カーテンの合わせ目から差し込んだ光が、二人の眠るベッドの上で躍っている。
瞼に明るさを感じて目覚めた怜那が最初に覚えたのは、多少の息苦しさだった。
目を開けた時、すぐ前にあったのは恋人の裸の胸で、彼は怜那の身体をすっぽりと抱き込むように眠っているらしい。
──そういえば寝る前に、ベッドが狭いから落ちるとかって話してたっけ。
壁と沖に挟まれて、窮屈ではあっても落ちようがない怜那と違って、これが落下を避けるための彼の解決策なのだろうか。
普通なら「愛されているから」と受け取るのかもしれないが、昨夜の会話がすんなりそう思わせてくれかった。
ただ確かに、毎回これでは大変かもしれない。
──先生、っと沖さんもだけど、私もなんか身体固まりそう……。
怜那は沖を起こさないようじっとしていたつもりだったが、無意識に身動ぎしていてそれが伝わったのだろうか。沖が軽く唸りながら目を開けた。
「あぁ、おはよう」
至近距離で目が合うなり、笑顔を浮かべて挨拶して来た沖に、怜那も慌てて「おはよう」と返す。
「よく眠れたか? ……身体は大丈夫?」
怜那にも、沖の心遣いはもちろんよくわかってはいるが、朝の爽やかな光の中で訊かれると何とも気まずい。
「……えーと、たぶん。私もいま起きたばっかだけど、大丈夫、なんじゃないかな」
「あ、あー、そうだよな。動いてみなきゃまだわからないか」
怜那は他に言葉もなくそれだけ答えたが、沖もやはり同じように感じているらしく、少し歯切れが悪かった。
「とりあえず、なんか食べようか。腹減っただろ? トーストと卵とかでもいいか?」
起き上がりながらの沖の問いに、怜那も当然頷く。
「いいよ、なんでも。作ってくれるの?」
「料理って言えるほどの大層なもんじゃないけどな。お前と違って俺の作れるものなんて知れてるから」
沖はベッドの傍に脱ぎ捨てられた服を拾って着ながら、そう言ってすぐ隣のキッチンへ向かった。
昨夜は二人とも、結局あのまま寝てしまったのだ。
怜那も、せめてパジャマを着ておいた方がいい。裸のままでは何もできないのだから。
まったく無頓着に上体を起こしてしまい、怜那は襲ってきた鈍い痛みに呻いて、背中からまたベッドへ倒れ込んだ。
──朝になったのにまだ痛いの? これってやっぱ最初だから?それともずっとこんなのが続くの? わかんない……。
それでも、直後よりはかなり痛みも和らいでいるのは確かなのだけが救いだが、怜那はもう着替える気などすっかり失せてしまった。
「できたけど、こっち来られるか?」
朝食を知らせる沖に、怜那は少し迷って答える。
「……あー、行ける、と思うんだけど。でもちょっと待って、ゆっくりでいいかな」
「もちろんいいけど、無理しなくていいからな。動けないならベッドまで持ってってやるから」
気遣わし気な沖の声に「大丈夫」と返して、怜那は今度は慎重に起き上がった。
なんとかなりそうだ、とベッドの縁に腰掛け、昨夜脱いだものを拾おうとした怜那は、沖がベッドの端の方に軽く畳んでおいてくれているのに気づく。
心の中で彼に礼を言い、怜那はそれを取って着て行った。
座ったままでは下は履けないので、怜那は気合を入れてそろそろと立ち上がってみる。幸い、覚悟したほどの痛みも感じなかった。
先程は急に動いたからだろう。これならなんとか大丈夫そうだ。よかった、と安心する。
怜那は、少し頼りない足取りながらもちゃんと歩いて、沖がはらはらした顔で待つダイニングキッチンへ辿り着く。ほんの数歩なのだけれど。
「大丈夫なのか?」
「うん。全然平気ってわけじゃないけど、昨夜よりはだいぶマシになったし、もう少ししたらもっと楽になるんじゃないかな」
不安そうに気遣ってくれる恋人に頷いた。
「それならいいけど、くれぐれも無理はするなよ。今日は帰るまでのんびり寝てればいいから」
「……沖、さんてホント、凄い優しいよね」
ぽつりと呟いた怜那に、沖は苦笑する。
「これくらい当たり前だろ。逆に、自分のせいで痛がってる恋人に優しい言葉も掛けられない男なんて、その場で見切っていい」
「えー。でも私、他の男の人と付き合う予定なんかないし」
真顔でそんな風に返した怜那に、沖は一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに笑った。
思ったままを口にしただけで、特に気を遣ったつもりもなかった怜那は、テーブル越しに身を乗り出して髪をぐしゃぐしゃと撫でて来た彼に、なんとも不思議そうな顔を向ける。大人だったらわかるのだろうか?
「お前だって優しいだろ」
沖は乗り出した姿勢のまま、顔を怜那にぐっと近づけて囁くように告げた。
「俺はお前のそういう素直なとこが、凄く好きだよ」
ベッドで寝ていればいいという沖に、病人でもないしそこまでではないと断って、怜那はほとんどをお気に入りのラグの上でごろごろして過ごした。
「怜那、そこ好きだよな」
別に呆れたような調子でもない沖の台詞に、怜那は正論で返す。
「だってこの部屋、他に休めるとこないんだもん。それこそベッドだけじゃない? 床はフローリングだし、食卓の椅子は食事はともかくゆっくりはできないよ」
「あー、まぁな。実際俺もそのために買ったんだしな」
怜那の言い分は彼もよくわかっているので、反論する気もないらしい。
「でもな、昨夜も言ってたけど。大きいベッドに買い換えたら、ラグ敷くスペース残るかなぁ」
「え? どんな大きいの買う気なの?」
「昨日考えてたのはセミダブル。確かにそれならたいして大きさは変わらないから、部屋のレイアウトもそれほど変わらないとは思うんだけど」
沖が昨日考えていたことを、改めて怜那に話して聞かせてくれた。
「ホントは二人で寝るんだったら、ダブルのほうがいいんだろうけどさ。さすがにこの部屋にダブル入れたら、ベッドの上で生活する羽目になりそうだろ」
「ダブルベッドって、私あんまり見たことないんだけど。この部屋に入れたらどうなるかは、何となく想像つく気がする……」
「だからいったんは『セミダブル』って決めたんだけど、そもそも俺一人でもこのシングルベッドじゃ狭いくらいだからなぁ」
怜那の言葉に、沖は頷いて続けた。
「単身用の部屋で狭いのはもう仕方ないから、妥協してこれ買ったんだけど」
「……妥協」
「そう、現実には妥協が付きものなんだよ。いずれ引っ越すにしたって、俺の薄給じゃそんな広い部屋借りられないしさ。俺は転勤ないから今の学校への通勤も考えて、相場が安いってだけであんまり遠くには住めないしな」
沖が、社会人のリアルを説いて来る。
「だからやっぱり今はセミダブルかなぁ。もちろん一緒に住んで毎晩使うんなら無理あるけど、怜那が泊まりに来た時だけなら何とかなる。とりあえず、この狭苦しいシングルベッドでも二人で寝られたくらいだからな。次があったら、ちょっと辛いけど」
結局は最初の結論に回帰してしまい、彼も諦めがついたようだった。
夕方まで、怜那は沖の部屋で寛いでいた。
「身体の方はどうだ?」
改めての沖の問いに、今度は怜那もあっさり答える。
「あ、もう大丈夫、平気だよ。朝は正直どうなるかと思ったもん。……いまだから言えるけど、ずっとこんなんが続くならもう──」
一瞬言葉に詰まったものの、怜那はすぐに続けた。
「えっと、次はどうしようかな~とか考えてたんだよね」
「それならよかった。まぁ、怜那が本気でやりたくないって言うならちゃんと尊重するから。昨夜俺が言ったのはその場の勢いでも何でもないからな」
怜那は、昨夜の沖との会話を思い出してみた。
……昨夜。怜那が嫌がるなら何もしなくていい、と言った恋人。
怜那自身は冷静とは遠い状態ではあったが、それでも彼が自分のために言葉を尽くしてなんとか伝えようとしてくれた内容は、今でもしっかりと心に残っている。
「うん、わかってる。昨夜は私、何も言えなかったんだけど」
──実際にえっちの時のせんせ、沖さんはとてもそんな感じには見えなかったのに。でももし、真っ最中に私が「嫌だ」って泣いたりしてたら、きっとそこで止めてくれたんだよね。──私はそれだけ大事にされてるし、愛されてる。
「ちゃんと聞いてたし覚えてるし、……信じてるから」
──だから沖さんの想いに甘えるだけじゃなくて、私も沖さんに甘えてもらえるように……。ううん、それはまだちょっと難しいかもしれないけど、少なくとも守ってもらうだけではいたくないから。
「じゃあ、そろそろ帰るか?」
「え、もう?」
驚いた怜那に、沖は諭すように言う。
「夕飯は家に帰ってから食べるんだろ? 明日からは学校も始まるし、早く帰ってゆっくり休んだ方がいい」
「……また、来てもいい? 遊びにもだけど、泊まりに」
「もちろん。なんだ、また来てくれるのか?」
敢えて何気なく返してくれたのだろう彼に、怜那も軽く答える。
「来るよ。来たいよ」
「いつでもおいで」
沖は笑って承諾し、さらに付け加えた。
「あ、そうだ。怜那、さっき洗濯物渡した時に言い忘れたんだけど、着替えたらそのパジャマはそのまま置いて帰れよ。洗って仕舞っておくから」
「うん、ありがとう。そっか、そしたらいつでも泊まれるよね」
「そうだな。でも俺のシャツかなんか貸してもいいし、なかったら着なくてもいいだろ」
「!」
沖の言葉に含まれた意味を悟って、怜那は咄嗟に声が出なかった。
──どうせ、泊まりに来たらするんだし、寝るときも別にパジャマ着ないんだから、なくてもいいと言えばいいんだよね。それは確かに。
それでも、怜那はこういう時に気の利いた返しができるほど場慣れしていない。
口を噤んだままの怜那に、沖はそれ以上追い打ちをかけることはなく、笑って着替えてくるようにと言っただけだった。
◇ ◇ ◇
来た時より少し嵩の減ったリュックを背負い、怜那は沖と一緒に彼の部屋を出る。
あれから初めて見る外の世界。
まったく同じ筈なのにまるで今までとは違った景色に映るのは、怜那の中で変化があったからだろうか。
──手、を。繋いでみたいけど。家の周りじゃやっぱイヤ、かな?
怜那は、せめてもの想いを込めて、左手で沖の右手にさりげなく触れてみる。
幼い恋人の気持ちなどきっとお見通しの大人の彼は、優しく微笑んでその手をぎゅっと握ってくれた。
……怜那の中で。また、二人の間で。
確かに、何かが終わった。
そして、ここから始まる。
きらきらと
~END~