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第二章『Problem』②

    ◇  ◇  ◇

「あの、宮崎先生」

 悩んだ末、沖は隣の席の宮崎に声を掛けた。

 二年目の沖より、一年先輩である英語教諭。

「ん~? 何、沖先生」

 小テストの採点をしながら、目は答案用紙から離すこともなく宮崎が生返事を寄越す。

「……生徒に好きだって言われたこと、あります?」

「は?」

 沖のとんでもない問い掛けに、宮崎は作業の手を止め赤ペンを机に叩きつけるようにして、凄い勢いで顔を上げた。

「いやいや、うーん……。そもそも、高校生相手の時点でなぁ」

 宮崎は何やらぶつぶつと口の中で呟いていたが、しぶしぶと言った様子で口を開く。

 この先輩の律儀なところが本当にありがたい。言いたくなければ、いくらでも誤魔化せるだろうに。

「結論だけなら、俺自身はそういう経験は、ない。でも存在ってことなら、真剣にそういうこと言う子は居るよ」

「……やっぱり居るんですね」

「まーね……。ちょっとここではなんだから、これ以上話すんなら帰りどっか寄ってくか」

「そうですね、すみません」

「いや、いいんだけどさ。俺も役に立つ話はできないと思うよ」

 それでも、フィクションの中の出来事ならともかく現実に周りで、──しかも自分に降りかかるなんて想像したこともない沖には、正直ありがたい限りだった。

「お願いします」

 口先だけではなく頼み込んだ沖に、宮崎は軽く頷いてくれた。

 彼の話は、本人が言っていた通り具体性はまったくないものだった。

「宮崎さんが知ってるケースって、どういう感じなんですか?」

 学校外、特にこういう酒の出るような店では、教員だということはなるべく知られない方がいい。何かと厳しい目に晒される職業なので、自衛のためにも『先生』と呼び合うことは避けていた。

「実際に教師に夢中になって告白するような子がいても、された方は普通の神経してたら校内でペラペラ口外はしないってか出来ないだろ。だからそっちは、ウチの学校に関しては噂で耳にしたことあるかなって程度。友人から、他の学校の話としては結構聞くけどな。ただ──」

 元々仕事に関わる内容なので大声で話しているわけではないが、宮崎は特に声を潜めた。

「生徒の告白とか、そんなもんじゃない話なら、ある」

「……それ、はどういった、その──」

「うん、まあ。隠れてそういう、所謂いわゆる男女交際をしてた男性教師と女子生徒がいたことがあったんだってさ」

「えーと、いつ頃の話でしょう」

 宮崎が沖より一年先輩で、今年三年目だというのはもちろん承知しているが、伝聞だというからにはその時点での現在進行形だとは限らない。

「俺が聞かされたのは、新任で来てすぐの頃だけど。何年も前のことだって話だったよ。細かい内容なんかは全然知らないんだ。……結果として、二人とも学校を去った、ってだけ。あとは察しろって感じで話してもらえなかった。プライバシーに関わるから、詳しいことまでは無理か。──まーでも、だいたい想像つくよな」

 そのまましらを切って勤務を、学業を継続できない、何らかの事情。単に二人で校外で歩いているところを押さえられた程度ではないのだろう。

 おそらくはもっと明確な、事実……?

「なんで俺にそんなことをと思ってたら、えーと自分で言うのもなんだけど『宮崎先生は凄く男前で生徒に人気も出そうなので』って、まぁ念の為に注意した方がいいっていう話だったんだよな」

 宮崎が、テーブルのグラスを取って喉を潤し、さらに続けた。

「いやまぁ、宮崎さんに釘刺したくなる気持ちはわかります。──あ、危ないとかじゃなくて、人気って意味ですから!」

 思わず口が滑った沖に、宮崎は「お前が言うな、イケメン」と混ぜ返す。

 笑いに変えてくれて助かった。

 ──気をつけろ、俺!

 沖は内心冷や汗の出る思いで反省する。

「冗談抜きでさ。そういう点では、お前だけは大丈夫だと思ってるよ、俺は。だからこそ、お前はこの話も聞かされてないんだろ」

「み、宮崎さんだって、本気で何かやりそうだなんて思ってませんよ! 僕も、きっと他の方だって」

 沖は焦ってフォローするが、彼は気にした様子もない。

「自分がチャラついて見えるくらい自覚してっから。内面が伝わる前なら、とりあえず言っときたくなるのも無理ねーだろ。学年主任の高橋たかはし先生が『疑ってるわけじゃありませんから』って凄い気を遣って話してくれてて、かえって申し訳ないくらいだったよ」

 確かに、宮崎には浮ついた雰囲気もあるのは否定できなかった。

 生徒に対しても壁を作らず、友達のように話しやすいと評判はいいらしい。ただ、当然ながら守るべきラインはきっちりと引いている。

 悪い意味ではなく、『親しみやすいお兄さん教師』を演じているかのように見受けられたのだ。

「大昔ならともかく、今は何かとうるさいじゃん? いや、もちろんそれが悪いわけじゃなくて当たり前の状態になったってことなんだろうけど。教師が生徒と『俺たち真面目に付き合ってます』ったって、『そうですか。お幸せに』なんてなるわけないだろ? リアルに失職チラつくよ」

 宮崎にとってはどこまでも遠い世界の話なのかもしれないが、沖にはまさに身に迫った危機だ。

 ──背中に嫌な汗が滲んでくる。

「でもさ、教師もやっぱり生身の人間だからどうしたって生徒との相性の差は出てくるものじゃん。もちろん内心思うだけならともかく、それを外に出すのは絶対ダメなんだけど」

 本音と建前だけどさ、と断りつつ話す彼。

「実際お前にだってお気に入りの生徒も、ちょっと合わない生徒もいるんじゃないの?」

 宮崎にそんな意図はないと思ってはいても、沖はその言葉に平静ではいられなかった。

 心当たりがあり過ぎる。

「そ、れは、まあ。完全に平等とは言えないかもしれませんね」

「だろ? それはいいんだよ。扱いに差をつけたりしなきゃ、それこそここだけの話でさ」

 そこで少し躊躇を見せたものの、宮崎は思い切ったように口を開く。

「沖が誰と何があったのかは、まあ訊かないけど。知っちゃった方が困りそうだし。でもお前はむしろ、世間の常識に囚われてる方だろ? それで悩んでるっていうか、困ってるのかもしれないけどさ」

「……誰が見ても、そうですよね」

「ん?」

 無意識に零した呟きに首を傾げる宮崎に、沖は思わず弱音を吐いていた。

「世間なんてどうでもいい、誰にどう思われても! なんて、僕はやっぱり開き直れないです。小さい人間なんですよ、ホントに」

「……世間に逆らう俺カッケーなんて、せいぜい中学生までだろ。まして俺たちこういう職業だし。俺はお前を嘲笑ったわけじゃないから。深読みすんな」

 普段の軽さなどまるで窺わせない、いざというときは頼りになる先輩の顔。

 この人はやっぱり『先生』なのだ。いや、他人事みたいに言っている場合ではないのだけれど。

「ただ相手も人間で感情があるんだってことだけは忘れないように、断り方には気をつけろよ。まあ『恋愛』なんて感情の最たるもんだからなぁ」

 沖は以前、怜那との補習を巡って「一対一という特別扱いはどうなのか」と主任の高橋に苦言を呈されたことがあった。

 おそらくは今宮崎も同じことを浮かべているのではないか。

 その際にも、隣席で聞いていた宮崎が「最初から一対一の予定だったわけではない」と助け舟を出してくれたりもしたのだった。

 高橋の真意が、文字通り「特別扱いはやめろ」だったとは沖は受け取っていない。そこまで鈍くはないつもりだ。

 宮崎もそれくらい承知の筈だろう。

 彼はあくまでも沖のために、……贔屓だと問題視される、あるいはもっと深刻なハラスメントを疑われることを危惧して忠告してくれたのだろう。

 その場合、当然ながら彼女を守ることにもなる。たとえ事実無根にしろ、公になった場合に女子生徒にも中傷が向けられてしまうのは想定内だからだ。

 理不尽極まりないとはいえ、残念ながらそれが現実だった。

 しかし沖はその時、咄嗟に怜那がクラスメイトに責められることを心配して、浅慮にも彼女に補習の中止だけを通告してしまった。

 自分の言動を教え子がどう受け止めるかまで、考えが及ばなかったのだ。

 むしろ怜那を思い、心配りができたつもりでさえいた。

 自己満足に浸っていた、愚かな沖の目を覚まさせてくれたのも宮崎だった。

「それはお前の独り善がりだ」

 明白に切り込まれて、沖は返す言葉もなかった。あるわけがない。

「有坂が、自分の出来が悪いから先生に愛想尽かされたと思ってたら? お前に見捨てられたと感じてるかもしれない彼女の気持ちを少しでも考えたのか?」

 普段とは声音さえ違う、宮崎の真摯な言葉は今も沖の胸にある。

 黙り込んでしまった沖に、宮崎は急に思い出したかのように話を変えて来た。沈んだ空気を払拭する意図もあるのだろう。

「最近はまた違うと思うけど。女子高だと、卒業直後に結婚して在学中からの交際が発覚っていうのもそこまで珍しくなかったらしいよ。大学の同期に聞いたんだけど。あ、そいつの勤務先の伝統みたいな、……伝統ってのも変か。かつてはそうだったって話」

 そこから、女子高はやっぱりちょっと怖いような、男子高ってどうなんだろう、などと話が逸れて行ってしまった。

 おそらくは、宮崎の目論見もくろみ通りに。


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