どちらもまだ若くて体力も有り余っているとはいえ、欲に任せて全力で貪り合ってしまった結果すぐには起き上がれないほどの有様だ。
全身が、汗やその他でベタついて気持ちが悪い。
「このまま寝るのはちょっとごめんだな」
郁海はひとり呟きながら気合を入れてなんとか起き上がり、重い身体を引き摺るようにしてバスルームへ足を運ぶ。
まだベッドに突っ伏したままの祥真とでは、身長は七、八センチほど彼の方が高いし体格もいい。
だからと言って、バスルームまで抱いて運んでもらうのはその程度の差ではさすがに無理だ。いや別にして欲しいわけではないのだが。
ぼんやりする頭でそんな取り留めないことを考えながら、郁海は頭上から熱いシャワーを浴びる。
身体の汚れとともに、全身に付き纏っていた夜の匂いも洗い流した。
背中に爪を立てられたな、というのは何となくわかってはいた。
対面で抱き合って揺さぶられていたときだろう。祥真の腕が後ろに回った状況なんて、それくらいだった筈だ。あくまでも郁海の記憶にある限りは、だけれど。
……その程度で痛みを感じるような余裕はどこにもなかった。恋人との行為に溺れていたから。
シャワーの湯が沁みて、改めて郁海はその傷の存在に気づく。
濡れた鏡に背中を映して見てみると、不鮮明ながら肩の少し下から中心へ向けて斜めに数本の血が滲んだ赤い筋が確認できた。
──これは誰かに見られたら一発でバレるやつだな。
まるで他人事のような感想が湧いてきた。
見え透いた言い訳だとわかってはいても使われる、猫にやられたという誤魔化しさえもさすがに無理があり過ぎるくらいの状態だ。
そもそも郁海は、猫なんて飼ってもいないのだが。
郁海は独身だし、事実はどうあれ遊んでいると思われようが別に非難される謂われもない。
自分が気にしないなら困ることもない、ただそれだけのこと。
激しい女と付き合っているのだなと誤解されるのは、決して嬉しくはないが特に実害があるわけでもなかった。
むしろそれで噂が広がったりして、周りの女性に交際相手の候補として敬遠されるならありがたいくらいだ。
──こんなことを考えているのを知られたら、周りの男性社員に「さすが美形は違うね」と嫌味を言われるのは間違いない。
しかし、掛け値なしの本心なのだ。
とは言うものの、これは看過できることではない。普段から痕はつけるなと、それだけはしつこく注意しているのに。
いくら言わせておけばいい、気にしなければいいとはいえ、やはり郁海にしても痛くもない腹を探られる機会は少ない方がいいに決まっていた。
ちょっとお説教してやらなきゃな、と熱いシャワーのおかげで少しははっきりして来た頭で考える。
バスルームを後にして、郁海は濡れた髪をタオルで拭きながら痕を残した張本人の待つベッドへ向かった。
「あのさぁ、何してくれてるんだよこれ」
郁海はまだベッドに寝転んだままの祥真に向かって、右肩の後ろを指し示しながらわざと不機嫌な声を出して訴えてやる。
「こんな派手な痕つけてくれちゃってさ」
結構痛いんだけどな、と言いつつも今更ながらに祥真の手が気になってしまった。
こんなに傷が残るほど引っ掻いて、指や爪は何ともなかったのか?
「ごめんなさい、夢中になっちゃって」
慌てて飛び起きてベッドから降りた祥真は、いつの間に身に着けたのか下着一枚の姿だ。
郁海がシャワーに行っている間には違いないだろうが。
「俺は大丈夫ですから、ほら、ね」
恋人の視線の先に気づいたのか、彼は手を開いて見せて来た。再度ごめんなさいと謝って、心配そうに郁海を見つめる。
「背中見せてください。手当てしなくていいんですか?」
薬つけましょうか? 傷薬ありますよね? と手を伸ばして郁海のパジャマ代わりに来たシャツを脱がそうとする。
「いや、まあそんな大したことはないんだけど……」
勢いよく喰いつかれて逆に引き気味になりながら、郁海はそれでも背中を向けてシャツを捲って見せる。
くっきりついた爪痕に、祥真が思わずひゅっと息を吸う音が聞こえた。
「別に血もそんな出てないしさ、さっきはああ言ったけどホントになんてことないから」
郁海が考えていたより衝撃を受けたらしい祥真に、さらに遠慮がちになってしまう。
──これ、なんかおかしくないか?
そんな風に思いながらも、催促に負けて郁海は救急セットの場所を教えて祥真に取りに行かせた。
受け取ったケースの中から傷薬を取り出して祥真に渡す。
「塗ってくれる?」祥真が軟膏を掬った指先を恐る恐る傷口に滑らせると、郁海はピリッとした痛みに一瞬身を竦めた。
「ごめんなさい、痛かったですか?」
恐縮するような祥真の声に、平気だと首を振る。実際、すぐに慣れてしまった。
「あなたにこんな風に痕を残した男って……、俺以外にもいるんでしょうね」
しばらく無言で指を動かしていた祥真がぽつりと零した言葉に、郁海は沈黙で答える。
──そういうことは暗黙の了解で訊かないもんじゃないかと思っていたけど。やっぱり若さなのかねぇ。
三歳しか違わないのに、自分がひどく年寄りになった気分でそんな風に考えながらも、郁海は可愛い恋人の青さが少し羨ましかったりもしていた。
それでもさすがに正直に話す気には到底なれずに、察してくれないかと願いつつはぐらかそうとする。
しかし、祥真の瞳がどこまでも真っ直ぐに郁海の背中を見つめているのが痛いほど伝わって来た。
……答える気はない、けれど応えてやるか。
郁海は心を決めて、敢えて明るい声で話し始める。
「なぁ、知ってる? 人間の細胞ってさ、二年だかで全部入れ替わるんだって。血も骨もほとんど全部らしいよ、これ凄いと思わないか?」
二人が付き合い出してもう一年以上が過ぎた。それ以前の約一年、郁海は誰とも付き合ってはいない。
何かするなら恋人同士になってから。それが郁海の信条だ。『一夜の関係』というものが大嫌いだった。
つまり、ここにいる郁海の身体は祥真しか知らないのだ。
そこまでは声に出さなかったけれど、なんとなく彼には通じたと感じた。
過去は過去だから、変えられないし変えたいとも思わない。それでも現在の郁海には祥真だけなのだ。
過ぎた時間を気にする必要など何もない。大事なのは
郁海がこの身に触れることを許す男は、誓って祥真しかいない。
「……雑学王っすね」
誤魔化さないで、としつこく追い縋って問い詰めることもできるのに。
それでも、一見この場には無関係に思える言葉に郁海が籠めた意味をきちんと読み取って、年下の恋人はあっさり引き下がる。まだやっと二十歳の彼。
たぶん祥真は、郁海が思うよりずっと『大人』なのだろう。
そう、世の中には、殊に恋人同士の間には知らない方がいいことも多くあるものだから。
シーツを変えて、朝まで二人ゆっくり眠ろうか。
この幸せが続くことを祈って、可愛いお前と手なんか握り合って?
郁海はこれも心の中だけで呟いて、目の前の愛しい彼にシャワーを促す。
そうすれば、きっといい夢が見られるような気がするから。
これから先もずっと続いて行く二人の現実に繋がるような、そんな夢が。
──今から生まれる『新しい俺』を知るのも、お前だけならいいのにな。
~『再生』:END~