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第六章『教えて。』

 郁海いくみが大学を卒業して三ヶ月。

 互いに学生だった頃はサークルで、……付き合い出してからは彼の部屋ででも、祥真しょうまはその気になれば毎日郁海と時間を共有することができていた。

 しかし当然ながら、社会人になった彼と顔を合わせる機会は減ってしまった。

 それでも新生活のリズムもどうにか掴めて来たのか、週に一、二度は必ず部屋に呼んでくれる恋人にも少しは余裕が感じられるようになって来ている。

「郁海さん、今度カラオケ行きませんか?」

 祥真の何気ない誘いに、彼は何とも微妙な表情で一瞬言葉に詰まったように見えた。

 もしかして歌うのが嫌いだったりするのだろうか。

 二人が所属していた演劇サークルが、ミュージカルを上演したことはない。そもそも脚本メンバーにミュージカルを書く人間がいないのだ。

 祥真は結構歌うのは好きで、学部の友人とよくカラオケボックスに行っていた。

 ただ、郁海との間に歌の話題が出たことはなかった気がする。

 サークルは外での飲み会さえほとんどない状態なので、全体でカラオケに行ったことは一度もなかった。

 二次会として歌いに行くグループがあるのは知っていたが、祥真は加わったことがない。

 郁海が卒業するまでの一年間で、祥真がサークルの飲み会に参加したこと自体二度だけだ。

 一度目は、酔いつぶれて先輩のみやびに大変な迷惑を掛けてしまった、黒歴史としか表現できないあの日。

 二度目は、直前に郁海に『告白』した日だ。参加希望を出していたため、いきなりキャンセルもできずに二人してとりあえず顔だけは出したのだった。

 祥真は「これから」のことで頭がいっぱいで、誰と何を話したのかもまったく覚えていないのだが。

 発声練習は演劇の基本中の基本であるし、舞台に立つことはまずない郁海も欠かさずやっていた。

 彼は恋人の贔屓目ではなく声がいい。雅も認めるところなので、これは客観的な評価だと思っている。

 美しいだけではなく可愛らしくもある容貌から想起するよりは、少し低めの伸びやかな通る声。

 ただ、そういえば郁海の歌を聞いたことはなかったと思い当たる。

 二人で楽しみたかっただけなのだが、もし彼が歌にコンプレックスを持っていたりしたらそれどころではないろう。

 ……いや、もしそうだとしたら失言では済まないのではないか?

「あ、あの! 昨日クラスの友達とみんなでカラオケ行って、なんかキャンペーンだとかで割引券たくさんもらったんです。でも郁海さんが嫌なら他の奴と行くんで、だから」

 祥真があたふたと両手を上下させながら言い訳するのに、郁海は少し躊躇ったあと思い切ったように口を開く。

「別に嫌じゃないっていうか好きなんだけど、俺カラオケはひとりで行くって決めてるんだよなぁ。──まー、でもお前とならいいか」

「……じゃ、じゃあ、行きましょう、か?」

「うん」

 事情はまったく理解できないままに祥真が尋ねるのに、彼はあっさり頷いた。

    ◇  ◇  ◇

 数日後。

 大学からも近い、祥真の友人関係での行きつけのカラオケ店に二人はやって来た。

 受付を済ませ部屋に通されてすぐ、手慣れた様子で端末を操作して手早く曲を入れながら郁海が声を掛けて来る。

「とりあえず、俺が先に一曲歌っていい? その方が説明楽だから」

「あ、もちろんです。どうぞ」

 彼の問いに答えると同時に壁のディスプレイに曲のタイトルが映し出され、やたらと明るいイントロが流れ出した。

 特に興味がない祥真でもすぐにピンと来る、人気の大人数少女アイドルグループのヒット曲だ。

 バックも本人たちのMVを使用しているらしく、可愛らしい衣装の女の子たちが勢揃いしたカラフルでポップな映像を眺めて、祥真は内心あれこれ考えを巡らせる。

 これを郁海が歌うのか? あまりにもイメージが違いすぎて、驚きのあまり声も出ない。

 もしかして他人とカラオケに行きたくないというのも、このグループが好きでそのことを揶揄されたくない、あるいは彼女達の曲ばかり歌いたいからといった理由なのか。

 祥真も、好きなアイドルやアーティストの曲縛りのカラオケがあるのは聞いたことがあった。もしそうなら、意外などというものではない。

 無言のままの祥真が抱いた疑問に気づいたのかもしれない。

 郁海は「この曲とかグループが特別好きなわけじゃないよ」とだけ口にしてマイクを手に取った。

 ──なんていうか、上手い、んだけど。それ以上に、ただ凄い、ホント凄い声。

 郁海の歌声のインパクトに、祥真は言葉を失った。

「今の曲は、サンプルとしてわかりやすいから選んだだけ。普段は歌わないかな」

 歌い終わった彼はマイクを置いて、涼しい顔で祥真に向かって話し出す。

「俺、地声はどっちかというと低い方じゃん? でも歌うのは、なんでか高音の方が出しやすいんだよ」

「ホントに高音よく出てましたよね。普通男は原曲キーのままではあの曲歌えないと思うんですけど。歌うとしても裏声になるのに、郁海さんはそのままの声で凄い高い──」

 早口で捲し立てた祥真に、郁海は笑みを浮かべて説明してくれる。

「いや、俺も高い部分は裏声なんだよ、一応。いかにもな裏返った声じゃないし、声楽本格的に習ったことなんかはないから技術的にどうこうは俺自身も全然わかんないんだけど。発声が普通と違うみたいなことはサークルでも言われたりしたな」

「そうなんですか? 俺はどう違うのかもよくわかりませんでした」

 ただ感心している祥真に、彼は突然なんの関係もない、ようなことを言い出した。

「なぁ、俺ってさ。背もあんまり高くないし見た目細いけど、だからって絶対女には見えないじゃん?」 

「あ、それはそうですね。郁海さんはすっごく綺麗ですけど、女の人には全然見えないです」

 恋人の発言の真意はわからないなりに、祥真は正直に答える。

「でも、今聴いてわかっただろうけど声がさ。しかも地声が高かったら歌声が高くてもそういうもんか、って納得するだろうけど、そうじゃないし」

 肩を竦めながら、郁海が言葉を継いだ。

「俺は歌いやすいから、選ぶのは女性ボーカルとか高音の男性ボーカルの曲が多いんだよ。高校のときは結構クラスメイトとかとカラオケ行く機会もあったんだけど、その場の雰囲気から浮くっつーか。『その声、どっから出してんだよ!』とか『目瞑って聴いたら女子』とか、話が逸れて行くんだよな」

 郁海が溜め息を吐いてさらに続ける。

「俺は別に『女みたいな声』って言われるのが嫌なんじゃないし、そいつらだってバカにするつもりじゃなくて単純にびっくりしてるだけなのもわかってたけど、そうなるともうみんなで楽しんで歌うって感じじゃなくなっちゃうんだよ。『いや、次誰か歌えよ!』って言ってもそれどころじゃない、ってのもヘンなんだけど」

 珍しく愚痴を零す彼に、祥真はどう反応していいかわからなかった。

「で、次の日学校行ったら他のクラスの子が『副島そえじまくんて誰? 歌スゴいんだって?』とかわざわざ面白半分に覗きに来たり。しかも最初の一回だけならまだしも、毎回騒がれるともうすげー面倒なんだよ。歌唱力がどうこうじゃなくて、所詮声だけのことだしさ」

 ……今口に出せる空気ではないものの、祥真には彼ら、彼女らの気持ちもわかる気がする。「どこからその声?」というのはやはり感じてしまうからだ。

 それでも、何度もしつこく繰り返されるのが嫌なのももちろん理解できた。

 ああ、そうか。

「だから、ひとりカラオケなんですね」

 ようやく全部繋がった、と心の中で納得しながら訊いた祥真に、恋人は頷く。

「そういうこと。歌うの自体は結構好きなんだよね、俺。今はヒトカラって珍しくもないし、他人を気にせずに好きなように歌えるのが気持ちいいんだよ」

「郁海さんて、他の人とカラオケって全然行かないんですか? 大学のときとか、今の職場でも」

 彼の言葉に、祥真はふと思いついて問い掛けてみた。

「いや、その場の雰囲気で誘われたら普通に行くよ。確かにお前がいるときにはそういう機会なかったけど」

「まあ、俺とは一緒に飲み会自体ほとんど行ってませんしね」

 軽い口調からも、本当に抵抗はなさそうだ。郁海は本気で嫌ならはっきり拒絶しそうではあるが。

「行った時は自分は歌わないで喋ったり人の歌聴いて盛り上がったり、って感じか。大学やサークルでは、断ってるのに歌え! って無理強いするような奴いなかったし、行ったとしても普通に楽しめるからな。職場はあんまりそういう、時間外の付き合い自体がない」

 彼の言葉に、祥真は飲み会に行ったときの雰囲気や普段のサークルメンバーの様子を思い浮かべて同意を返す。

「それはわかります。演劇サークルうちの部員はそのぉ、『歌え!』どころか『次俺だ!』みたいな……」

「確かに。みんな自己主張激しいから、どっちかって言うとマイクの奪い合いか。自分に自信あるやつ多いし。『さあ、俺の美声を聴け!』くらい酒入ったら思ってそうじゃないか?」

「……まあ、誰とは言い、言えませんけど」

 一人ならず思い当たる節に、祥真は先輩の名を出すわけにもいかず口籠った。

 それを見て郁海が笑いを嚙み殺している。

「よし! もう問題ないから歌おう! 時間もったいない」

「わかりました。じゃあ適当に曲入れましょうよ」

 そこからは二人、それぞれまったくテイストの違う曲を歌っては、互いに相手の趣味について訊いたり教えたりしながら、制限時間いっぱい楽しんだ。

「俺、誰かとカラオケ来て歌って、こんなノーストレスだったのホントに初めてかも。来てよかった、すげぇ楽しかったよ。誘ってくれてありがとな。お前さえよければ、また二人で歌いに来よう」

「俺も来たいです。楽しかったですね」

 帰り支度をしながらいつになく上機嫌で喋っている郁海に、祥真も嬉しくなり笑顔で答える。

「祥真が最後に歌った曲のバンドの、三年くらい前だったかな? かなり流行った曲あるじゃん? 切ないラブソングて感じの。なんかのタイアップだっけ?」

 荷物を手に取りながら、ついでのように郁海が問うて来た。

「あ、はい。タイムリープのドラマの主題歌ですよね? 主演が元アイドルの。俺、あのドラマも歌もすごい好きでした」

「そういやそうだったな。俺はドラマは観てないけど、あの歌好きだったんだよなぁ」

 答えた祥真に、彼は懐かしそうに笑う。

「バラードでちょっと難しいから自分では歌わないんです。そうだ、郁海さん。次歌ってくださいよ」

「うーん、俺あの曲は低音出ない気がする」

「そうですか? 郁海さん、音域かなり広いですよね」

 取り止めない会話を交わしながら、祥真は考えていた。

 悩みという程ではない、小さな引っ掛かりのようなことも、郁海に「祥真こいつになら話してみてもいいか」と思わせるくらいになれたら。

 ……もちろん、悩みを相談してもらえるようになれば言うことはないのだが。

 年上の恋人に少しでも頼られる、──彼を支えることもできる存在でありたい。


 ~『教えて。』:END~

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