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第七章『ショコラ』

 二月の街は、まさにバレンタイン一色。

 このご時世、職場や学校でも所謂『義理チョコ』といった習慣は、以前に比べれば薄れて来ているのではないか。

 実際、郁海いくみの職場でも女性社員の申し合わせで慣習として大々的に行うことはもう何年も前に廃止されているらしい。

 入社一年目の身なのであくまでも又聞きだ。

 もちろん校則の厳しい学校でもあるまいし、個人的にチョコレートを贈ることが禁止されているわけではないが、それはもう『義理チョコ』と呼べるか自体が疑問だ。

 女性陣は余計な手間や出費がなくなって嬉しいだろうが、男性陣にしても正直お返しに気を回さなくて済むので助かるといった声が多かった。

 ただ内心残念だと思っていたとしても、大っぴらに「義理チョコが欲しい」とは言い難いだろうが。

 それなのに、バレンタインそのものの影はそれほど薄くなったとは感じないのが不思議だった。

 郁海はもともと、女性からチョコレートを贈られても喜びはしない。

 甘いものは好きな方だが、付随するあれこれが面倒だからだ。

 特に今は社会人として、もし貰うことがあれば表面的には礼は述べるしお返しもするのは言うまでもない。

 今の職場ではバレンタインの話題が出ることさえないのだが、店に入ると嫌でも目立つディスプレイが目に入るのだ。

 むしろ派手になっている気さえする。いったい誰が買っているのだろう?

「学生は結構、義理チョコってもらいますよ。ホントに義理! ってカンジで、コンビニで買ったそのままの一口チョコレートとかですけどね」

 その一つの答えは、恋人の祥真しょうまが教えてくれた。

「……たぶん勘違いされてややこしいことにならないように、危機管理っていうのも大袈裟かな、わざと『義理だから!』ってはっきりわかるようにしてるんでしょうね。そういうイベントに乗っかるのが好きなのか、クラスとかサークルとかで絨毯爆撃みたいに配りまくってる子たちもいましたよ」

「そういうのにも、やっぱりお返しってすんの? えーと、ホワイトデー? に」

 現役大学生である年下の恋人が話すのに、なんの含みもなく問い返す。

「そりゃまぁ、一応はね。『お付き合い』ですから。ホントに形だけっていうか気持ちだけって感じですけど、それこそちょっと摘まめるお菓子くらい」

 祥真のあっさりした答えに頷く。

「そんなんでいいんだ。そりゃそうか、学生だしな」

「俺にくれるような子は、別にお返し目当てじゃないんで。なんか自分で言うのも情けない話、ついでとか一応、ってヤツですよ。言葉にしたらなんかしょっぱいですけど、人間関係の潤滑油的な。普段からノート貸し借りしてるから〜とかその程度のノリです」

 祥真はそう答えて、周りの女子学生たちの名誉のためにか付け加えた。

「いや、そういう何倍返しとか目当てで渡してるような子って、俺の知ってる限りではいないんすけどね」

「ふーん」

 逆に学生でそこまで計算高い方が恐ろしい、と感じるのは「女の子」を知らないからか?

 しかし郁海の親しい女性陣にはそういうタイプはいないので、所謂世間の基準はよくわからない。

「あとはやっぱ本気のチョコじゃないすか、俺には無縁ですけど」

 それは郁海にも当然理解できた。

 むしろ「バレンタインに告白」なんて学生の特権ではないかとさえ感じる。

「それに、女の子同士で友チョコ交換とかしてるみたいです。なんか、それがいちばん力入るみたいに言ってる子もいましたね。本気のはよく知りませんけど、義理とは全然違う綺麗で美味そうなのを、キャッキャしながらみんなで食べてましたよ」

 去年そういえばサークルの部室で、その場の男なんか全無視でやってましたね。郁海さん、ご存じなかったですか? と祥真が話を続けた。

「俺は去年の二月は卒業公演に掛かり切りだったから。部室にいないこと多かったかもな」

 彼の問いに返しながら考えた。

 友チョコ。そういえば言葉は聞いたことはある。

 今もたまに会うが、学生時代最も親しかった女友達のみやびは、どちらかと言わなくても貰う方だった。

 ……下手したら限りなく本気に近そうなものを、同性から。

 彼女は友人と「チョコ交換会」を催すような性格ではないので、郁海は実際にそういった場を見たことはなかった。

 しかし確かにチョコレートなんて、一般的には男より女子の方が好きで喜びそうだから当然の帰結か。

 そうしてやって来た、二月十四日の夜。

 郁海は大学時代の狭い1Kからは、卒業して就職したのを機に転居していた。

 今彼が暮らしているこの部屋は1LDK。

 新婚カップルなどが二人で入居する場合も多い物件で、単身用よりキッチンが広かったのが決め手だったらしい。

 料理が趣味でストレス解消にもなる郁海には、駅からの距離より築年数よりキッチンの使い勝手が何よりも重要なのだとか。

 親に頼っていた学生時代はもちろん贅沢など言えずに我慢するしかなかったが、己の稼ぎで生活するようになれば話は別だ、と晴れ晴れした顔で語っていたのが印象深い。

 まだ大学二年生の祥真は変わらずワンルームのアパート住まいのため、大抵は祥真がこの部屋を訪ねることになる。

 これは郁海が学生だった頃からの習慣だった。

 祥真の部屋に恋人が来たのは、本当に一応部屋を見たい、見せたいといった感じの一度きり。

 郁海の部屋を訪ねた祥真は、リビングルームに通されて定位置の食卓兼用のローテーブルの前に腰を下ろした。

 自分が片付ける前は常に雑然としている部屋。寝室として使っている私室の方は間のドアも締め切られていて様子が窺えないが、おそらく普段通りだろう。

 手出しする必要もないほど綺麗だとしたら逆に何があったのかと驚くので、相変わらずの方が安心するくらいだ。

 交際して一年と少し、郁海の部屋が祥真が何もしなくていいような状態だった経験は一度もないのだが。

 部屋の隅で何やらガサガサと音をさせていた郁海が、祥真の目の前のテーブルに何かをドンと置いた。

 野球ボールの模様入りのアルミ箔で包まれた小さな球形のチョコレートが、ぎっしり詰まったプラスティックのポット。重そうだ。

 ──これ、俺のためにわざわざ用意してくれたんだよね? というか、こんなのどこで買ったんだろう。普通に売ってんの?

 祥真は驚きのあまり、頭の中が疑問符で満たされてしまい咄嗟には言葉も出なかった。

 固まってしまった祥真に、郁海はわざとらしいくらい満面の笑みを浮かべて食えば? と促す。

 不意打ちに驚きはしたが、もちろん意味はすぐに通じた。今日はバレンタインデーなのだ。

 正直、バレンタインなんて自分たちには関係のない行事だと思っていた。

 そもそも郁海は女性ではないし、綺麗で可愛らしい風貌とは裏腹にむしろ中身は男っぽい方ではないかと感じている。

 世話好きで料理好きなのが女性的だとは、少なくとも祥真は考えていなかった。……もう『らしさ』にこだわる時代でもないだろう。

 だから、郁海が当然チョコレートを用意すべきなんて感覚自体が祥真の中にはないのだ。

 何かの気紛れでもらえるとしたら、包装もしていない板チョコあたりをぽいっと投げて寄越されるくらいかと。

 あるいは裏をかいて、豪華な有名ブランドのものを仰々しく、だったりする可能性も頭を過ったりはしたのだけれど、まさかこう来るとは想像もしなかった。

 我に返った祥真はポットの蓋を開けて中身をひとつ取り出す。

 これはいったい何個入りなのだろう……。

 ぴったりと張り付いたような包み紙を何とか剥がして、現れたボール型のチョコレートを祥真は口に放り込んだ。

「美味しいです」

 本当に、意外と美味しい。

 意外とというのも失礼だけれど。

「ま、ただの駄菓子だけどな」

 郁海の憎まれ口は軽く受け流した。素直に応じる人ではないのは、もうよく知っている。

 それでもいい。

 恋人が自分のために、わざわざ手間と時間を掛けて用意してくれたのだろうチョコレート。たとえネタだろうとなんだろうと関係ない。

 その付加価値が、何よりも重要なのだ。

 『モノ』なんて何でもいい。たとえ一個数円程度の駄菓子だろうと、この人にもらったという事実だけで嬉しいのだから。

 大事なのは誰からかということなのだ。

 祥真はそれが改めて腑に落ちた気がした。

「ありがとうございます」

 祥真は改めて郁海に礼を言う。

 ──ひとつずつ、大事に、大事に食べますから。……たくさんあってよかった。

 ひとり幸せに浸っていた祥真は、郁海の何とも微妙な表情を目にして我に返る。

 ……もしかして、本当にウケ狙いだったのだろうか? だったら、ただ笑ってあげればよかったのかもしれない。

 祥真がそんな風に思ったことも、ぎこちない雰囲気で伝わってしまったのか。

 ごく普通に礼を告げられ、感動している素振りまで見せられた上にこの反応で逆に居た堪れなくなったのか、郁海が早口で捲し立てた。

「次来たときにさ、ホットチョコレートでも作ってやるよ。今はちょっと材料ないから。寒いし、ちょうどいいだろ」

「それ、ココアとは違うんですか?」

 祥真が何も考えずにそんな疑問を口にすると、郁海は呆れた様子を隠さずにやれやれと言わんばかりに教えてくれた。

「ココアは粉だろ? ホットチョコレートはチョコレートを牛乳で溶かしたやつ。まあかなり大雑把な分け方だし、厳密には同じなんて説もあるんだけど」

「……結局、なんかよくわからないじゃないですか」

 それでも、郁海が自分のためにいろいろ考えてくれていたというのだけは伝わった。

 もうひとつ。

 付き合ってから二回目になるバレンタインで、なぜいきなりチョコレートなのかと不思議だったのだ。郁海はこのイベントには興味がないものだと思い込んでいた。

 二人だけの記念日、例えば祥真の誕生日などは、それこそお手製のフルコース料理で全力で祝ってくれる。

 イベントと言っていいのかは不明だが、クリスマスも同様だった。

 そして、今にして初めて悟る。

 思い返せば去年も、寒さ極まるこの時期に食後に『ココア』を出されたことがあった。

 祥真はコーヒーが苦手なので、普段は紅茶、それもミルクティーがお決まりだ。それがなぜいきなりココア? と疑問を覚えた記憶だけはある。

 当時郁海は、最後の公演で脚本と演出を担当し忙しくしていたため、おそらく二月十四日その日ではなかった。

 そのためすぐには結びつかなかったのだろうが、あれこそ『バレンタインのホットチョコレート』だったのではないか?

 ──なんで今更気づくんだよ! でも気づかないままよりマシなのか?

「ココアなんて珍しーっすね」

 そんな能天気な台詞を吐いた気がする。

 それでも郁海は不満気な様子などまったく見せすにただ静かに笑っていた、ような。そんなことさえ曖昧だ。

 チョコレートが欲しかったわけではない。そういう問題ではなかった。

 単に、二人で楽しめる機会が一回減るのが少し残念だっただけ。相手が興味がないのなら、自分が贈るのも止めたほうがいいか、と遠慮してしまっていた。

 実際には、鈍くて何も見えていなかったのは祥真の方だった。

 ただ、今蒸し返さない方がいいくらいはわかる。

 己の気持ちをそのまま告げたとしても、きっとこの恋人はすんなりと認めてはくれないだろうから。

 お前のためじゃない、俺がその時飲みたかったんだ、などと言い返してくるのは目に見えている。

 せっかくの彼の想いを受け止められなかった自分が、これ以上余計なことはすべきではない。

 だから祥真は、すべて胸の内に収めて微笑むだけにした。

 せっかく仕込んだネタも滑り、口まで滑って不要なことまで言ってしまったとでも思っているのか。

「お子様はコーヒー飲めないもんな」

 そう照れ隠しのように郁海には揶揄されたが、全然気にならない。

 コーヒーが苦手なのは事実だ。好みの問題だから祥真はそれが悪いとは思っていないし、郁海にしてもわかってくれているからこそ出て来た案がホットチョコレートなのだろう。

 おそらくは渾身のネタで外してしまい、リベンジを誓っていそうな彼。郁海なら、来年は腕を振るってチョコレートケーキでも作りそうだ。

 こんな風に考えていることが郁海に知られたら、「作らねえよ!」と怒られるだろうか。

 逆に嬉々として、嫌がらせ半分ですごく豪華なケーキを作ってくれるかもしれない。

 存外に可愛い恋人の、そんな『もしも』の場合をあれこれ考えてみながらも、祥真はここからどうやって郁海をその気にさせられるかの方策を巡らせていた。


 ~『ショコラ』:END~

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