ほんの一瞬で離れて行った、先生の温もり。
「言葉はやれない、けど」
そう言って、沖はそっと抱き締めてくれた。
怜那は、一瞬何が何だかわからなかった。そして我が身に起こった出来事の意味が理解できた途端、頭が真っ白になって、彼の顔さえ見られずにあたふたと逃げるように帰って来てしまった。
なんとか「ありがとう」は言えたから、沖もわかってくれているだろう。
──凄く、嬉しかった。言葉が要らないとは全然思わないけど、でも言葉よりずっと嬉しい。
沖ならば、言葉にしても上辺だけではない、
◇ ◇ ◇
《どうだった?》
怜那が沖に呼び出されたことを知っている大翔は、夜になってそんなメッセージを寄越した。
連絡が来るまで待っていてこの時間になったのか。それとも、何か悪いことを想像して迷っていたからなのか。
隣に住んでいるのだから、どうしても気になったら直接訪ねて来て、
なのにメッセージだけにしたのは、大翔の気遣いなのかもしれない。
それでも、怜那は自分で決めた通りに、彼に対しても何も告げる気はなかった。
ただ、だからと言って既読無視したら大翔は絶対心配するだろう。
怜那だってそんなことはしたくないし、第一その事実が気になって寝られそうにない。
《明日会った時に。》
一文だけ書いて送ろうとしたが、送信ボタンを押す段階で手が止まる。
これも何かあったと思わせるだろうか。
スタンプを添える、……にしても、笑顔やサムズアップならはっきり言葉にするのと大して変わらない気がする。そこまでは考え過ぎか?
とりあえず悪いことではないというのだけは伝えたくて、結局怜那は怒っても泣いてもいない、真顔に近いスタンプを選んで一緒に送信した。
これでよかったのかどうかはわからなかったが、数分もしないうちに送られてきた大翔からの返信は、笑顔でOKサインのスタンプだったので、なんとか通じたらしかった。
さすがは幼馴染みだ。
翌朝、いつも通り家を出たところで顔を合わせた大翔は、予想に反して何も訊いては来ない。本当に何も。
訊かれたらなんて答えようか。いや答えてはいけないのだ。目だけで、などと考えてはいたもののさすがに無理がある気がする。しかし大翔なら、昨夜のスタンプのみで通じたくらいだから、いちいち説明しなくてもわかってくれる筈。
そんな風にあれこれ考えて悩んでいた自分は何だったのか。
怜那のほうが
──しまった、そこまで顔に出てたの?
「……私、ヤバい? みんなにバレバレ?」
「それはないな。俺だからわかっただけじゃないの」
大翔は、おそらく怜那の気のせいではなく、げんなりした表情で答えた。
「まあ、気持ち悪いとは思われるかもな。でも理由はさすがにわかんないだろ」
中身のないやり取りの結果。
結局、怜那も言葉にはしなかったのに彼には伝わっているようだ。
これで沖と怜那のことを知るのは、当事者の二人以外には大翔だけ。
これからは沖とのことで何かあったら大翔に相談すればいい、と怜那は勝手に決めていた。
「連絡先知りたいって言ったら、やっぱり困らせるかな」
特に隣の幼馴染みに訊かせる意図もなく、少し大きな独り言のようなものだ。
「迷惑かなぁ」
「……それは、俺にはわからんわ」
学校からの帰り道、怜那の呟きを拾った大翔が珍しく答えに詰まっている。
「先生に直接訊いた方がいいんじゃねーの? 迷惑ならはっきりそう言ってくれるだろ、沖先生だったら。で、もし断られたとしても、怜那はそれで無駄に落ち込まないこと!」
しかし、訊けとは言ったものの心配になったのか、彼は遠慮がちに付け加えた。
「いや、でもさ。もし教えてもらえたとしても、あんまり学校以外で連絡しない方がいいんじゃないか? 学校の先生って凄く忙しいんだぞ。俺が生徒会の会議とかで遅くなっても、いつも職員室に先生いっぱい残って仕事してるし」
「わかってるよ、そんなこと。学校の外で会いたいとか会えるとか、私だって全然思ってないし」
大翔の言いたいことはわかるので、怜那も別に気分を害することはない。
「でも、たま~に声聞いたりとか、ううん声が無理だったらメッセージだけでも、ほんのちょっと話せたらいいな、って」
教員の仕事が忙しいことは、能天気な高校生の怜那にも察することができる。
とはいえ、ただ何も考えずに授業を受けていただけのときなら、心のどこかで「自分たちは短い休み時間以外はいろんな教科で一日中ず~っと座ってなきゃならないのに、先生は自分の科目だけでいいんだもんな~」なんてくだらないことを考えていたかもしれなかった。
当然必要になる授業の準備等を抜きにしても、受け持ちは自分のクラスだけではないし、担任や顧問をしていればそちらの負担もあるのは言うまでもないのだが。
しかし、沖の補習を受けるようになってから、怜那は今までほとんど縁のなかった職員室に顔を出す機会も増えた。
そこでようやく、先生というものは授業以外もずっとなんらかの仕事をしているのだという当たり前のことに気づくことができたのだ。
これではまるで、幼稚園児が自分たちと『遊んで』くれる教員に「せんせいのおしごとはなに?」というのとたいして変わらないのではないのか、と怜那はなんともバツが悪かったものだ。
だから自分がその負担を増やすことはしたくないと思っている。
ただ少し、ほんの少し、それくらいなら。
「ま、怜那って意外と、そういうとこちゃんとしてるもんな。心配いらないか」
意外と、は失礼ではないか?
それでも彼が自分を思っていろいろ考えてくれているのは確かなので、怜那も文句をつける気などはなかった。