こういった「○○の日」というのは、本当に様々なものがあるのだな、と
いや、そんなことはどうでもいいのだ。
手にしたスマートフォンには、メッセージアプリの演劇サークルのグループルームに投稿されたコメントと添えられた画像。
『ゆうべ俺の部屋にチョー美形がお出でになりました☆』
『見て、この美味そうなカレーとチキンサラダとラッシー! 昨日カレーの日だって知ってました?』
『作ってくれたのはこの方で〜す』
投稿主は二年生の
そして画像の中の『美形』は、祥真の恋人の
付き合いだして、あと十日ほどで二か月が経つ。
拓弥は祥真の一年先輩で、郁海にとっては脚本・演出志望の後輩に当たる。彼自身も長身でなかなかの男前だ。
──これなんなんですか。当てつけですか。
恋人が拓弥の部屋に行くのはいい。正直複雑ではあるけれど、そこはもう納得していた。
そもそも郁海自ら上げたわけでもなし、「当てつけ」など言い掛かりに過ぎないのもよくわかっている。
サークルでは、郁海は面倒見の良い先輩で通っていた。
本心を見せない、常に「外向きの
基本的には優しい笑顔を貼り付けている恋人は、実際にはただ甘いだけではない。嫌われることも厭わず厳しい言葉も発する。そのために作った表情や口調で。
真に周りのことを考えてのことだと皆わかっているので、実際には信頼され慕われているのだが。
その彼が、同じ脚本と演出を志す後輩に親身に対応するのは当然だ。
サークルでメインの脚本・演出を担うリュウが、そういう面ではまるで役に立たないから余計に。
料理が趣味で、作ったものを人に振る舞うのが好きなのも知っていた。……誰にでも、でないのもまた、知っている。
──それにしても安西さんさぁ、寛ぎ過ぎじゃないですか?
画像の煽り気味アングルは、絶対普通に立ったり座ったりの体勢で撮ったものではない。彼は郁海より十センチは背が高いのだ。
もちろんスマートフォンだけ下の位置に構えて、という可能性はあるが、写り具合の綺麗さからして適当にシャッターを押したとも思えない。
床に寝そべってでも、……あるいはベッド?
いくら自分の部屋だとしても、おそらくは指導の延長で訪ねて来たのだろう先輩の前で取る態度なのか。
これは常識の問題であって私情は関係ない。そう、まったくない!
祥真と似たりよったりのワンルームアパート住まいの拓弥は、自炊などほとんどしないと話していた。
何度かサークルの数人と訪れた部屋は、直貼りカーペットの四畳半。
場所確保のためか折り畳み式のベッドと、オールマイティな用途を持つ四角い炬燵、部屋の隅にはいくつか重ねた衣装ケースが置かれていた。
一口コンロで、同じように狭くとも郁海の部屋のように片付いてはいないキッチン。単身者用の冷蔵庫と炊飯器、電子レンジだけはあったように思う。
いくら料理上手の郁海でも、あの部屋で作れるものは相当に限られるだろう。
おそらく食材も一から買う必要がある。調理器具も揃っているとは考えられない。
鍋ひとつで、ルーに肉と玉ねぎ、にんじんとじゃがいもがあれば作れるカレーはいい落としどころではないか。
余分な調味料がなくとも困らない点でも。
作業も皮を剝いて切るだけで、とりあえず包丁とまな板があれば足りる。
サラダのチキンは、祥真にもよく作ってくれるレンジ蒸し鶏のようだ。こちらも道具は要らないらしい。
残ったら拓弥が食べればいいし、カレーは傷みやすいというが火を入れておけばこの季節ならすぐにどうこうもなさそうな気がした。
二日続けても飽きるようなものではない。
郁海のことだから、そこまで考えて選んだメニューだと推測できた。
恋人の部屋へ行くようになってしばらくした頃、
おそらくこれまでも、こうして『三人』で過ごしていたのだろう、とは感じていた。
雅は郁海にとっては親友とも表せる存在だと祥真は思っている。
だからそうであってもなんの不思議もないし、特に気分を害することもなかった。
過去に嫉妬なんてくだらない。
本音では気にならないわけもないが、祥真の恋人は欲目ではなく魅力的だ。
そういう相手がいなかった筈もないと重々承知していた。
「まさかあたしが郁海の『男』に会う日が来るなんてね〜。人生、先のことはわかんないもんだね」
しかし、翌日雅に知らされたのは意外としかいいようのない事実だったのだ。
「まあ、それがよく知ってる後輩ってのが一番のびっくりだけど」
「あ、──あ、そう、なんですか?」
咄嗟になんと返していいかもわからない祥真に、彼女はあっけらかんと笑った。
「女子中高生じゃあるまいし、いちいち友達の恋愛事情なんか詮索しないよ。『好きな人いる? 彼氏できたら紹介してね!』とか、あたしと郁海が喋ってんの想像できる? てかあたし、リアル中高時代もそんな話したことないけどさ」
「それは、……ないですね」
あまり根掘り葉掘り訊くのは良くない、と考えつつも、当たり障りのない範囲で雅にいろいろと教えてもらった。
彼女の方が祥真の不安を感じ取って、普通なら口にはしないことも話してくれたのだろうこともわかっている。
その限りでは、郁海は『彼氏』がいる期間は誰も、……雅でさえも部屋には呼ばないらしい。
雅なら構わないし気にもならない。少なくとも祥真はそう思っていた。
しかし他の、特に男は別だ。そこに恋愛感情が一切なくとも。
彼の住処に自分以外の男が入り込む。そしてその誰かは、郁海の部屋の惨状を知って掃除したがるかもしれない。
あの部屋を祥真ではない男が片付ける。
パーソナルスペースに入り込んで、恋人の持ち物に触れて。
……なんだか妄想が危ない方向に行きそうになるのをどうにか止めた。
実際に急を要する何かがあったとしても、彼一人のために料理までしてさえも。
郁海は拓弥をあの部屋には呼びはしなかった。
雅の話から推測すれば、今は祥真が、……『彼氏』がいるから。
メンバーが限定されるグループルームなのだから、公開したら祥真が見るのは明白だ。
拓弥は軽そうに見えてあれで結構思慮深いタイプなので、投稿前に必ず郁海に許可を取っている筈だった。
そのため、郁海に疚しい気持ちがないのは疑いもない。
もし祥真が問えば、あっさり説明してくれることも想像に難くなかった。
彼が
「こういうのを、所謂『ツンデレ』っていうのかな……」
正直、そんな風に頭を過ったこともある。
本人には決して言えないけれど。
ただ、郁海は真に底意地の悪い人間ではなかった。
思考が飛躍しているのは承知の上で、もし彼が祥真と別れたいのなら。他の男に乗り換えるつもりならば。
他人を通した姑息な「匂わせ」のような真似はしないで、必ず正面切って告げてくれる。
そう信じられる程度には恋人としての郁海を知ったつもりだった。
さきほどから握り締めたままのスマートフォンの画面がふっと暗くなる。
いったい何分硬直していたというのか。
拓弥の投稿がそれだけショックだったのだ、と改めて感じた。
──こんなの全然俺らしくない。
思い直して、郁海とのトークルームを開く。
何度もメッセージを書いては消し、……「えーい、うだうだ何やってんだ!」と結局はストレートで行くことに決めた。
『会えますか?』
それだけを入力する。
エンターキーをタップして送信すると、祥真は端末をベッドに放り投げた。
何か飲んで落ち着くか、とキッチンへ向かう途中で聴こえた通知音。
自分でも滑稽だと呆れるほどの勢いで、あたふたとベッドに駆け寄りスマートフォンを確認する。
ディスプレイには彼からの返信通知。
『来る?』
やはり端的に、ひとことのみのメッセージ。
──行きますとも!
焦ってなかなか文字が打てない。
ようやく『今から行きます』とだけ送ると、すぐに既読が付いた。
そして『待ってる』とまた簡潔な返信が来る。
早く、早く。でも落ち着いて。
己に言い聞かせながら、真冬の夕暮れの冷たい風に吹かれ自転車のペダルを必死で漕ぐ。
多少気を抜いたとしても数分も変わらない。それくらい理解しているのに勢いは止まらなかった。
恋人の部屋へは、大学から直接、あるいは出先から二人でといったケースは大抵電車利用だ。郁海は大学の二つ先の駅近くで暮らしていた。
小さな駅のため大学のすぐ傍よりも家賃相場が安いらしく、実際に少し広めの1Kだ。
祥真のアパートは、大学の最寄り駅からは学校を通り越したさらに奥になる。むしろ反対側の別路線の駅の方が近かった。
普段の通学も自転車を利用している。
そのため、祥真の部屋から向かう場合も自転車を使うことが多かった。通い慣れた道を一直線に飛ばして彼の住む小規模マンションに辿り着く。
オートロックなどという気の利いた代物はないので、エントランスのドアを開けて階段を駆け上がった。
切れた息を整えながら、寒さのせいではなく何故か震える指先でインターホンのボタンを押す。
「おう、ちょっと待て」
スピーカーで応えてすぐに、郁海が玄関のドアを開けて迎えてくれた。
「なんだよ、いきなり」
澄ました顔で口にする、愛しい人。
二人の間に駆け引きなどは必要ない。祥真が向かい合った相手より年下なのは動かしようのない事実だ。
そして、ただでさえ郁海はあらゆる意味で百戦錬磨な気がする……。
「カレー、俺も食べたかったです! あのサラダもすっげぇ美味そうだった!」
自分でも「第一声がそれかよ」と思わなくもなかった。
けれど目の前の恋人が、一瞬きょとんとして綺麗に笑ってくれたからきっとこれでいいのだ。
「そんなもんいつでも作ってやるよ。今日はもう夕飯食ったのか?」
彼がさらりと告げて来た。
何事もなかったかのように。
いや本当に、祥真と郁海の間には「何も」なかった。
ただ祥真がひとり醜態を繰り広げていただけだ、と自問自答の末に納得する。
「まだですけど。……ごはんよりあなたがいい!」
玄関を上がって、奥に向かうため背を向けた彼に後ろから抱き着いて甘えるように
腰に回された祥真の腕を右手で軽く叩いた郁海が笑う気配が伝わった。密着した身体越しに。
一筋縄ではいかない恋人は、黙ってすぐ傍のバスルームを指差した。見えないけれど、きっと口元には笑みを湛えている、筈。
初めて泊めてもらったのはクリスマスイヴだった。あれから一か月、もう何度もこの部屋で朝を迎えている。
郁海のシングルベッドで。……時には毛布だけ渡されて床で。男二人でシングルはやはり無理があるから仕方がない。
食べるのか、食べられるのか。
どちらにしてもこれからの二人に待っているのは、真冬の冷気も吹き飛ばすような甘く熱い時間だ。
◇ ◇ ◇
「うー、お腹空いた」
愛し合ったあとの気怠い空気の中、祥真はついつい正直な気持ちを漏らしてしまった。
「……あのさ、甘いピロートークとか何かあるだろ。そういうの期待すんのは、お前にはまだ早いのかねぇ」
わざとらしく溜息を吐きつつも、脱ぎ捨てた服を拾って身に着けた恋人がキッチンへ姿を消した。
──ごめんね、郁海さん。
そして怠いはずの身体で、きちんと祥真のために料理してくれた彼。おそらく自分は夕食も済ませていた筈なのに。
郁海が持つトレイには、ふわとろ卵のオムライスがひとつ。
狭いシングルベッドの上で向かい合って座り、間に置いたトレイの上の同じ皿にスプーンを運ぶ。
「なんか子どもみたいですね」
行儀悪いよね、と呟く祥真に強かな年上の恋人は意味ありげに小さく笑った。
「大人だからだろ? ……零すなよ」
確かにその通りだ。
まさしく大人の行為のあとの、ベッドでの食事なのだから。
二つの『食欲』を満たして、残るは睡眠欲。だからあとは、二人でゆっくり眠るだけ。
~『食べたい。』:END~