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第十章『ふわふわ』

「ねぇ郁海いくみさん、バブルバスですって! 見城けんじょうさんにいただいたんです!」

 今日たまたま仕事で大学近くまで来たため、部室に立ち寄ったというみやび。職場で貰ったけど使わないから、と渡されたらしい。

 話しながら祥真しょうまが見せて来たのは、まるで洋酒のような洒落た瓶入りの……?

「何だ? これ」

 名称からして風呂で使うものらしいのはわかる。

 つまり入浴剤ではあるのだろうが、そう聞かされても飲み物にしか見えなかった。

 ワインの深く暗い色ではない、ストロベリーソーダのようなクリアな赤。

 郁海の疑問に、祥真は「使ってみればわかるでしょー」と言外に一緒に入浴しようと誘う。

 それが彼の狙いなのは瞬時にわかった。祥真は、見た目通りと言っていいのかこういった「恋人ごっこ」が大好きなのだ。

 いや、恋人同士ではあるのだが、間違いなく。

 ──雅、こいつにこんなもん渡したらどうなるかわかるだろ。ってかわかるから、か。俺で遊んでんのか。

 内心、悪友である彼女に文句をつけている郁海の手を引き、祥真は嬉々として風呂に向かう。

 そしてバスタブに瓶の中味を半分ほど注ぎ込んだ。

 蛇口を捻ると、勢いよく流れだしたお湯が入浴剤を泡立てて行く。

 見る見るうちに湯の表面は白い泡で覆われた。狭いバスルームに甘いフルーツの香りが漂う。

「うわぁ、凄いじゃん!」

 ──なんだこれ、楽しそう!

 郁海としては、正直つい先程まではあまり乗り気ではなく「恋人がやりたいならまあ仕方がないから付き合ってやってもいいか」くらいでしかなかったのだ。

 それが実際にバスタブに溢れる泡を見ると、自分でも驚くほど気分が上がるのを感じる。

 入りませんか? と誘う祥真に頷き、その場で着ていた服を脱いで脱衣所に放り投げた。

「このお部屋、いいですよね。お風呂とトイレ別で洗い場あって。俺も早く就職してもっと広い部屋に越したいです」

 綺麗好きの祥真は、三点ユニットが苦痛で堪らないらしい。郁海はむしろ、以前の部屋のユニットバスは掃除が楽でいいくらいの気分だったのだが。

 いくら掃除や片づけが苦手でできないとはいえ、水回りだけは放置したら大変なことになるからだ。

 引っ越したのも、ただただキッチン設備の充実した部屋に移りたかったからに他ならない。

 狭いバスタブの中で祥真と向かい合った郁海は、両手で表面を覆い尽くしたふわふわの泡を掬い取った。

 湯から出た自分の腕も肩も薄っすらと泡が纏わり付いている。

 泡風呂がこんな風になるなんて知らなかった。外国の映画か何かで観た覚えはあるけれど。

 しかし日本の一般家庭では、泡風呂など実際に入ったことがないという方が普通だろう。

 いや、お洒落な女子なら別なのかもしれないが、少なくとも男の一人暮らしに縁があるものではないのはわかる。

 それ以上に、男二人の方が珍しいのは間違いない。

 実際に体験するのは初めての郁海には、大袈裟に言えばすべてが未知の世界だった。

 意外にも、泡は触ってもすぐには消えない。

 もちろんいつまでもそのままということはないものの、シャボン玉や石鹸の泡とは違いこれはまるで──。

「ケーキのクリームみたいだよな」

 郁海は手のひら一杯に盛り上がったホイップクリームのような白い泡を見つめる。

 これは何の香りだろうか。

 綺麗な赤い色からしてやはり苺か? しかし、本当にケーキのデコレーションみたいだ、とぼんやり考えていた。

「なぁ、これいいな!」

 何度も何度も真っ白な泡を掬っては落として遊ぶ郁海の、いつになく無邪気に喜ぶ様子に、祥真も満足そうに笑ってこちらも両手で泡を掬って笑っている。

 急に悪戯心を起こして、郁海は両手に山盛りの泡を目の前の祥真の顔に投げつけるように浴びせた。

 まるで誕生日によくある儀式でクリーム山盛りのパイをぶつけられたかのように、祥真は泡だらけになった。

 その顔を両手で拭いながらにっと笑い、お返しとばかりにばしゃっと音の鳴る勢いで両手で掬った湯を混じった泡ごと掛けて来る。

「うわっ、なにしてんだ、もう! 子どもかよ」

 自分を完全に棚に上げた台詞を吐き、じゃあ俺もこうしてやるよ、とまた顔面目掛けて泡爆弾をお見舞いしてやる。

 もうそこからは二人、年甲斐もなくまるで幼い子どもの如く声を上げて笑いながら夢中ではしゃぎ倒した。

 ──あ~、面白かった……。こんな楽しいもんだと思わなかったな。

「そろそろ上がりましょうか」

 祥真に声を掛けられたその時までは、確かに夢見心地だったのだ。

 柄にもなく、我を忘れて騒いでしまった。もうとっくに二十歳も過ぎて、学生ですらないというのに。

 バスタブから出て、洗い場のタイルの上でシャワーを浴びて泡を洗い流しているうちにだんだん頭が冷えて来た。

 そうすると、郁海はなんだかもう裸で二人が並んでいるこの状態自体が居た堪れなくなって、自然俯きがちになってしまう。

 ちらっと少しだけ上にある顔を窺うと、なんともばつが悪そうな表情の祥真と目が合った。

 お互いに慌てて目線を逸らし、脱衣所でタオルを手に取り身体を拭く。

 どことなく気まずい雰囲気のまま、どちらも無言でパジャマ代わりの服を着ると、ぎこちなくバスルームを出た。

 それでも二人は、連れ立って寝室として使っている私室へ向かう。

 恋人同士、言うまでもなく今夜はそのつもりだったわけだけれど。

 祥真に促されて一緒にベッドに上がるも、郁海はなんだか不思議なくらいそういう欲が醒めてしまっていた。

 ──でも、祥真がしたいなら。

 それはしたいだろう。

 泡風呂もその前哨戦で盛り上げるための手段だった筈だし。それがここまで来ていきなり「今日はその気じゃないからパス」というのはあまりにも勝手過ぎる。

 いくら二人の関係においては、年上の郁海が形の上では偉そうに振る舞うことが多いとはいえ、対等な恋人同士としてのラインはきちんと弁えている。「彼になら何をしてもいい」などともちろん思っていない。

 むしろ郁海は『偉そうで上から』なのはあくまでも表向きで、根本的に相手を中心に考えるタイプなのだ。

 尽くし型の真骨頂、と表現されるのは非常に不本意ではあるけれど。

 どうしよう、どうすればいいのか。

 そんな風に考えを巡らせている郁海を知ってか知らずか、祥真があっさり「今日はこのまま寝ましょうか」と告げて来る。

 郁海が予想外のカウンターに戸惑って祥真を見ると、なんともいえない微妙な笑みを浮かべた彼と目が合った。

 視線が絡んだままどちらも声を出せないでいると、祥真が努めて明るく「ね? そうしましょう」と沈黙を破る。

 そして郁海に何も言わせず並んで横たわった身体に布団を掛けて、「おやすみなさい」と告げると同時にリモコンを取ると、即照明を消した。

 ──え……マジで寝んの?

 郁海は、今の今まで「したくないんだけど」と困っていたことも横に置いてなんだか寂しく感じてしまう。

 祥真が恋人の想いを読み取って引いてくれたことくらいきちんと理解している。

 いや祥真自身も、もしかしたらその気がなくなってしまったのかもしれない。

 けれど、それにしても、だ!

 頭の中で自問自答を繰り広げながら、寝るどころではなく完全に目が冴えてしまった郁海の隣。

 祥真もまた「思い切ってやっちゃえばよかったかなぁ」と布団の中で悶々とした心と身体を持て余していたのを聞かされたのは随分あとになる。

 郁海が洗面台の収納の中で偶然に瓶を見つけたことで不意に当時を思い出し、件の泡風呂遊びについて口にしたときだ。

 確かに物凄く楽しかったけれど、残念ながらバブルバスこれを使う機会は二度と来ないだろう。

 そこだけは口に出さずとも二人の意見は一致していたことが判明したのもその際だった。


 ~『ふわふわ』:END~

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