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第三章『はじめての。』

悪足掻きの末に、サークルの後輩である祥真しょうまと恋人同士になった。

 男同士、ただ二人で出掛けるだけのデートならいざ知らず、それ以上のことを望むなら、外では無理だ。

 ……少なくとも、郁海いくみの感覚では絶対に!

  郁海は特に自分が常識人だなどとは思っていないが、人前で平気でベタベタするのはあり得ないと考えている。

 無意味な仮定かもしれないが、これはたとえ郁海が異性愛者だったとしても変わらない筈だ。

 付き合いだしてようやく一週間。彼とはまだ何もしていない。

 何も、……手を繋ぐことさえも。

 それも含め、そろそろ部屋に呼んでもいい頃だろう。

「あのさ、今度ウチ来る?」

 これでは切り出し方が軽過ぎるだろうか。しかし、あまり飾っても仕方がない気もする。

 郁海は頭の中で恋人を誘うシミュレーションを繰り返した。

 実は郁海は掃除が非常に苦手だった。

 掃除に限らず、片付け全般。料理好きのため、狭い1Kのキッチンはいつも綺麗に磨き上げられているのだが。キッチン『だけ』は

 一口コンロしかない上シンクも狭く、使い勝手が悪くて不満しかない。だからこそ、少しでも作業しやすいよう考えているのだ。

 ガスコンロは増やしようがないため、卓上クッキングヒーターを買い足した。カセットコンロのIH版のようなものだ。火力は弱いが無いよりはよほどいい。

 大学の寮には共同の広い炊事場があり、自炊するならそちらの方がよかったのは知っていた。

 部屋は狭くとも個室だし、家具もついている。当然洗濯場もあり、自由に使える洗濯機も複数台用意されていた。

 サークル内で最も親しい同期のみやびに聞いたところでは、入寮に当たって持ち込んだ家電は炊飯器のみだという。彼女は女子寮だが、設備としては男子寮もほとんど変わらない。

 その代わりというよりむしろ当然だが、洗面所に風呂やトイレも共同だ。それらを嫌がる層もいるだろうが、郁海は何か一つ選ぶとすれば迷わずキッチンだった。

 実際に入寮希望も出したのだが、競争率が高く叶わなかったのだ。

 やはり遠方からの入学者が優先されるらしい。

 部屋部分は足の踏み場もない状態でこそないが、それは単に物が少ないからに過ぎなかった。

 片付けられない自分をわかっているため、可能な限り物を増やさないよう努力しているのだ。

 あまり他人を部屋に呼ぶ方ではないが、言うまでもなく恋人は別だ。

 過去には、玄関から上がることもなく三和土で回れ右して帰ってしまった男も一人だけいた。

 当時は衝撃のあまり、へたり込んでしばらく立ち上がれなかった。

 しかし結果的には、その程度の男と深い関係になる前に別れられてよかったと心から思っている。

 郁海は、容姿を称賛されることに慣れ切っていた。

 だからこそ、あまりにも雑然とした部屋とのギャップが大きいのだということも今は理解している。

 外見の美醜と部屋にどういう相関関係があるのか、郁海はいまだに理解できないが、『イメージ』の大切さはよくわかっていた。

 相手の方こそ、綺麗な顔と汚い部屋に騙されたと感じたかもしれない、とも。

 ……そこまで理解も反省もしていてさえ、しないしできない、のだ。

 祥真はあの部屋にどういった感情を示すだろうか。

 まさかあからさまに嫌悪は出さないだろうが、実質以上に郁海を神格化しているらしい彼の反応が何よりも怖かった。

 しかし、先送りすればするほど事態の深刻さは増すに違いない。

 今なら「ショック」で済む。

 万が一祥真があの部屋を見て郁海を拒否したとしても、卒業までできる限り接触せずに過ごすことは不可能ではなかった。

 何もしていないからこそ、傷も最小限で収められる。

 我ながら後ろ向きだとは思うが、過去の経験がただ楽観的な気分に浸らせてはくれなかった。

 ──だから、今しかない。

「はら、しょ、祥真。俺さぁ、料理結構好きで得意なんだよな。一人分だけ作って自分で食うよりも、誰かに食べてもらった方が張り合いもあるしさ。いろいろ作るから食いに来ねぇか?」

 ちょっとわざとらしかったかな? と気にしながらも郁海が誘うのに、祥真は即飛びついて来た。

「行きます! いつですか? 俺いつでも、今日でもいいですよ!」

「今日、……今日は、ちょっと。何も用意してないし、今から作るってなると遅くなるだろ? 悪いけど」

「あ! あ、そうですよね、すみません。つい、夢中で、俺」

 日を指定して誘うべきだったか、と気まずそうな祥真の表情にかえって申し訳なくなる。

 付き合い始めた恋人に「部屋に来ないか?」と問われたら、今日でもいい、むしろすぐに行く方がいいと思うのが当然だろう。

 余計な気遣いをさせてしまった。

「いや、いいよ。それだけ楽しみにしてもらえるんなら、俺も腕の振るい甲斐あるし」

 料理好きで振る舞い好きなのは口実ではなく事実だ。

 今までの恋人はもちろん、フリーの身のときはよく雅を呼んでいた。

 性別関係なく親しく付き合っている友人。

 彼女なら二人きりで部屋に呼んでも、互いはもちろん周りも何も気にしないのが楽でいいからだった。

「じゃあ、いつがいいですか? 俺はホントにいつでもいいんで、郁海さんの都合に合わせますから」

「そう、だな。週末、土曜日とかは?」

「わかりました! OKです」

 本当に準備期間さえあればいつでもいいのだが、今度はきちんと指定して訊いてみる。

 四年生の郁海は、サークルは除いて大学も卒論を含め週に二回も行けばいいだけだったが、一年生の祥真はそうはいかない。

 それなりに講義も詰まっていると簡単に推測できる。

 十二月公演の練習がすでに始まっていたが、郁海も祥真も演者でも演出担当でもないので土曜日は空いていた。

「好き嫌いある? どうしても食べられないものあったら言っといてくれよ」

「ありません。なんでも食べます」

「そっか。なら、メニューは任せてもらっていい、か?」

「もちろんです!」

 彼の返事に頷きながら、郁海は部屋のことはいったん意識から締め出して当日のメニューを頭の中で検索し始めていた。

「あ、ねぇ。郁海さん、コレいいですよね!」

 約束の土曜の午後。

 郁海の一人暮らしの部屋の最寄り駅で待ち合わせて部屋に向かおうとしたところで、祥真が突然声を上げた。

「え? 何?」

「コレです! このカップ、いいと思いませんか?」

 雑貨屋の店先に並べられた、色とりどりのマグカップ。厚みのある耐熱ガラス製で、どちらかといえばクラシカルな印象だ。

「あー、そうだな。いい感じだけど」

「お揃いで買いませんか? てか、俺に買わせてください。郁海さんちに置いてもらえますよね?」

 初めて部屋に呼んでもらった記念に、と祥真が言うのに、郁海も異論などなかった。

「いいよ。……どれがいいかな?」

「自分の好きな色にするか、それともお互い相手に合いそうなの選ぶか、どっちがいいですかね?」

「そりゃ、やっぱりお互い選ぶ方がいいだろ。二人の記念品、だしな」

 郁海が返すのに、祥真も嬉しそうに笑って、真剣な顔でカップと郁海を見比べて考え出す。

 商品なので必要以上に触らないようカップの棚と相手の顔を交互に眺めながら、店先でふたり散々迷う。

 なんとなくピンクやイエロー、あるいは青系でも澄んだ明るい色が合うと言われそうだと感じていたが、祥真が手に取ったのは深いブルーとグリーンだった。

「お前の俺のイメージってこういうの?」

「うーん。ひとことでは言えないんすけど、俺にとっての郁海さんは『向こうの見えない青』って感じです。……あ、もしかしてお好きじゃないですか? こういう暗い色じゃない方が──」

 想定外過ぎる言葉に絶句した郁海に、彼が不安そうに訊いて来る。

「いや別に。ちょっと意外だっただけ。そもそも『相手の好きな色当てるチャレンジ』じゃねえから問題ない。それに俺、青好きだよ」

「じゃあ郁海さんは青い方にしましょう。このちょっと複雑な色、綺麗でピッタリです!」

 ぱっと顔を輝かせた彼に黙って頷き、郁海は棚に手を伸ばす。 

「お前はこれな。異論は認めねぇ」

 夏の太陽のような鮮やかなオレンジ色のカップを手に言い放つ郁海に、彼は一驚いたように目を見開き、破顔した。

 ようやく決めた色違いのカップ。

 絶対に自分が払う! と言い張る祥真に根負けして、郁海はレジに向かった彼を店先で待っていた。

 この自分が、恋人と『ペア』だなんて。

 苦笑しながらも郁海は、祥真とならこれからいくつも「初めて」が増えそうな気がしていた。

 きっと、祥真なら大丈夫だ。

 年下の後輩でもあり見て見ぬ振りはするかもしれないが、おそらくあの部屋の状態を恋愛とは別として考えてくれる。

 もしかしたら「これ、ちょっとあんまりでは……」と苦言を呈される可能性はあるとしても。

 祥真とふたり並んで話しながら部屋を目指すうち、それは郁海の中で単なる希望的観測ではなく確信に変わっていた。



    ◇  ◇  ◇

「雅。週末くらいに飯食いに来ないか?」

 郁海の誘いに、長身のため目線の変わらない友人は片眉を上げた。

「は? 相手いるときに珍しいじゃん。原田と付き合い始めたんでしょ? ……それとも何、もう倦怠期であたしを刺激に使いたいとかか? いくらなんでも早すぎない?」

「もういい。あいつのリクエストでいろいろ作るから、どうしても量増えるし呼んでやろうと思ったのに。これからはもうお前は呼ばねぇ」

「ゴメンゴメン! 冗談ですって! 郁海の料理だーい好き! ぜひとも馳せ参じますよ~」

 雅は郁海とは違い、基本演じる側役者だ。

 幼い頃から劇団に所属して『芸能界』を視野に入れて来ただろう彼女は、大学卒業を機に「演劇は完全に趣味にする」という。

「どっか仕事のあととか休みの日にだけでもOKな、まあ緩い感じの劇団入ろうかなって。芝居はやっぱ好きなの。『職業』にする気はもうないけど。……だからあんまりバチバチ本気なとこは、こんな片手間のやつがいたら邪魔じゃん?」

 郁海もそうだが一般学生と同様に就職活動をし、内定も得て事実上行く先は決まったと聞いている。

「雅は地元帰んねえの?」

「あたし北海道だよ? いや、なんだかんだ故郷イナカは好きだけど帰る気は全然ないな。……郁海だって東京ココ残るんでしょ? あんたは実家結構近いのに」

 いつだったか、互いに就活用のスーツで顔を合わせた日。郁海の問いに、雅は間を置かず否を返した。

「もちろん知ってるけど札幌だろ? 意外と都会らしいじゃん? 少なくとも俺の方がずっと田舎だよ」

「仕事の面もあるけど、雪国って知らん人が思う以上に大変なんだよね〜」

「……あー、それは確かに俺にはわからんわ」

 郁海は一応首都圏出身ではあるが、実家と確執などはないものの都会暮らしの楽さに慣れたらもう戻れない。

 あの街で郁海の性指向を知られたら、家族にまで迷惑を掛けてしまいそうだ。

 互いに東京で働くことにはなっても、学生時代のように顔を合わせることはなくなるだろう。

 言葉にする気は欠片もないが、彼女への礼と詫びを兼ねた招待でもある。

 口実を作らなければ誘えない自分に、我ながら面倒だと認めざるを得なかった。

 もともと料理が趣味の郁海は、レパートリーも決して少なくはない。

 レシピさえ見れば、プロレベルの特別な技術を必要とするもの以外は大抵作れる。だからこそ、食べる祥真の好みに合わせたものを作りたかった。

 自分が見た目に寄らず『尽くし型』と言われるタイプなのは、不本意ながらも自覚している。

 個人的には「世話好きCaring」くらいの表現で留めておいてほしいが、実質何も変わらないのもまた理解していた。

 サークルではリュウに振り回されているようにしか見えなかったらしく、「オカン体質はほっとけないんだよなぁ」などと先輩や同期にはよく揶揄われたものだった。

 放っておけないのを否定まではしないが、片付けができない時点で「オカン」は絶対に違う。そう評されるのが嫌なわけではなく。

 初めて祥真を部屋に呼び、手料理を振る舞って以来、二人きりの食事会は何度も開かれていた。

 初日に玄関ドアを入った彼は、すぐに見渡せる部屋の惨状に一瞬黙り込む。そしてすぐ、遠慮がちに言葉を発した。

「郁海さん。俺、この部屋片づけていいっすか? 料理中や食事中は埃立つんで食べたあと。御馳走のお礼に是非、掃除させてください!」

「え? いや、そんなつもりで呼んだわけじゃ……」

 雅の場合、食事の礼代わりに部屋をざっと片づけて帰るのは恒例だった。

 それこそお互いさまでちょうどよかったのだ。

「そのつもりで呼ばれた方がよかったです! なんですか、よくこの部屋で寝られますね! 箪笥ないのはわかるし全然いいですけど、服はせめてハンガーに掛けるくらいしましょうよ。洗濯したんですよね? なんで床に放り出してんすか!」

 しかし恋人にそんなことはさせられない、と焦る郁海に、彼はいつになく威勢よく捲し立てる。

「だって皴になって困るような、いい服なんかないし。ハンガーは次の洗濯のとき使うから……」

「そういう問題じゃありません! ハンガーくらい買えばいいじゃないですか。というか、ハンガーラック買いませんか? 俺も持ってますけど、安いし場所取りませんよ? 何なら俺がプレゼントします!」

 そして実際に、郁海が作った手料理をいちいち褒めながらすべて平らげて、祥真は郁海の部屋を見事に綺麗に片付けて帰って行ったのだ。

 ……別れ際、少しだけ背伸びして軽いキスをしたら、初々しい恋人は硬直してしまった。

 拒絶されなかったのは幸いだったが「もうちょっと段階踏まなきゃダメか」とそれ以来タイミングを見計らっていて、清らかな関係は継続中だ。

 流石にプレゼントは遠慮して、服を掛けておくハンガーラックは自分で買った。

 確かに便利ではあるが、正直郁海にとっての必需品ではまったくない。こういうところがすでに「片付けられない」一端なのだろうか。

 そして、以降は郁海が料理して祥真が皿を洗って掃除する、という役割分担が二人の間では完全に定着していた。

 料理が得意で、片付け下手以前にその気もない郁海と、料理はできなくはないが仕方なくする程度、しかし綺麗好きで掃除の手際もいい彼。

 一方的に「世話を焼く」のではなく、自分も「世話される」のは初めてかもしれない。

 この相性まではさすがに頭にもなかったが、改めて考えてみると互いに補い合えるいい関係に運命さえ感じた。

「何これ、すごい! フルコースってやつ?」

 ローテーブルに所狭しと並んだ料理に、雅が感嘆の声を上げた。

「お前、料理屋舐めてんのか? フルコースなんてこんなもんじゃねえよ。スープもないフルコースなんてあるか! 前菜オードブル主菜メインしかないだろ!?」

「えー、だってメイン三つもあるし! これ、肉も魚も全部メインだよね。で、こっちのでかい皿のが前菜? このちまちましたのも郁海が作ったんでしょ? 買って来たんじゃなくて。プチトマトいちいちくり抜いたわけ? 人参もめっちゃ細いし! 相変わらず手先器用だなぁ」

「そーだよ。全部俺が『チマチマ』作ったの! 前菜なんだから野菜の詰め物ファルシはでかいのよりプチトマトの方が食い易くていいだろ! 千切り人参サラダキャロットラペなんか細くなきゃダメじゃん。雅も好きだからわかってるよな!?」

「あ、あの。俺が我儘言ったんです。テレビで見たローストビーフとか、魚丸ごと蒸した? やつとか、他にもいろいろ『食べたいな~』って言ったら、郁海さん全部作ってくれて……」

 途切れない台詞の応酬に祥真はどうにか口を挟んだが、雅の返答は厳しかった。

「それはまとめていっぺんに作る郁海が悪い。君には何の責任もないでしょ」

「そんな! せめて『一回ずつ違うもの』って言えばよかったんです。だから俺が」

 その程度のこともいちいち口にされなければわからない、と言っているのも同然だとは、この場で祥真だけが理解していない。

「どうでもいいから食うぞ! 冷たいもんは冷たいうちに、熱いもんは熱いうちにが一番美味いんだよ! さあ、食え!」

 無理やり断ち切って仕切る郁海に、雅は黙ることはなかった。

「それも全部並べたあんたのせいじゃん。最初はまず前菜からでしょ? ローストビーフは冷蔵庫に入れときゃいいんじゃないの? 逆にローストビーフ出すなら、このチキンとか魚は鍋に入れたままにしといてあとで持って来るか。どうせ順番にしか食べないんだからさ。あたし、言ってくれたら火入れたり運ぶくらいするよ?」

「それこそコースじゃないんだから、順番に食う必要ねーだろ!」

「あ、俺、いろんなもん一口ずつ食べるの好きなんです! もちろん半端に口付けるだけじゃなくて全部食べますよ! ちょっと行儀悪いんで外ではあんまりしませんけど、郁海さんは俺のために全部──」

 先輩二人の喧嘩にも聞こえる掛け合いに、祥真が必至で郁海を庇う。

「……わかった。やっぱあたしは、あんたたちのための『刺激』なんだな」

「は?」

 雅の話す意味が分からない祥真が首を捻るのに、郁海が一旦座った状態から膝立ちになった。

「だから違うって! 外からの刺激なんて必要ねーんだよ、俺には!」

「はいはい。刺激はお二人で十分ですよねー」

 所詮は戯言ざれごとだったようで、雅は噛み付くように抗議する郁海に向けてニヤリと笑い、棒読みの台詞を口にした。

「それよりさぁ、郁海。部屋どーしたの? なんかやけにキレイじゃん。この部屋で洗濯物が床にないのなんて初めて見たよ!」

 いきなり口調を変えた彼女が、座った部屋を見回して告げる。

「たまにはあっただろ。乾いてないときはそのまま干してあったじゃん」

「あんたが恋人のために張り切って苦手なことも頑張ります! て全然らしくないんだけど。そんだけ原田は特別ってこと?」

 すでに弁解にもなっていない郁海の苦し紛れの言い分を、雅は聞こえなかったかのように無視した。

「……祥真が片付けてくれてんだよ。以前、お前がやってくれてたみたいに、もっとずっと念入りにな。だから俺も、ちょっとでもその状態保とうってくらいはしてんの」

 諦めて正直に告げた郁海に、彼女は真顔で重々しく頷いて見せた。

「ちょっと、郁海。後でちゃんと原田に説明しときなよ。あたしがあんたの『男』に会うのはこれが正真正銘初めてだ、ってさ。あの子、誤解してんじゃない?」

 玄関先で別れを告げようとした郁海を外まで連れ出した雅の潜めた声に、郁海はそのことにようやく気付かされる。

 挨拶したあとキッチンで皿を洗っている祥真には、いくら窓を隔てただけのすぐ近くとはいえ水音で聞こえていない筈だ。

 彼女は祥真にとっても親しい先輩で、三人纏めて友人の括り程度の意識しかなかったのだが、確かに「いつも『郁海の恋人を加えた三人』で楽しく過ごしていた」と受け取られても仕方がない。

 そう思われること自体よりも、祥真を傷付けるかもしれないのはやはり気になった。

 郁海も祥真が初めての恋人だなどとは口が裂けても言えないし、実際に数えきれないほどではないが、彼に知らせたくないと感じる程度の男と付き合っては来ている。

 大学では雅以外には隠したかったため、常に『外』の男だったが。

「あたしから教えた方が自然ならそうするよ。美味しいもん食べさせてもらったお礼、ってのはともかく、原田はあたしにも可愛い大事な後輩だからね」

「俺から話す、のは全然平気なんだけど、あいつにとってはどっちがいいんだ? 俺がわざわざ説明すんの、なんか言い訳がましくないか? 逆に嘘っぽいてか」

 本当に判断に困って訊いた郁海に、雅は少し考えて頭を上げた。

「わかった。あたしが言う。──たぶん、その方がいいと思うわ」

 頭の回転もよく演技力もある彼女なら、祥真を言い包めることなど造作もないだろう。

 しかしそんなことは関係なく、雅自身の言葉通り何よりも祥真のことを考えて対応してくれると信じられる。

 これまでも彼女には、郁海と祥真の間で何かと神経を遣わせた筈だ。

 それなのに、二人に対して公正で誠実だった友人には心から感謝している。決して口には出せないけれど。

 ──お前祥真だけ愛してる。本当に、それだけが真実だから。


 ~『はじめての。』:END~

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