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第一章『あなたのこころ。』②

「ちょっと、崇彦! 逃げんじゃないよ!」

「いや、勘弁してくれよ……。気持ちなんて縛れねーだろ、な? 晶穂あきほ──」 

 掴みかからんばかりの同学年の女子学生に、全身で引き気味の崇彦。

「ここがどこだかわかってんのか!? 家で、……せめて他でやってくれ。迷惑なんだよ」

 郁海の静かな一喝に、一瞬にして部室に緊張が走った。

 彼の容姿からの印象とは少し違う、落ち着いた低めのよく通る声。抑えた響きが余計に怒りを感じさせる。

 いま祥真も含めた皆がいるのは演劇サークルの部室。歴とした『公の場』だ。

 恋愛沙汰の修羅場を繰り広げるには相応しくないのだけは間違いない。

「……副島さん。すみません、ホントに。すぐに出て行きますから!」

「崇彦!」

「頼むよ、晶穂。ここではやめよう」

 崇彦が騒ぐ晶穂を宥めすかして引き摺るように部室を出て行くのを見届けて、祥真は表には出さないように安堵の溜息を吐いた。

「あいつら二人、六月公演で主演同士だったじゃん? まあ実際よくあるんだよ。恋人役やって、そのままプライベートでも恋愛関係になって、なんてのはさ。……で、佐治はもう今の相手役と付き合ってるわけだけど。次の十月公演の準主演ペアでな」

 呆然として見えるのだろう祥真に、郁海が説明してくれる。

 そういえば崇彦と晶穂は件の公演の練習中、祥真が知る限りでも休憩時間もいつもべったり一緒だった。演技の打ち合わせをしているとばかり思っていたが、リアル恋愛状態だったわけか。

 映画やドラマの俳優のものとしてはよくある、むしろ聞き飽きた話ではあるものの、現実に目の前で起きるとは。

「恋愛関係は全然いーんだよ。全員とは言わねえけどそれだけ役に本気になって、入り込んでるって証でもあるし。それで役柄にリアリティが出るなら別に悪くは無いんだ。──正直俺はリアルとリアリティは別モンで、演技なんて『いかに嘘を嘘っぽくなく魅せるか』だとさえ考えてんだけど、それはまあそれとして」

「えっと無責任に聞こえるかもしれませんけど、そこまでのめり込めるのも逆にすごいな、って俺なんかは思います……」

 遠慮がちに口にした祥真に、郁海は軽く肩を竦めた

「練習中に付き合い出して、公演終わったらいつの間にか別れてる、とかは少なくともここでは珍しくもないんだよ。たぶん他所もたいして変わんねえ気はする。役者の性、っていうと怒る人も多そうだけどな。……ただ、今のあいつらみたいに周りを巻き込まれんのはホントに困るんだ」

「それはもちろんわかります」

 祥真のようなただの一年生なら居心地が悪い程度で済むが、特にそれなり以上に責任ある立場を負う上級生は迷惑どころではない筈だ。

「俺は脚本も演出もせいぜい年一だし、気まずい関係の奴らと次の演目でも一緒って経験はない。それに、祠堂さんはそんなの気にしないだろうけどさ。つかあの人なら『演技の肥やしになるならいいよ〜』とか考えてるかもな。『稽古場でさえ揉めなきゃそれでいいじゃない。なんか問題あるの?』とか平気で言いそう」

 確かにリュウは、如何にも神経質そうな線の細い外見の印象に反して、ある意味非常に杜撰な人間だった。

 必要以上なほど細かく繊細な部分もあるにはあるのだが、主に脚本執筆に関してに限られている、らしい。

 現実にリュウが吐きそうな台詞に、この人は本当に彼を見抜いているのだ、と微妙な気分になる。

「でも俺はちょっと無理だな。結局、こういう『フツー』っぽいとこが向いてないのかもしれないなぁ。けどさ、舞台は大勢で作るからこそ、最低でもみんなの前では出すな! とは言いたくなるんだよ。稽古場で繕えりゃいいわけじゃなくて」

 ……同時に、むしろ郁海の方が「演技の肥やし」と考えそうだ、と感じていたのはどうやら自分の一方的な思い違いらしいとも痛感させられた。

 人間味を感じないほどの端正な容姿が、根拠のない先入観を加速させた側面もありそうだ。

 よくある話だという割に祥真が今まで知らなかったのは、他の当事者たちは人前では一応でも普通の顔で通していたということなのか。

 あるいは、単に祥真に人間関係の機微を見る目が足りないだけかもしれない。

 これまで祥真は郁海のことを、もっと「演劇人らしい」破天荒なタイプではないかと感じていたのだ。

 おそらくは故意に貼りつけている温和な表情とは裏腹に、口調は丁寧とは言えない。どちらかといえば尖った言動を取っているのも事実ではある。

 それ以上にずっとリュウを見て来たからこその偏見で、脚本家・演出家に対する風評被害に等しいかもしれない、と密かに反省してしまった。

 祥真は確かに郁海が好きだった。

 美しく整い過ぎた顔立ちに、よく変わる表情。

 笑顔一つとっても、綺麗な、可愛い、皮肉げな、と何種類あるのかと思うほどだ。

 溢れるほどの魅力がある素敵な人。ただひたすらに、彼だけを見つめ続けたこの数か月間。

 けれど結局、自分は郁海の表面しか見ていなかったのかもしれない。

 加えて、そのあと彼と親しい雅と不可抗力で仲良くなったことで、郁海についての『真実』が副産物のように増えた。

 ただ彼女は他人、つまり郁海について祥真に情報を垂れ流すような真似は決してしない。

 そういう女性ならおそらく距離を取っていただろう。

 もともとあまり、外での『飲み会』を催すことはないサークルなのだ。

 公演が多く、必然的にそれに伴う練習も多いというのも理由かもしれない。

 有志で行くことはあるようだし、何よりも部室に酒と肴を持ち込んでいつの間にか酒盛りになっていることは珍しくなかった。

 しかし下級生は、その場に気軽に加わるのも気を遣う。

 祥真も誘われた全体でのコンパは、夜にはそろそろ気温も下がる十月が最初だった。

 十月公演も無事終了した時期だ。

 新入生歓迎会さえ部室で行われたのだが、十代の学生に酒類は出されていない。

 過去に事件を引き起こしたサークルがあるらしく、特にその時期は学内の飲酒への大学側の監視の目が光っていたのだそうだ。 

 クラスコンパには何度か参加していたが、こちらはクラス担当の講師が非常にルールに厳しくアルコールはご法度だった。

 本来、そちらが自明なのは言うまでもない。

 初めて参加したサークルコンパだったが、さすがに十九歳ということもありアルコールは乾杯の一杯だけ。

 もちろん一滴も飲んではいけないのは当然だとして、そんな倫理観を大上段に振りかざすようなまともな先輩はこのサークルには少ないのだ。

 結局祥真は、ビールをジョッキに半分も飲んでいなかった。

 しかし飲み慣れていないこともあり、アルコールそのものよりも周りの賑やかな雰囲気に酔ってしまう。

 コンパの最中全力ではしゃぎすぎて、祥真は座敷形式の店で寝ころんだまま起きられなくなった。

 他のメンバーを二次会に送り出してから店に謝り、もう予約は入っていないという会場の部屋の隅をそのまま借りて、雅がずっとついてくれていたと後に聞かされる。

 彼女は大学のすぐ隣に建つ寮暮らしで、コンパの会場からも徒歩数分で帰れるから、と残ってくれたようだ。

 ちなみに郁海は、相変わらず書けないリュウに付ききりでコンパどころではなかったらしい。

 印象とは違って意外と一般的な常識を持つ部分もある郁海なら、もしかしたら乾杯の時点で止めてくれたのかもしれない。祥真は彼と飲み会で同席したことがないので判断できなかった。

 もちろん止められるかどうかに関わらず、飲んだ自分の責任だというのは理解している。


「原田。君しばらく飲み会禁止ね。だって酒ほとんど飲んでないのにアレでしょ? だからそーいう場全部禁止!」

「わかりました! あの、見城さん、ここ……」

 翌朝まったく見覚えもない和室に敷かれた布団で目覚めた祥真に、入り口で腕組みしながら立つ雅が重々しく言い渡して来た。

 状況はわからないなりに、彼女に迷惑を掛けたことだけは間違いなさそうだ。

「あら、起きたのね。大丈夫だった?」

「あ、久木ひさきさん。はい、平気そうです。本当にいきなりすみませんでした!」

「いいのよ。……見城さんも色々大変よねぇ」

 雅の後ろから見知らぬ中年女性が顔を出し、先輩が懸命に謝っている。

 久木というらしい女性の説明によると、ここは雅の暮らす女子寮の一室らしい。

 彼女は住み込みの寮母なのだとか。

 大学の女子寮ということもあり、親兄弟でさえも男性は基本立ち入り禁止。

 例外として地方から出て来た父親に限っては、申請と証明は必須だが一階の玄関を入ってすぐのこの部屋でのみ面会や宿泊が可能らしい。

 そこに雅が特別に頼み込んで、なんとか寝かせてくれたようだ。

 いくらまだ冬ではないとはいえ、さすがに外に転がしておくわけにも行かない。

 男子寮はここから一駅離れた場所にある上、部外者がいきなり泊めてもらうのは不可能だろう。

 一次会の店に置き去りなど以ての外だ。大学関係者自体が出禁になりかねない。

 所謂チェーンではなく、安くて美味しい上になにかと融通の利くあの店は、学生だけではなく教員もよく利用しているらしかった。

 しかも大学関係者を締め出しても、立地上商売が立ち行かないこともない。よくある「大学しかない」街ではないからだ。

 大袈裟な言い方をすれば、サークル自体があとあとまで大学全体に恨まれる羽目に陥るところだった。

「こういうことって滅多にないのよ。あっちゃ困るけど。少なくとも、私がここ勤めてからは初めて。見城さんなら信用できるからね。あなたもいい先輩持って感謝しなさいよ」

 諭すような寮母の言葉に項垂れるしかない。

 一人暮らしのアパートの住所さえ言えない状態の祥真に、困った雅が寮母に一晩だけ宿泊室を使わせてもらえるよう頼み込んでくれたのだとか。

「私が言うことじゃないんだけど、このことは吹聴しないでもらえるかしら。『男は入れない』ってことで親御さんも安心なさってるわけだしね。やっぱり年頃のお嬢様を大勢お預かりしてる立場だから」

「絶対喋りません! 本当に申し訳ありませんでした!」

 祥真は布団の横の畳の上で土下座する勢いで謝罪する。

 雅を信頼しているからこそ、彼女の懇願に禁を破ってまで男子学生を泊めた。

 久木の責任で取り計らった以上、やはり外に漏らしたくないのは当然だ。

「じゃ、出るわよ。他の子が起きて下りてくる前に」

「あ、は、はい!」

 雅はここに住んでいるのだから祥真を追い出せば済むだろうに、と共に出ようという彼女に疑問を持ったのだが、理由はすぐに明かされた。

「このお店のモーニングセット美味しいから。あたし、たまに来んのよ。朝から自炊めんどいな~ってときとか」

 大学前の通りを二本ほど外れた、学生が客層の中心ではないだろう喫茶店に連れて行かれる。

 時計を見ると七時半だった。

「見城さん、こんな早く出る必要なかったですよね。本当にすみません……」

「別に。外で食べるときはいつもこれくらいだから気にしなくていい。あたし、美味しいものゆっくり食べんの好きなの。パパっと詰め込むなら、自分で作った適当なもんで十分じゃん?」

 それが事実でも、一年生の祥真とは違い四年生の雅は朝一限目の講義などある筈もない。

 ただただ申し訳なかったが、これ以上謝罪を重ねても彼女に返す言葉を考えさせるだけだと気づいて、祥真は口を噤んだ。

 雅のおすすめメニューを頼んで、テーブルにオーダーが揃うとまずは食べよう、ということになる。

 縁に飾り模様のついた白い大きな皿に、数種類のパンと卵料理の中から選んだトーストとスクランブルエッグ。雅はクロワッサンにオムレツだった。

 脇に添えられた芋の塊が目立つポテトサラダも、メニューによるとマヨネーズから手製らしい。

 それに加えて飲み物の大きなカップ。カフェオレボウルとかいう代物だろうか。

「俺、実はコーヒー苦手なんで。紅茶とかジュース選べんのいいっすね!」

「あたしもあんまりコーヒー好きじゃないけど、ここのカフェオレは別なんだ。……でもまあ嗜好品だから無理しなくていいよ」

 中身のない話を続けながら、雅の言葉通り美味なプレートを平らげた。

「飲み物のお代わりいかがですか?」

「ください!」

「あ、俺もいいですか?」

 マスターがそれぞれのカップになみなみと注いでくれたカフェオレとミルクティーを前に、雅がふっと真面目な顔つきになった。

 いよいよ説教が始まる、と背筋を伸ばした祥真だったが、説教の方がどれほどよかったことか。

「副島さんがぁ、好きなんですよぉぉぉ! でも副島さんは祠堂さんが好きだからぁぁぁ!」

 最初のコンパの会場で雅と二人になった祥真は、半ば寝たままで郁海への想いを叫んでいたらしい。

 恥ずかしい台詞を本人に対して口にしなければならない彼女の方こそ被害者だとわかりつつも、祥真は机の下に潜り込みたくて堪らなかった。

 このときほど、無駄だと重々知りつつも「消えてしまいたい」と願ったことは後にも先にもない。

「まず最初に断っとくけど、郁海にも誰にも口外する気ないから。そこは安心して」

「……ありがとう、ございま、す」

「演劇やる連中なんてエキセントリックなのが多くて、男同士女同士なんて話の種にもなんないから悩む必要ないんじゃない? いや、悩んでんのか知らんけど、もしそうならね」

「え、っと。別に悩んではないっす。他の人がどうとかは全然知りませんけど、『俺が』副島さんが好きなんで」

 どうやら性指向についてなのでは、と気遣ってくれたらしい彼女に無関係だと否定する。事実だ。

「ほー。君、なかなか男前だね」

 茶化す色などまるでなく、雅が感心したように告げる。

「郁海のことについてはあたしがあれこれ言うことじゃないけどさ、少なくとも祠堂さんとだけはないね。君、あの人が女途切れないの知らないの?」

「いえ、副島さんが話してましたから知ってます。祠堂さんがどうのじゃなくて、副島さんが祠堂さんを好きなら、その──」

「それはない」

 食い気味に言葉を被せる彼女。

「詳しくは言えないけど、それだけはないの。郁海は祠堂さん大好きだけど、あくまでも『脚本家・演出家』として、だから。一か月分の夕飯賭けてもいい」

 寮生活を送る彼女にとって、「一か月分の夕飯」が到底気軽なものではないのは一人暮らしで食事に苦労している祥真にはよくわかる。

 それだけ本気だ、という意思表示だ。

「……いえ、信じます」

 雅はこれ以上何を訊いても決して答えはしないだろう。

 それでも、なんとなく彼女は「郁海の好きな相手」を知っているのではないか、という気がした。

 根拠を訊かれても『勘』としか言えないのだが。そして祥真自身、己の勘など特に信じていない。

 一つだけ確かなのは、郁海のことも含め雅には一生頭が上がらないということだった。

 祥真の恋心は止まることなどなかったが、郁海とリュウの間にそういう感情はまったくない、ということは祥真にも徐々にわかってきた。

 雅が話していた通り、リュウには学部時代からほぼ途切れずに交際している『彼女』がいたらしい。

 そのことについて平然と話す郁海に、二人の関係は本当に『演劇・脚本』に関すること限定なのだ、と改めて納得もした。

「いい人と付き合ってると、祠堂さんも安定するからこっちも安心なんだよな。まあ今の相手はちょっとなぁ、……とか思ったって、他人の恋愛に口出す気なんてないけどさ」

 困った先輩が本当に珍しく穏やかな生活を送り、脚本もそれなりに進んでいるようだ、と郁海が喜んでいたのが印象深い。

 彼にとってリュウは恋愛や性愛の対象ではないのだ、とようやく合点がいった。

 郁海が担っているマネジャー的役割をなぜその恋人に頼まないのかも不思議だったのだ。

 脚本の内容などはともかく、すべきことの優先順位を意識させる。せめて後先考えない逃亡をさせない程度には。

 雅に訊いてみたところ、「そこに関わらせないから、なんとかうまく行ってんじゃないの? 祠堂さんと付き合える人のことなんて、あたしには理解不能だけど」と返って来た。

 彼女いわく、「ただでさえ手の掛かる男なのに、恋人役に加えてお母さん役ってふざけんなって話だよ」だそうだ。

「『逃げなくていいように、ちゃんと計画立ててその通りやりましょう』ってさ、『リュウちゃん、忘れ物ない? ハンカチは持った?』と同レベルじゃん」

 歯に衣着せぬ雅の物言いに、祥真も反論はできなかった。

「ま、『創作クリエイト』は機械的な作業とは違うから。言われたってできるとは限らないし、難しいんだよね。……だから結局、創作仲間の郁海が一番適任なのかもしれない、今は」

 郁海がいなくなったらリュウはどうするのだろう、と他人事ながら少し気になってしまう。

 同時に、「途切れないってのはつまり、続かないんだってわかってる?」と確認され、祥真はそのことにもようやく気付いたくらいだった。

 百八十を超える長身で、「男らしい」というには多少繊細そうではあるが相当なイケメン。

 世間一般的に学力が高いとされているこの大学で、リュウは頭の良さでも有名だったという。入試で主席だったため入学式で表彰された、という伝説は聞いていた。

 学年が離れ過ぎているので真偽は定かではないが、おそらく事実なのだろう。

 次々彼女ができることは何ら不思議ではないが、最初は続かない理由がわからなかった。

 能力に溢れ、見た目も非常にいい彼。

 女性にとっては、むしろ決して手放したくない超のつく優良物件なのでは? と。

 ──『脚本・演出家』としてではないリュウ個人について、改めて考えてみるまでの話でしかなかったが。

「郁海ぃ、お前だけは僕のこと見捨てないでよぉ!」

「俺はあなたの書く脚本ホンと、演出する芝居が好きなんです。だから『書く』以上はあなたが好きですし見捨てませんよ、絶対に」

「ほ、ほんと、に……?」

「ええ。──だから書いてください」

 リュウの必死さに比べ、郁海の対応は軽く受け流しているかのように見えた。

 本心からの言葉には違いなくとも、いい加減飽きるほど繰り返されたやり取りなのだろうと察せられる。

「うん、書く! 書くから、……見ててくれる、よね?」

「ここで見てます。あなたが嫌がってもずっと見てますよ」

「郁海ぃぃぃ! やっぱり僕にはお前だけ……」

「──いいから早く書け! 口より手ぇ動かせ!」

 たまたま訪れた部室で、リュウが郁海に文字通り縋りついている場面を見てしまったときは祥真の方が居た堪れなくて消失したい気分になった。

 そしてなぜ、普段は人がたむろしている狭い部室がほぼ無人だったのかの理由もわかってしまった。

 いったい何の罪科つみとがで、『好きな人』が他の男に「あなたが好きだ」と告げているシーンを見せつけられなければならないのか。たとえ恋愛感情から来るものではないにしても、だ。

 郁海ではなく、大先輩の方に「そういうことは家でやってくれ!」と口に出せる筈もない悪態を心の中で吐いたものだった。

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