を、高校生の少女を傷つける、なんて絶対に許せない。「教師なんてそんな変態ばっかり」などという偏見も言うまでもなくいい迷惑だけれど、そういうレベルの話でさえなかった。

「電話にしろメールにしろ、証拠は全部残るから言い逃れのしようもないもんなぁ。回数もだけど、何よりメールの内容がかなり問題あったみたいだし。しかも交際のもつれとかじゃなくて、完全に一方的だったらしいから、そりゃあその生徒や親にしてみたら堪んないだろ。謝って済むような問題じゃない」

 特に極秘事項というわけではないのか、宮崎は周りの耳を気にする様子はなかったが、それでも抑えた声で話を続けた。

「まあそこで発覚して処分したから、何とか大きなニュースにはならなかったそうなんだけどね」

 ……一応、小さいニュースにはなったということか? まったく知らなかった。

「その教員はとりあえず謹慎ってことらしいけど、免職か自主的かはともかく辞めることになるんじゃないか。そうでなきゃ、被害者の生徒と親だけじゃなく他の保護者だって黙ってないだろうし。女子高だから特にな」

 何とも返しようがなく、黙って聞いているだけの沖に、宮崎は今回の会議に繋がった理由も推測してくれた。

「ウチには関係ないと思ってスルーして、万が一何かあったら、ってのを考えたんじゃないの? 上の人が。だから高橋先生はホントに、俺たちのことは心配してないと思うよ」

「……あー、はい。よくわかりました、ありがとうございます」

 他に言葉もなく、沖はとりあえず礼を述べる。

「それにしても、宮崎先生ってそういうの詳しいですよね」

「俺、生徒会の顧問だからさ。普段から、他の学校の生徒会とやり取りすることも多いんだよ。で、生徒会顧問の教員には『どこに情報源あるんだ』ってくらいの事情通がいたりするんだよね。いろんな学校と、横の繋がりある人多いから」

 あっさり理由を明かして、宮崎はさらに話を広げて来た。

「まーでも、ウチの学校は問題起こした生徒の後始末に、飛び回らなくていいだけでもマシじゃないかな。実際に、学校どころか家にいてもお構いなしに呼び出されて、補導された生徒を警察まで引取りに行った話とか聞いてるとなぁ。なんだかんだ腹の立つことはあったとしても、ウチの生徒はみんないい子でよかった、お前ら可愛いよ~! って思うよ、マジで」

 沖は今度こそ、反応のしようもなかった。

「そういう学校はもう『携帯番号を教えるかどうか』とかいう次元じゃないから。夜遊びに行かせないために、電話やメールで相手したりってのもあるらしいよ」

「……そ、れは、家で?」

 思わず疑問を呈してしまった沖に、宮崎は平然と返して来る。

「当然、家で自分の携帯でな。もう勤務時間の概念なんか吹っ飛んでんじゃないの? 俺たちだってまあ激務だって言われてるし、定時なんてあってないようなもんで持ち帰り仕事だって多少あるけどさ。同じ学校、同じ教員でも、それどころじゃない世界もあるわけだよ」

 一気に話し終えて、宮崎は最後に付け加えた。

「正直なところ、この学校はかなーり恵まれてる方じゃないかな、職場として」

 ……何とも壮絶な話を聞かされてしまったものだ。

 基本的に学生時代は、成績優秀かつ品行方正な優等生で通して来た沖には、そういった学校や生徒はまさしく別世界の存在だったのだ。

 とはいえ、大学時代に教員を目指して学んで来た中で、知識としては持っていたつもりだが、いざ身近な人間の口から生々しい話を聞かされるとインパクトが違う。

 それでもこれからの補習に向けて、沖は意識を切り替えた。

 今日は会議だったので、怜那と大翔に説明して開始を遅らせてもらったのだ。だからその時間は守らなければ。

 沖は必要なテキストやプリント類を揃えて、補習を行う教室へ急ぐ。

 ドアを開けると、二人はもういつも通り机をセットして、席に座って待っていた。

「待たせてゴメン、じゃあ始めようか」

 怜那も、相変わらず飲み込みがいいとは言えないのだが、とにかく努力だけは惜しまないようになったので、あと少しで普段の授業の範囲に追いつくところまで来ていた。

 よく頑張った、というか、どれだけ遅れたまま放置してたんだ、と呆れるべきか。

 大翔は元から補習を必要とするレベルではない。

 しかし、やはり一対一の補習が難しいのには変わりがないので、幼馴染みのためにどこまでも付き合うつもりでいるようだ。

 彼の時間をただ無駄にさせる気はないので、沖は大翔の学力に合わせた演習問題を用意していた。

 厳密には補習ではないが、これくらいは構わないだろう。

 中には授業では物足りないので、もっと発展的な内容をやりたいと個別に質問に来る生徒もいて、彼らにも対応しているからだ。

 この学校、に限った話ではないのかもしれないが、入試を経た高校でさえ内部の学力差は相当なものがある。

 もともとの能力はもちろん、やる気や心構えというのは相当に大きいのだ。

 補習を終えると、大翔がそそくさと席を立った。

「すみません、僕ちょっと用があるんです。今日はここ、お任せしてもいいですか?」

「ああ、もちろん。やっておくから早く行きなさい。今日は、俺の都合で始めるのが遅くなったから」

 移動させた机や椅子は、翌日のために元通りにしておかなくてはならない。

 大した手間でもないとはいえ、いつも準備も片付けも、ほぼ生徒二人でやってくれていた。

「予定があるなら、他の日にするから言ってくれよ」

「いえ、そこまでのことじゃなかったので。それでは、お先に失礼します」

 丁寧に頭を下げて出て行く彼を見送って、沖は手伝おうとする怜那を制し、一人で机と椅子を動かした。

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