他のメンバーを二次会に送り出してから店に謝り、もう予約は入っていないという会場の部屋の隅をそのまま借りて、雅がずっとついてくれていたと後に聞かされる。
彼女は大学のすぐ隣に建つ寮暮らしで、コンパの会場からも徒歩数分で帰れるから、と残ってくれたようだ。
ちなみに郁海は、相変わらず書けないリュウに付ききりでコンパどころではなかったらしい
印象とは違って意外と一般的な常識を持つ部分もある郁海なら、もしかしたら乾杯の時点で止めてくれたのかもしれない。祥真は彼と飲み会で同席したことがないので判断できなかった。
もちろん止められるかどうかに関わらず、飲んだ自分の責任だというのは理解している。
「原田。君しばらく飲み会禁止ね。だって酒ほとんど飲んでないのにアレでしょ? だからそーいう場全部禁止!」
「わかりました! あの、見城さん、ここ……」
翌朝まったく見覚えもない和室に敷かれた布団で目覚めた祥真に、入り口で腕組みしながら立つ雅が重々しく言い渡して来た。
状況はわからないなりに、彼女に迷惑を掛けたことだけは間違いなさそうだ。
「あら、起きたのね。大丈夫だった?」
「あ、
「いいのよ。……見城さんも色々大変よねぇ」
雅の後ろから見知らぬ中年女性が顔を出し、先輩が懸命に謝っている。
久木というらしい女性の説明によると、ここは雅の暮らす女子寮の一室らしい。
彼女は住み込みの寮母なのだとか。
大学の女子寮ということもあり、親兄弟でさえも男性は基本立ち入り禁止。
例外として地方から出て来た父親に限っては、申請と証明は必須だが一階の玄関を入ってすぐのこの部屋でのみ面会や宿泊が可能らしい。
そこに雅が特別に頼み込んで、なんとか寝かせてくれたようだ。
いくらまだ冬ではないとはいえ、さすがに外に転がしておくわけにも行かない。
男子寮はここから一駅離れた場所にある上、部外者がいきなり泊めてもらうのは不可能だろう。
一次会の店に置き去りなど以ての外だ。大学関係者自体が出禁になりかねない。
所謂チェーンではなく、安くて美味しい上になにかと融通の利くあの店は、学生だけではなく教員もよく利用しているらしかった。
しかも大学関係者を締め出しても、立地上商売が立ち行かないこともない。よくある「大学しかない」街ではないからだ。
大袈裟な言い方をすれば、サークル自体があとあとまで大学全体に恨まれる羽目に陥るところだった。
「こういうことって滅多にないのよ。あっちゃ困るけど。少なくとも、私がここ勤めてからは初めて。見城さんなら信用できるからね。あなたもいい先輩持って感謝しなさいよ」
諭すような寮母の言葉に項垂れるしかない。
一人暮らしのアパートの住所さえ言えない状態の祥真に、困った雅が寮母に一晩だけ宿泊室を使わせてもらえるよう頼み込んでくれたのだとか。
「私が言うことじゃないんだけど、このことは吹聴しないでもらえるかしら。『男は入れない』ってことで親御さんも安心なさってるわけだしね。やっぱり年頃のお嬢様を大勢お預かりしてる立場だから」
「絶対喋りません! 本当に申し訳ありませんでした!」
祥真は布団の横の畳の上で土下座する勢いで謝罪する。
雅を信頼しているからこそ、彼女の懇願に禁を破ってまで男子学生を泊めた。
久木の責任で取り計らった以上、やはり外に漏らしたくないのは当然だ。
「じゃ、出るわよ。他の子が起きて下りてくる前に」
「あ、は、はい!」
雅はここに住んでいるのだから祥真を追い出せば済むだろうに、と共に出ようという彼女に疑問を持ったのだが、理由はすぐに明かされた。
「このお店のモーニングセット美味しいから。あたし、たまに来んのよ。朝から自炊めんどいな~ってときとか」
大学前の通りを二本ほど外れた、学生が客層の中心ではないだろう喫茶店に連れて行かれる。
時計を見ると七時半だった。
「見城さん、こんな早く出る必要なかったですよね。本当にすみません……」
「別に。外で食べるときはいつもこれくらいだから気にしなくていい。あたし、美味しいものゆっくり食べんの好きなの。パパっと詰め込むなら、自分で作った適当なもんで十分じゃん?」
それが事実でも、一年生の祥真とは違い四年生の雅は朝一限目の講義などある筈もない。
ただただ申し訳なかったが、これ以上謝罪を重ねても彼女に返す言葉を考えさせるだけだと気づいて、祥真は口を噤んだ。
雅のおすすめメニューを頼んで、テーブルにオーダーが揃うとまずは食べよう、ということになる。
縁に飾り模様のついた白い大きな皿に、数種類のパンと卵料理の中から選んだトーストとスクランブルエッグ。雅はクロワッサンにオムレツだった。
脇に添えられた芋の塊が目立つポテトサラダも、メニューによるとマヨネーズから手製らしい。
それに加えて飲み物の大きなカップ。カフェオレボウルとかいう代物だろうか。
「俺、実はコーヒー苦手なんで。紅茶とかジュース選べんのいいっすね!」
「あたしもあんまりコーヒー好きじゃないけど、ここのカフェオレは別なんだ。……でもまあ嗜好品だから無理しなくていいよ」
中身のない話を続けながら、雅の言葉通り美味なプレートを平らげた。
「飲み物のお代わりいかがですか?」
「ください!」
「あ、俺もいいですか?」
マスターがそれぞれのカップになみなみと注いでくれたカフェオレとミルクティーを前に、雅がふっと真面目な顔つきになった。
いよいよ説教が始まる、と背筋を伸ばした祥真だったが、説教の方がどれほどよかったことか。
「副島さんがぁ、好きなんですよぉぉぉ! でも副島さんは祠堂さんが好きだからぁぁぁ!」
最初のコンパの会場で雅と二人になった祥真は、半ば寝たままで郁海への想いを叫んでいたらしい。
恥ずかしい台詞を本人に対して口にしなければならない彼女の方こそ被害者だとわかりつつも、祥真は机の下に潜り込みたくて堪らなかった。
このときほど、無駄だと重々知りつつも「消えてしまいたい」と願ったことは後にも先にもない。
「まず最初に断っとくけど、郁海にも誰にも口外する気ないから。そこは安心して」
「……ありがとう、ございま、す」
「演劇やる連中なんてエキセントリックなのが多くて、男同士女同士なんて話の種にもなんないから悩む必要ないんじゃない? いや、悩んでんのか知らんけど、もしそうならね」
「え、っと。別に悩んではないっす。他の人がどうとかは全然知りませんけど、『俺が』副島さんが好きなんで」
どうやら性指向についてなのでは、と気遣ってくれたらしい彼女に無関係だと否定する。事実だ。
「ほー。君、なかなか男前だね」
茶化す色などまるでなく、雅が感心したように告げる。
「郁海のことについてはあたしがあれこれ言うことじゃないけどさ、少なくとも祠堂さんとだけはないね。君、あの人が女途切れないの知らないの?」
「いえ、副島さんが話してましたから知ってます。祠堂さんがどうのじゃなくて、副島さんが祠堂さんを好きなら、その──」
「それはない」
食い気味に言葉を被せる彼女。
「詳しくは言えないけど、それだけはないの。郁海は祠堂さん大好きだけど、あくまでも『脚本家・演出家』として、だから。一か月分の夕飯賭けてもいい」
寮生活を送る彼女にとって、「一か月分の夕飯」が到底気軽なものではないのは一人暮らしで食事に苦労している祥真にはよくわかる。
それだけ本気だ、という意思表示だ。
「……いえ、信じます」
雅はこれ以上何を訊いても決して答えはしないだろう。
それでも、なんとなく彼女は「郁海の好きな相手」を知っているのではないか、という気がした。
根拠を訊かれても『勘』としか言えないのだが。そして祥真自身、己の勘など特に信じていない。
一つだけ確かなのは、郁海のことも含め雅には一生頭が上がらないということだった。
祥真の恋心は止まることなどなかったが、郁海とリュウの間にそういう感情はまったくない、ということは祥真にも徐々にわかってきた。
雅が話していた通り、リュウには学部時代からほぼ切れ目なく交際している『彼女』がいたらしい。
そのことについて平然と話す郁海に、二人の関係は本当に『演劇・脚本』に関すること限定なのだ、と改めて納得もした。
「いい人と付き合ってると、祠堂さんも安定するからこっちも安心なんだよな。まあ今の相手はちょっとなぁ……、とか思ったって、他人の恋愛に口出す気なんてないけどさ」
困った先輩が本当に珍しく穏やかな生活を送り、脚本もそれなりに進んでいるようだ、と郁海が喜んでいたのが印象深い。
彼にとってリュウは恋愛や性愛の対象ではないのだ、とようやく合点がいった。
郁海が担っているマネジャー的役割をなぜその恋人に頼まないのかも不思議だったのだ。
脚本の内容などはともかく、すべきことの優先順位を意識させる。せめて後先考えない逃亡をさせない程度には。
雅に訊いてみたところ、「そこに関わらせないから、なんとかうまく行ってんじゃないの? 祠堂さんと付き合える人のことなんて、あたしには理解不能だけど」と返って来た。
彼女曰く、「ただでさえ手の掛かる男なのに、恋人役に加えてお母さん役ってふざけんなって話だよ」だそうだ。
「『逃げなくていいように、ちゃんと計画立ててその通りやりましょう』ってさ、『リュウちゃん、忘れ物ない? ハンカチは持った?』と同レベルじゃん」
歯に衣着せぬ雅の物言いに、祥真も反論はできなかった。
「ま、『
郁海がいなくなったらリュウはどうするのだろう、と他人事ながら少し気になってしまう。
同時に、「途切れないってのはつまり、続かないんだってわかってる?」と確認され、祥真はそのことにもようやく気付いたくらいだった。
百八十を超える長身で、「男らしい」というには多少繊細そうではあるが相当な美形。
世間一般的に学力が高いとされているこの大学で、リュウは頭の良さでも有名だったという。入試で主席だったため入学式で表彰された、という伝説は聞いていた。
学年が離れ過ぎているので真偽は定かではないが、おそらく事実なのだろう。
次々彼女ができることは何ら不思議ではないが、最初は続かない理由がわからなかった。
能力に溢れ、見た目も非常にいい彼。
女性にとっては、むしろ決して手放したくない超のつく優良物件なのでは? と。
──『脚本・演出家』としてではないリュウ個人について、改めて考えてみるまでの話でしかなかったが。
「郁海ぃ、お前だけは僕のこと見捨てないでよぉ!」
「俺はあなたの書く
「ほ、ほんと、に……?」
「ええ。──だから書いてください」
リュウの必死さに比べ、郁海の対応は軽く受け流しているかのように見えた。
本心からの言葉には違いなくとも、いい加減飽きるほど繰り返されたやり取りなのだろうと察せられる。
「うん、書く! 書くから、……見ててくれる、よね?」
「ここで見てます。あなたが嫌がってもずっと見てますよ」
「郁海ぃぃぃ! やっぱり僕にはお前だけ……」
「──いいから早く書け! 口より手ぇ動かせ!」
たまたま訪れた部室で、リュウが郁海に文字通り縋りついている場面を見てしまったときは祥真の方が居た堪れなくて消失したい気分になった。
そしてなぜ、普段は人がたむろしている狭い部室がほぼ無人だったのかの理由もわかってしまった。
いったい何の
郁海ではなく、大先輩の方に「そういうことは家でやってくれ!」と口に出せる筈もない悪態を心の中で吐いたものだった。
その日のうちに雅に教えられたのだが、ちょうどリュウが十何人目かの『彼女』に振られたタイミングだったらしい。
「祠堂さんはさ、とにかく誰かに、あるいはみんなに『お世話してもらわ』ないと生きてけない人なわけよ」
祥真が知りたがっているのが見え見えだったのか、雅がリュウについて語り出した。
「で、郁海は逆なの。あいつは『世話したい』んだよね。料理が趣味で、いろいろ作って食べさせるの好きだし。あたしもよくご馳走になったわ。──人間としては祠堂さんがその世話焼き癖にピタっと嵌ったんだろうけど、恋愛的には違う気がするのよ」
雅が自分の考えを整理するかのように話すのを、祥真は無言で聞いていた。
恋愛に関してはともかく、彼女の言葉の意味は祥真にもよく理解できるしおそらく間違ってはいない。
郁海がリュウに対してしていることは、頼まれてできる範囲を逸脱している。本人の積極的な意思がなければ無理だろう。
「もし! もし郁海が女だったとして、同じように『誰かのお世話したい! 支えたい!』って考えた場合よ? あいつが選ぶとしたら部活のマネジャーじゃなくてむしろチアリーダーなんじゃないかって」
あまりにも突飛な雅の仮定に、祥真は二の句が告げなかった。
しかし、彼女も聞き手の反応など最初から期待していなかったようだ。
「あたし子どもの頃から劇団入ってて、小学校時代はダンスクラスも取ってたんだよね」
初耳だったが、サークル内ではそういう経歴を持つメンバーは珍しくもない。
「で、あたしの劇団にはなかったけど、オーディションで知り合った友達がチアスクールにも通ってたんだ。チアリーディングってさ、ポンポン持って適当にくるくる踊ってんじゃないんだよ。技術的にもすごい大変なの。運動部の応援しか見たことなかったら、そう受け取っても無理ないけど」
「適当に踊ってるとまでは思ってませんけどそんな大変なイメージはないですね、たしかに」
大学の野球やラグビーの応援に借り出される彼女たちは、確かにスタンドで統率の散れた素晴らしいダンスを披露してはいたが、単体での『驚異の動き』という感想はまったくなかった。
結局は応援のための「ダンスチーム」というのか。
「もし知らなかったら競技会の映像、公式でも上がってるから見てみるといいよ。世界変わるから、マジで!
正直、雅の話だけではどういったものか想像もつかなかった。
機会があれば映像を検索して観てみるか、と祥真はぼんやり考える。