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第一章『Lesson』②

「可愛いからっていい気になってさ!」 

 小学校や中学校では飽きるほどぶつけられた理不尽な負の感情も、高校に入学してからはすっかり鳴りを潜めた。

  面と向かっては慎んでいるだけで、どこかで中傷されているのかもしれないが、知らないところでなら好きにすればいい。

 クラスの男子や男性教師に笑顔を向けただけで、「びている」と陰口を叩かれた日々。

 幼い頃から小柄な方だった怜那は、男女問わず背の高い相手に対すると目だけで見上げる癖があった。その上目遣いが、余計に媚の上乗せのように取られるのだ。

 単に、顔ごとだと首が痛いからという理由でしかなかったのだが。だからこそ、この癖だけは今も直っていない。

 ……男性相手のみ取り上げて騒ぐ、明らかに恣意しい的な状況からして言い掛かりにも等しい。怜那にとって、それ自体は傷つくことでも何でもなかった。

 ただひたすらにわずらわしく、すっかり無表情が板についてしまったのだ。

 もともと感情を表に出すタイプではなく、特に無理しているわけでもないので継続しているだけの話だった。

 ──先生なんて一番若くたって七歳も上だよ!? おじさんじゃん。まあ、私は年関係なくそんなのはどうでもいいんだけどさぁ。

 口にした通り、怜那は沖には何ら興味も抱いていなかった。とりあえず名前と顔は覚えていて、他の教師と見分けはつくという程度でしかない。

 文系クラスで女子が多いということもあり、先生が、先輩が、あるいは何組の誰それくんが、と事あるごとに盛り上がるクラスメイト。

 いつも男の話ばかりで、何が楽しいのだろう。

 怜那には正直、まったく理解も共感できない。だからと言ってわざわざ突っかかる気も無論ないのだが。

 たまに巻き込んで来ることはあれど、基本的には構わないでいてくれるのはありがたく思っている。

 すべてにおいて『低温低湿COOL&DRY』な印象も含め、怜那は周りには一匹狼的な個性として認識されているらしかった。

 クラスメイトともつかず離れずの距離を取り、深い付き合いはなくてもそれなりに平和な日々を送っていたのだ。



    ◇  ◇  ◇

「怜那、テストどうだった?」

 帰り道、偶然一緒になった野上のがみ 大翔ひろとが気軽に問い掛けて来る。

 彼と怜那は家が隣同士で、所謂幼馴染みになるのだ。

 校区のない私立で、二人の家は学校からの近さでは校内でも上から数えられる。

 そのため、わざわざ約束するようなことはないが、会えば一緒に帰るのがお決まりだった。

「全部は返って来てないけど。英語と数学以外はフツーかな、いつも通り」

 隣を歩く大翔は百八十超で、せいぜい平均程度の怜那より二十センチ以上背が高い。首を反らすようにして彼の顔を一瞬見上げ、怜那が淡々と答えた。

「……いつも通り、英語は良くて数学は、ってこと、だよな?」

 さすがにずっと同じ学校で、共に過ごした時間も長い大翔は話が早い。

「まー、英語は得意だし大丈夫だろうけど。数学は? 悪いにもレベルがあるだろ」

二十七点twenty-seven

 端的に数字を口にした怜那に、聞かされた彼の方が開いた口が塞がらない様子だ。

「……お前、なんでそんな平気で、──文系の数Ⅱって平均そんな低くないんじゃないのか? まさか五十点満点ってオチじゃない、よな?」

「中間テストで五十点満点とかあんの? 平均は、──七十六点だった、かな?」

「怜那。俺と一緒に勉強しよっか? 数学なら教えてやるよ」

「え~、パス。私、数学なんてどーでもいいもん」

「……」

 あっさり返した怜那に、大翔はまるで毒気を抜かれたかのように黙り込んだ。

 ……もうすぐ家に着く。



    ◇  ◇  ◇

「沖先生に呼ばれました」

 ほとんど足を向けることもなかった職員室。

 怜那は、ドアを開けたその場で立ったままそれだけ口にした。

「おう、有坂。こっち来なさい」

 声が掛かった方向へ目を向けると、部屋の中ほどで沖が座ったまま手招きしている。学年で一塊になっているらしい机の一番端なのは、やはり若いからだろうか。

 怜那はおざなりに軽く頭を下げて、ゆっくりと彼の元へ歩を進めた。

「有坂。お前もうちょっと何とかしないと、このままじゃマズいぞ」

 真剣な顔の沖の言葉の意味はわかっている。

 先日の中間テストの結果だろう。怜那にとっては、特に驚くようなものでもなかったのだけれど。

「私、私大文系希望だし。受験にも数学なんて要らないから、別にいいです」

 平然と答えた怜那に、沖は一瞬言葉に詰まったようだが、教師に対して失礼だと咎められることはなかった。

「いや、私大は推薦も多いだろ? その場合、評定で数学の成績は嫌でも外せないし。それよりなにより」

 彼にとっては怜那の物言いを気にするどころではないのだろう、と次の言葉から察せられる。

「お前さ、なんでそんなに余裕持っていられるのか知らないけど、受験以前にこのままじゃ進級も危ないんだよ。去年の担任の先生には何も言われてないのか? お前、二年に上がるのも結構ギリギリだったんだけど」

 シビアな現実を突きつけられて、さすがに怜那は動揺する。

「え、進級、ってそんな……。去年……は、先生には数学もっとやれとか怒られた気はするけど、進級なんて聞いてない……。たぶん」

「四十点未満は赤点、つまり欠点だって言うのは知ってるよな? 学年通して、平均が四十点割ると単位認定できない可能性が高いんだよ。もちろん、なるべく留年も退学も出したくないから、救済措置として期末や学年末のあとに追試することもあるけど」

「……追試」

 鸚鵡おうむ返しする怜那に、沖はたしなめるような口調になった。

「いや、追試だって『受ければ合格』じゃないから。わかるか? 結局は最低限の学力は要るんだよ」

 ──こういうの、熱血教師ってーの? 普段から熱いとこはあったけど、直接見せられるとなんか凄いな、この人。

 懇切丁寧に説明してくれる沖に、現実逃避するかようにどこか他人事のような感想を抱いてしまう。

 それでも怜那はなんとか彼の言葉の意味を必死で考えようとするが、頭の回転がついて来ない。

「ちょっとテストの結果が悪かっただけなら、いちいち個別に呼び出して説教なんかしない。有坂、授業もちゃんと理解できてないんじゃないのか?」

 図星を指されて何も返せない怜那に、目の前の沖は仕方なさそうに息を吐き、さらに言い聞かせるように続けた。

「もちろんまだ二年になったばかりだし、今すぐどうこうなんて話じゃないけど、こんな点数が続いたら確実にアウトなんだよ。……高校は義務教育じゃないからな。したくなきゃ、勉強なんてしなくていいってのはその通りだ。いい大学に行くだけが人生じゃないんだから。でもせっかく高校来たんだから、ちゃんと卒業はした方がいいだろ? それもどうでもいいんなら、俺ももう何も言わないけどな」

「いえ。私、卒業はしたいです。……大学も、行きたいし」

 噛んで含めるような彼の言葉に、怜那は反射的に返す。

「だったら、もっと本腰入れて頑張らないと」

 怜那の返事に、沖は少しは安堵したようだ。

「他の教科は、理科も含めてまあ平均以上にはできてるしな。特に英語はかなりいい。進路調査では、外国語学部かそのあたりに進みたいって書いてたよな? あとは数学さえもう少しどうにかすれば、進級や卒業は何も心配ないから」

「数学、……要らないと思ってたから。私、中学からずっとできてなかったけど高校も受かったし、文系だし、でも──」

 言い訳のつもりもなく、ただ勝手に気持ちが口から零れて行く。

 沖は怜那のいい加減な姿勢を叱ることもなく、冷静に打開策を提示して来た。

 こういうところが数学教師らしいというのだろうか。

「放課後、補習やろうかと思ってるんだけど、参加するか? それとも一人で何とかやれるか、どうする? 今すぐ決めなくてもいいから、家に帰って考えてからでも──」

「補習行きます!」

 予想外の事態に思考停止状態だった怜那は、ようやく我に返ってそれだけ告げた。

 普段と違うだろう強い反応に、沖が驚いている様子が見て取れる。

「……そうか、だったら詳しいことはまた知らせるから。今週中には始められるかな」

 ──進級、卒業……? 私、そんなに……。

 沖の声を半ば聞き流しながら、怜那は足元が揺らぐかのような感覚を覚えていた。


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