「沖先生が好きなんだよな?」
「──好き」
大翔に訊かれて、怜那は混乱の末に自覚できていなかった感情を口にしていた。
声に出した瞬間。
それまであやふやだった、怜那の中にあった
◇ ◇ ◇
大翔と一緒に受ける、沖の補習は楽しい。
沖には言えないが、やはり数学など嫌いだし全然面白くもなかった。
それでも彼が自分だけのために熱心にしてくれる説明はわかりやすかった。そして「大好きな先生」を独り占めできるその時間は、怜那にとって何にも代えがたい宝物だった。
自分のために骨を折ってくれて、必要もないのに補習に付き合ってくれている幼馴染み。
彼をその場だけとはいえ完全に意識からも視界からも締め出しているのは、本当に申し訳ないとは感じてはいた。一応は。
なるべく喜びを表さないように、などと誓ったことは、もう怜那の中ではすっかり意味を為していなかった。
もちろん、補習の最中にはしゃいだり騒いだりはしたこともないが、きっと表情には沖への恋慕が出てしまっていると思う。
怜那はそれさえ自覚していたが、自分を抑えることはできなかった。
ある日の補習で、終わった途端に大翔が席を立った。生徒会の話し合いがあるのだと言う。
「なんだ、予定があるなら最初から言えばいいのに。授業じゃないんだし二人だけなんだから、それくらいいくらでも臨機応変に対応できるよ」
「ありがとうございます。でも終わってすぐ行ったら、時間通りなんで大丈夫ですよ」
そう言いながらも彼は、素早く荷物を纏めたかと思うと大急ぎでその場から立ち去った。
突然、沖と二人きりで残される羽目になった怜那は、想定外の事態に戸惑う。
そして何気なく沖のほうを見て、目と目が合った、その瞬間。
「沖先生、あの──」
決して言葉にするつもりなどなかった秘めた想いを、何故だかいま伝えたい、と感じてしまった。
「私、──先生が好き、なんです」
勇気を振り絞った怜那の告白に、沖は押し黙る。
「……それは、聞かなかったことにするから」
少しの沈黙の後、沖は重い口を開いた。
「お前たちの年頃にはよくあるんだよ、そういう勘違いって。教師に憧れて、その気持ちを恋愛感情だと思い込んだりするのは。だからあんまり思い詰めたりしない方がいい。しばらく考えないでいたら、そのうち忘れるから」
感情を乗せない沖の諭すような台詞は、怜那にはただの拒絶にしか聞こえなかった。
◇ ◇ ◇
「あらぁ、大翔くん。どうぞ、怜那は部屋にいるから」
「はい、お邪魔します」
通信アプリのメッセージに既読が付かず、心配した大翔は怜那の家に押し掛けて来た。
怜那とはまるで双子の兄妹のように育った大翔を、彼女の親は笑顔で迎え娘に了解を取ることもなく家に上げてくれる。
「大翔くん、いつでもご飯食べに来てね。お母さんお忙しいでしょ? まぁ大翔くんは料理も得意だから、一人でも困ることはないかもしれないけど」
「ありがとうございます。また是非」
双方の子どもが生まれる前からの隣同士。
もともと互いの母親の気が合い親しく付き合っていたこともあって、乳幼児の頃から日常的に行き来していた。
幼稚園時代、大翔の母親が病気で一か月ほど入院した際などは、その間怜那の家で寝起きするレベルで世話になっていたこともある。
遠くの親戚より近くの他人、と十年以上経っても母は未だに感謝を口にするほどだった。
その上、父親の食事まで面倒を掛けていたのだ。
「いや、アンタは自分でなんとかしろよ。いくらなんでも甘え過ぎだろ」
今ならそう思うのだが、当時はそれさえ当然のように受け取っていた。
もちろん逆も
血縁はないが、まさしく親戚に近いような関係だったのだ。
気分的には、相手の親にとっても「息子」であり「娘」なのかもしれない。
勝手知ったるでそのまま怜那の私室の前までやって来た大翔は、それでもドアをノックしてしばらく待った。
いくら兄妹同然でも、……いや、実際に妹だったとしても、勝手に部屋に入るのはあり得ないだろう。
しかし返事どころか、室内からは何の物音も聞こえない。躊躇はしたものの、再度ノックして「入るぞ!」と声を掛ける。
思い切ってドアを開けた大翔が見たのは、ベッドで布団を被って丸くなっている怜那だった。スマートフォンは机の上に無造作に置かれている。
──帰ってから放りっぱなしで、チェックもしてないんだろうな……。
「どうした、あれからなんかあったのか?」
大翔は嘆息して怜那の勉強机の椅子を引いて腰掛け、彼女に声を掛けた。
少なくとも、大翔が生徒会室に向かうのに出て行くまでは、あの場には何の変わりもなかった。
何かが起きたとしたらそのあとだろう。不可抗力で、沖と怜那が久しぶりに二人きりになってしまったあの空間で……。
「……もう学校行かない」
「何言ってんだ! 行かなくてどうすんだよ!?」
顔を見せることもなく、弱音を吐いた彼女の言葉に反論する。
「行けないんだよ。──沖先生に嫌われた」
──怜那、とうとう行動に出たってことか? いったい何したんだよ。
怜那が沖に
初めは驚き、呆れた。そして、同時に衝撃も受けた。
物心つく前から常に傍にいた、愛しい幼馴染み。
彼女が自分以外に、自分以上に心を預ける相手など、家族を除けば居なかった。
隠してもきっとわかる、それほど近かった。すべてにおいて。
……ずっと彼女に恋していると思っていた。
大翔が今までの人生で、『好きだ』と感じた他人は怜那だけだった。だから
我が道を行く怜那を理解して受け止められるのは、自分だけだとまで自惚れていた。
何を置いても守らなければ、と気負っていたのだ。彼女がただ守られているような人間ではないことなど、誰よりも熟知していた筈なのに。
補習の帰り道。
大翔に対してさえ、基本的には感情面でフラットな怜那が浮かべる嬉しそうな表情。その口から紡がれる沖の名前。
沖を、……自分ではない『誰か』を想う笑顔も、何も変わらず可愛い。──愛しい。
──俺は怜那を愛してる。見返りなんか要らない。……これは多分、恋じゃない。
大翔が見る限りでは沖も満更ではなさそうだったが、こればかりは簡単に判断はできない。
沖は大人で、しかも教師だ。生徒相手に本心を悟らせないのなんて基本だろう。
たとえ迷惑に感じていたとしても、それを自分たち生徒にもわかるようにあからさまに出すなんて教師としてまずあり得ないからだ。
沖はそういうところ、セルフコントロールが上手い印象だった。
生徒には絶対に自分の不味い面は見せないというのか。『先生』も人間だから、心の中ではいろいろなことを考えてはいるのだろうが。
怜那を好きで可愛がっているように見えたとしても、それは単に受け持ちの生徒のひとりとしてに過ぎないかもしれない。
そもそも、沖が怜那に好意を抱いていたとしても、それが彼女と同じ熱量を持つものだとは限らない。
というより、同じだという確率の方が極めて低いのではないか。
何よりも、彼らの関係性は『教師と教え子の高校生』という、非常に危ういものなのだから。
特に大人である沖は、その点をきちんと理解し
生徒の立場で不遜かもしれないが。
まだ半人前の大翔の目にも、沖は『普通』を逸脱できない臆病な、──つまりはごく真っ当な大人に見えた。
「大人になるって濁ってくことだ」
誰かに聞いたか、本で読んだのか。正しいかどうかは別として、大人と子どもの違いはそういうことでもあるのかもしれない、と思う。
大翔は怜那が大切なのだ。沖とは違う立ち位置で構わない。彼と張り合う気はなかった。
──彼女の瞳に映るのが、心に住むのが誰であろうと、己に向けてくれる笑顔が曇らなければそれでいい。
それが大翔の本心。怜那は大翔にとってそういう存在だった。
この愛しい幼馴染みが傷つかなくて済むように、ただそれだけを望んでいる。
「……何があったんだ?」
沖と怜那の間にあった、かもしれないことを、第三者の自分がいくら考えたって
第三者なのだ。どんなに悔しくても結局彼らの間には立ち入れない。同じ舞台に立ったとしても、所詮脇役だ。
けれど、傍観者だからこそできることもあるのではないか?
思い切って怜那に訊いてみることにしたが、ベッドの上の塊はぴくりとも動かなかった。
それでも大翔は、急かすことなくじっと待つ。そう、待つのは慣れている。ずっと傍で見守って来たのだから。
怜那はきっと、何も気づいてはいないのだろうが。
「……好きだ、って」
布団の中からぽつりぽつりと聞こえてくる、怜那の声。
「沖先生に好きだって言ったんだ」
大翔は口を挟まず、黙って次の言葉を待っていたのだが。
「聞かなかったことにするからって、……!」
いきなり布団を持ち上げてがばっと起き上がり、怜那が途切れ途切れに叫ぶ。
こんな怜那は初めて、ではないとしてもいったい何時ぶりだろう。ほんの小さい頃でも、怜那はここまで感情的になることは珍しかった。
それだけ沖のことが、彼女の中で重いのか。
「よくある、勘違い、だって。違う、私は違う、のに。すぐに、忘れるからって、そんな、そんなこと、っ──」
「……そっか」
──知ってるよ。お前は本気になったら迷わない。真っ直ぐに、向かっていくんだよな。……でも。
「沖先生を庇うわけじゃないけどさ、先生だってやっぱり困ったんじゃないか?」
大翔はそれでも、友達だからこその厳しい言葉を投げる。家族にも近い、本音で通じる存在としても。
もしかしたら自分は、損な役を勝手に引き受けているのかもしれない。
ただ、周り回って怜那の役に立つことがあったなら大翔はそれで満足なのだ。格好をつけているわけでもなんでもなく。
「もし、もしもだよ? 先生も怜那のことが好きだったとしても、『あー、俺もー!』なんて言えるわけないじゃん。それくらい、お前にもわかるよな?」
ベッドの上に座り込んでほろっと涙を零した怜那に、大翔はちょっと言い過ぎたかな、と気持ちが揺らいだ。
泣く、なんて。怜那が自分の言葉で。──沖に触れたからだとわかってはいるけれど。
それでも、大翔には自分が間違ったことを言ってはいないという自信がある。彼女だってきっと、本当はきっとわかっているはずだ。
だからこれは、誰かが告げてやらないとならない。
それはやはり、一番事情を知っている自分の役目なんだろうと大翔は思う。
幼馴染みの言葉に反論することもなく黙って俯いている怜那に、大翔はそのまま無言で傍についていた。
怜那の母が、夕食の時間過ぎても出てこない二人に「ご飯どうする?」と訊きに来てくれるまで、ずっと。