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第十一章『もういちど。』

「愛してます」

 突然。

 本当に突然、何の脈絡もなく、恋人の静かにぽつりと呟くような声が聴こえた。

 郁海いくみの部屋での恒例の食事会。

 最初はただ、外で恋人らしいこともできないので部屋に呼ぶための口実だった。

 しかし今となってはもう、「食事会」という名のおうちデートだ。郁海の自慢の手料理を取り留めない話をしながら味わう、楽しい二人の時間。

 毎回、主菜・副菜合わせて必ず何皿か作るため、祥真しょうまのリクエストにも応えながら栄養バランスも考えて献立を立てる作業も意外と楽しい。

 もしかしたらそれも、なんでも美味しそうに食べてくれる相手の存在が大きいのかもしれないが。

 すべての皿が空になり、メニューに対する感想なども語りつつ和やかに時間が過ぎていく。

 ふと会話が途切れたその瞬間。

 手に取った飲み物のカップを口に運ぼうとしていた郁海は、耳が拾った言葉を聞き違いだとばかり感じた。

 どう考えてもそんな雰囲気ではなかったのだ。それは、ごく普通の日常のやり取りに混ざってくる種類の言葉ではない。

 今なんて……、と聞き逃したはずの正解を問おうと祥真に目を向けると、彼の口がまた同じ、間違いではないその言葉を紡ぐ。

 いつもなら如才なくいなせるはずの年下の恋人の、熱の籠らない自然体の様子と情熱的と称されるだろう台詞との落差にかえって気圧された。

 もしこれが関係をゼロからさらに先へ進めるための告白の言葉なら、また違っていたかもしれないと郁海は思う。

 でも祥真は既に自分の恋人で、もう何度もお互いの熱を確かめ合った間柄だ。それこそ愛の言葉なんて飽きるほど聞かされている。

 主にベッドで。

 もちろん自分も言っているだろう。

 意識がはっきりしないときの分も含めれば数えきれないほどに。

 きっといつもの郁海なら、軽口で「何言ってるんだよ」と切り返せていた。

 それなのにありふれて言い尽くされた、陳腐でさえある祥真のその台詞が今は何故か笑い飛ばせない。

 今の郁海は、胸が詰まるような、何とも言えない感覚に捉われて身動きさえできなかった。

 まるでその場の時間が止まったかのような感覚。

 長く思えたが実際にはせいぜい一分かそこらだったのだろう。郁海は無意識に大きく息を吸い、吐き出した。

 そして。

「もう一回」そんなつもりもない筈なのに、気づいた時にはその言葉はもう郁海の口から零れてしまっていた。

「もう一回、言ってくれよ」

 もっと、聴きたい!

 いったん口にしてしまうと、自分の中にあるとも思っていなかった感情が堰を切って溢れ出す。

 ──言ってくれよ。もっと、もっと! お前の愛の言葉でこの身を満たしたい。だから、祥真。

 小さく笑みを浮かべてローテーブルの向かい側から回り込んできた祥真が、郁海の隣に腰を下ろした。

 そのまま優しく抱き締められる。

 望んだ言葉を耳に注がれて、郁海はふっと力を抜いて背中から床に敷いたラグの上に倒れ込んだ。当然、密着していた祥真もその身体に覆い被さるような格好になる。

「俺も。俺も愛してるから、お前を」

 郁海はそう言って、祥真の首に手を回した。普段は考えられないような年上の強気な恋人の素直な言動に、祥真は嬉しそうに喉の奥で笑う。

 そうして横たわって抱き締め合ううちに、ふと空気の色が変わった気がした。

「ねぇ、このままここで? ……あなたが欲しいよ」

「ダメ、……風呂、まず風呂に入らなくちゃ──」

 祥真が欲を湛えた声でそう囁くが、なし崩しに許してはやれない

「お前はよくても、こっちは色々と準備があるんだよ」

 口の中でもごもごと言い訳しながら、郁海はゆっくりと起き上がってバスルームへ向かった。

    ◇  ◇  ◇

 ──それでもあなたはちゃんと受け止めてくれるんだよね。

 郁海の後姿を見送って、祥真はとりあえずテーブルの上の汚れた食器類をキッチンへ運ぶ。

 洗うのは今でなくともいい、とシンクに放置したままで、うきうきと自分もバスルームへ歩き出した。

 いつもなら追い返されるのは目に見えているけれど、今日はもしかしたら、なんてほんの少し期待しながら。

 それに一緒に入浴は無理だとしても、もちろん楽しみはそれだけではないのだ。むしろ恋人同士の時間はそのあとが始まり。

 自然と祥真の顔には笑みが浮かぶ。

 夜はまだ始まったばかりだ。今日もまた、今まで知らなかった彼の顔が見られるかもしれない。


 ~『もういちど。』:END~

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