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第九章『ペア』

 来客を知らせるインターホンの音が響いて、郁海いくみは寝そべった姿勢から気怠そうにそちらへ目だけを向けた。

 ──あんなもの、見たくなかった。

 つい先ほどの光景が頭から離れてくれない。独りきりの自分の部屋で、郁海はベッドに身を投げ出し天井を仰ぎながらぼんやりと消したい記憶を反芻してしまっている。

 郁海は祥真しょうまより三つも年上だし、……男、だ。

 ありがたいかどうかはともかく、何かと外見を誉めてもらえることも多い郁海だが、やっぱり若くて可愛い女の子には勝てない。

 というよりも、勝負になると思うこと自体がおこがましい。

 柄にもなくマイナス面ばかりを数えてしまい、気分が落ち込みそうになるのを何とか堪えていた郁海だったのだが。

 郁海は今日、卒業した大学のサークルに顔を出そうと部室のドアを開けた。

 そして、公にはできないが恋人として付き合っている後輩の祥真が、新入生らしい女子学生に張り付かれているところに行き合ってしまったのだ。

 ──なんて不運な。どうせならそういうことは俺の知らないところでやってくれよ。

 祥真ももう三年生だ。

 今年も新人は入ったようだし後輩も一段と増えた。下級生に何か訊かれて教えるなんてよくあることだろう。それはわかっている。

 ましてや今、彼は密かに目標としていたらしい舞台監督ブタカンの補佐をしているのだ。全体は言うまでもなく、とりわけ裏方に気を配るのは当然だった。

 郁海の同期だった敦紀あつきのあとに舞台監督を引き継いだ友里奈ゆりなもこの春卒業した。

 今は四年生の根来ねごろ 陸也りくやが奮闘していた。

 来年は、まず間違いなく祥真の番だと郁海は信じている。

 恋人の贔屓目ではなく、彼は見違えるほどに成長した。

 自ら描いた『夢』に向かって、祥真は着実に一歩ずつ前進しているのだ。

 だから彼が下級生の面倒を見るのは当然であり、知らぬ顔で放置の方があり得ない。

 そこまで頭では理解しているのに。

 ──なんだよ、その楽しそうな顔は。演技指導でもあるまいに、どうしてそんな風に密着する必要があるんだ。誰か知らないけどそこの女子、俺の『男』にベタベタすんな! 祥真お前も気軽に触らせてどういうつもりだ。

 心の中に次から次から醜い何かが湧き上がって来て、今にも溢れそうだ。

 郁海はぐっと唇を引き結び、そのままそっとドアを閉めて踵を返した。

 祥真とは目も会わなかったし、他の誰にも気づかれなかったのをいいことに、知らない振りをしたつもりだったのに。

 郁海が見ていたのに気づいていたらしい祥真がわざわざ家まで押し掛けてきたのだった。

 そして、そこから言い訳大会が始まったわけだ。

「違うんです! 郁海さん、本当に違うんだって! 誤解だから」

「へー、誤解、誤解ね。じゃあ、あれはお前じゃなかったんだな?」

 意地悪くそう畳み掛ける郁海に、祥真はぐっと言葉に詰まった。

「ほら見ろ、やっぱり事実なんじゃん。何が『誤解です~』だっての。その程度で誤魔化せると舐められてんだ、俺って」

 いったい何を言っているのだ。

 これではまるで、嫉妬に狂った束縛の激しい彼氏のようではないか。

 いや、客観的にみればその通りなのかもしれないが、やはり恋人同士の仁義というのはあると思う。

 郁海が年齢に似合わない古風な表現で自分の感情の正当性の主張を脳内で繰り広げている間も、彼は必死で話し続けていた。

「だからぁ、俺は本当に疚しいことなんかこれっぽちもないですから!」

 ……別に郁海は、あの女子学生が祥真に特別迫っていたと思っているわけではない、のだ。

「あの子まだ入学したばっかの一年生で、上級生にいろいろ教えてもらうのが嬉しいだけでしょ。うち経験者多いから、特に俺とかあの子みたいな『素人』は居心地悪いですし。親切な先輩はもう神様級なんですよ! 俺だって、郁海さんにそうだったもん」

 さすがに時間も経って頭が冷えてくると、いろいろと落ち着いて考えられるようになった。

 それでも、恋人が可愛い女の子と、という蟠りは簡単には消えてくれない。

 これは理性とはまた別の問題なのだ。

「……わかってくれました?」

 翻って、郁海が話ができるくらいには冷静になったらしいのを見て取った祥真は、恐る恐る切り出して来た。

「俺が好きなのは郁海さんだけなんですよ。どんな可愛い子でも綺麗な人でも、そんなの俺にはもう関係ないんですから。──それに郁海さんより綺麗な人なんて、俺まだ会ったことないです」

「わかったよ」

 きっと最初からわかっていた。祥真がそういう人間だということくらいは。

 郁海はなんだか急に取り乱した自分が恥ずかしくなってしまった。

 こういう時こそ、年上の余裕を見せないと。

 ……先輩である自分が幕引きしてやらなければ。

「腹減った、けどまだ料理する気力がない」

 それでも郁海は、わざと不遜に高飛車に、祥真に向かって言い放つ。

「だからコーヒー淹れて来て。美味しいの」

 コーヒーを選んだのはちょっとしたペナルティだ。

 彼はコーヒーが苦手で自分からは飲まない。当然味などわかる筈もないのに、わざわざ「美味しいの」と付け加えるのも、そう。

 ──それくらいは許してもらおうじゃねーの。

 郁海は、心の中で勝手に決めつけていた。

 守備範囲外のことを言いつけられたのに、やたら嬉しそうに首肯して祥真はキッチンへ消えた。

 この家で祥真に食事の用意などさせたことは一度としてない。

 料理は、生活の一環であると同時に郁海の趣味でもあるからだ。

 つまり郁海の大事な役割だと思っている。作るのも、喜んで食べてもらうのも。郁海にとっては、ただ仕方なくする家事などではないので当然だ。

 向こうももう二年以上一人暮らしをしているのだから、それなりに簡単な料理くらいはできて当然なのだろう。

 しかし郁海としては、何よりも自分の城たるキッチンを引っ掻き回されるのは絶対ごめんだった。

 普段から後片付けは祥真がしているが、使った食器を洗うだけとは事情がまったく違う。

 実際に郁海の部屋のキッチンは、恋人が来るたびにまずは片付けたがるのが見て取れるほどの他の部分の惨状とは比べ物にならないくらい、常に綺麗に保たれていた。

 郁海は『掃除や片付けができない』わけではなくて、単に今なら仕事と料理に能力を全振りしていて、それ以外は何もする気になれないだけなのかもしれないと思っている。

 言い訳がましいのは無論承知の上だが、今も職場の机は何とかまともな状態を保っているのだ。

 やたらと長く感じる待ち時間をそんなことを考えながら過ごしたが、実際にはさほどかからず祥真は戻ってきた。

 彼が持つトレイには、湯気の立つコーヒーと紅茶をそれぞれ湛えた色違いのマグカップがふたつだけ乗せられている。耐熱ガラス製で、深い青と明るいオレンジ。

 補色というには青の色が少し外れているが、対照的なのに違いはない。

 郁海と、祥真のカップだ。

 恋人として付き合うようになって最初にこの部屋に呼んだとき。駅まで彼を迎えに行って戻って来る途中に二人で買った、ごくささやかな記念の品。

 それを目にしただけで、郁海は口元が緩んでくるのを止められない。

 他の誰にも使わせない、自分ひとりの時でさえ絶対に使わない、ふたりの時間のためだけの道具。

 そして、少し変わった空気に気づいた祥真も、心なしかホッとしているようだ。

 食卓代わりにも使っている、ラグを敷いた上のローテーブルに並べられた二つのマグカップの自分の分を手に取って一口。

 郁海がコーヒーを味わうのを固唾を飲んで見守っている恋人の真剣な表情に、ほんの僅か残っていた怒りの感情も湯気とともにどこかへ消えていく。

「まあマズくはないな」

「こんなもんだろ」などと優しくない感想を口にしながら、郁海はこれですべて終わらせてやるよ、と言外に告げる。

 祥真はそんな郁海の心まで見透かしているかのように、紅茶で満たされたカップを手に嬉しそうに笑った。

 さあ、今日は何を作ろうか。材料は何があっただろう。

 冷蔵庫の中身を思い浮かべながら、郁海は頭の中でレシピを次々と思い浮かべてみる。

「何か食べたいものあるか?」

 一応訊いてやると、祥真はぱっと顔を輝かせた。

「作ってくれるんですか?」

「食うならな」

「食べるに決まってるじゃないですか! やっぱ肉! 肉がいいです! あと、この間のなんか野菜一杯の奴、オイスターソース味っぽいの! あれすげー美味かった! 俺、野菜なんてそんな好きじゃないのに、郁海さんが作ると美味いんですよ!」

 そして、嬉々としてあれこれメニューを挙げ始めるその様子が愛しくて堪らない。

 誰より可愛い、郁海の恋人。

 ──なんでも好きなだけ作ってやるよ。今日の夕食に全部は無理だけど、これからいくらでも機会はあるんだからな。

​​​​​​​「よーし、じゃあ作るか! テーブルの用意して待ってろ」

 そう言い残し、郁海は祥真のために腕を振るうべくドアを開けた先のキッチンへ立った。


 ~『ペア』:END~

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