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第八章『First time』①

 待ちかねた四月。

 沖は新入生の担任になって、年度当初はやはり相当忙しくなるらしかった。

 元々学校の年度替わりはただでさえ慌ただしいのに、その上さらに新入生特有の行事も加わる。

 それでも彼はなんとか仕事の合間を縫うようにして時間を作り、四月に入って早々の週末に、約束通り怜那を自宅に呼んでくれた。

    ◇  ◇  ◇

 駅まで迎えに来てくれた沖に案内されて、辿り着いた彼の部屋。

 ──先生の家。高校の時からずっと来てみたかったんだよね、やっと叶った。

 鍵を開けた沖に促されて、先に足を踏み入れた怜那は、すぐ後に入って来た沖がドアを閉めた瞬間、狭い玄関先で靴も脱がないままに抱き締められた。

 そのまま軽く触れるだけのキスをされて、怜那が反射的に見上げた恋人の顔は笑っている。

「……なんで最初が玄関なの」

 怜那は正真正銘キスするのなど初めてなのに。それがこの狭い玄関というのはちょっと酷くないか?

 どぎまぎしながらも内心文句をつけつつ思わず訊いた怜那に、沖は照れくさそうに弁解する。

「ゴメン、待ちきれなかった」

 気を取り直して玄関を上がると、そこはキッチン……、ダイニングキッチンだ。

 たぶん二人用だろうサイズのテーブルに、椅子が二つ置いてある。

 とりあえずはこんなところで悪いけど、と言われて怜那は食卓の椅子に腰掛けた。

 間仕切りの、開けっ放しの引き戸の向こうはフローリングの部屋、らしい。

 見られて困るなら、ここの戸も閉めておく筈だ。

 そう思いながらも、怜那はつい俯いてしまった。

 勝手に見ないようにしたというよりも、なんだかとにかく落ち着かない。柄にもなく緊張しているのだ。

 ──恋人の家なんだから当たり前なのかな。そりゃ、特別だと感じて当然だよね。しかも初めて来たんだし。それにしても、こういう間取りって何になるんだろ。

 怜那は現実逃避するかのようにどうでもいいことを考えて、なんとか少しでも気を紛らわそうとしてはみたけれど。

 部屋がひとつだけではないため、所謂「ワンルーム」ではないのは確実だ。1DKになるのだろうか。ここはどう見てもリビングという感じではない。怜那は一人暮らしをしている人の部屋になど行ったことないからよくわからなかった。

 いつになく畏まって見えるのだろう怜那に、沖は優しい笑みを浮かべて、コーヒーを淹れて勧めてくれた。

「やっぱりここじゃ落ち着かないよな。元々寛ぐための場所じゃないし」

 沖も恋人をどこに座らせたらいいか、迷ってはいたようだ。

「ソファとかないから床だけど、それでもよかったら向こう行かないか? こっちよりはマシだと思うからさ」

 コーヒーを飲み干して、少しは楽になった怜那は、沖に促されて奥の部屋に移動する。

 誘導されるままに、ベッドのすぐ脇に敷いてあるラグの上に座って足を投げ出し、ベッドにもたれた。

 失礼にならないようにと思いつつも、怜那はようやく湧いてきた好奇心を抑えられず、部屋を見渡してみる。

 フローリングの部屋に、ベッドと机と本棚とテレビ。本当にそれくらいしかない。

 入口の反対側は大きな窓で、バルコニーに出られるようになっていた。それほど広くはないけれど、いかにも沖の住まいという感じで、きちんと片付いている。

 むしろ、余計なものが何もなかった。確かに沖は衝動買いなどはしそうにもなかった。何を買うにも吟味に吟味を重ねるイメージだ。実際のところは知らないが。

 ああ、そうか。一人暮らしの部屋で、あまりにも物が多かったり散らかっていたりしたら、生活できなくなってしまう。

 部屋の壁に扉がいくつかあるのはクローゼットか。服や荷物などは、その中にしまってあるのかもしれない。

 怜那なら実家暮らしのため、もし自分の部屋が足の踏み場もなくなっても、極端な話机とベッドの上さえ空いてれば勉強と寝るだけはなんとかなる。それ以外は食事も何もかも全部、他の部屋でやればいいのだ。

 けれど一人でこういう家に住んでいたら、そもそも逃げる「他の部屋」がないのだから……。

「どうした? 別に何も珍しいものないだろ」

 同じように横に腰を下ろして来た沖が、部屋の中を見回している怜那の姿を見て不思議そうに訊いて来る。

「逆に素っ気なさ過ぎるくらいじゃないか?」

「あ、なんかいろいろ見ちゃってゴメン」

 無作法なことをしてしまったかもしれない、と慌てて謝る怜那に、彼は気にした風もなくあっさり首を振った。

「いや、それは構わないけど。初めて来た部屋だから気になるだろうし。見られて困るなら、そもそも家になんか上げないさ」

「ありがと、先生」

 沖の言葉に、怜那も素直に返す。

「先生の部屋だからっていうのはもちろんあるんだけど。私こういう……、なんていうかひとり用の家って初めてだから」

「あー、そうか。そうかもなぁ。大学生なら実家離れてアパートやマンション暮らしなんてよくいるし、そういう奴の家に遊びに行くことも多いから当たり前の気がしてたけど。確かに、高校生ならまずないよな」

 彼は改めて、怜那が高校を卒業したばかりだということに思い至ったらしい。

「実家出て通うにしても寮とかだろうし。どっちにしても、ウチの高校は基本自宅通学だけど」

「うん、今までホントに周りに居なかったんだ。私、親戚のお姉さんとかも全員地元の大学だったから」

「まぁこれから大学で友達もできるだろうから。その中に一人暮らししてる子がいたら、そのうち遊びに行くこともあるんじゃないか?」

 やはりこの人は『大人』なのだ。

「そうだね。でもそうなんだ、やっぱり大学って高校までとは全然違うのかぁ」

 本人は「大学生から先生になって『学校』しか知らないから」などと自虐めいたことも口にしていたが、それでも十八の怜那とは当然ながら人生経験が違う。

 そんなごく日常的な会話のどこにスイッチが入る要素があったのか。

 怜那にはまったく予兆さえ感じられなかったが、いきなりすぐ隣で普通に話していた筈の沖が、身体をひねって抱き締めて来た。

 驚いて声も出せないままに、沖が唇を重ねてくる。大きな掌で頭を支えるようにされて、逃れようもないままに舌が入り込んで来た。

 ──沖先生、って、こんな。

 噛みつくような激しいキスに、怜那は頭がくらくらした。

 そして、さっきの玄関先のあんなのは数のうちにも入らないのだ、とぼんやりした頭の片隅で思う。いや、あれが怜那にとっての『最初』には違いはないのだけれど。

 翻弄されるだけのキスからようやく解放されてはぁはぁと息を切らしている怜那に、沖はまた背中に腕を回してくる。

 このまま……? と怜那は無意識に身構えてしまった。

 しかし沖は、怜那を抱き締めて頭から背中に垂らした髪を繰り返し優しく撫ででいるだけで、それ以上何もしようとはしなかった。

 ──今日は沖先生とそういうことになるのかな、って一応覚悟はしてきたんだけどさ。卒業式の日にも言われたみたいに、やっぱり恋人の家に来るっていうのは「何されてもいいです」って意味になるんだろうし。

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