目次
ブックマーク
応援する
7
コメント
シェア
通報

第31話

 綾斗は未だ瞳の奥に闇を忍ばせながら二年生の教室がある階までとぼとぼと歩いていた。


 何人かの生徒ともすれ違ったが、挨拶を交わす訳もなく、少年は無表情のまま歩き続け自身の教室に辿り着いた。


 教室には人の影はなく、吹奏楽部の練習場所にもなっていないため静けさだけがあった。寸分の狂いもなく陳列された机と椅子。教室前方の壁と一体化した黒板は新品同然に清掃され、後方のロッカーの扉は窓から差し込む陽光で輝いてすら見える。一見して一般的な学校と同じような物が設置されているが、装飾や色彩が高貴な品格というものを現している。


 綾斗は重い溜息をついてから自分の机の引き出しを覗き込む。


「……あれ?」


 そこにあると思っていた物が無かった。代わりと言わんばかりぼろぼろに破られ、落書きされた現代文の教科書が入ってあった。もちろんそれは綾斗の物であり、変わり果てた教科書が意味することは分かる。


「よっぽど現代文が嫌いなんだな、犯人は」


 違う。そうではない、と言える者はこの場におらず、綾斗もまた人間臭いいじめの現物に沈み切った気分も瞳に潜んだ闇も晴らすことができていた。


 久しぶりに人間味のある嫌な物を見た。それが綾斗にとってある意味で気付け薬代わりになってしまったことに少年自身が嫌気を覚えてしまう。


 魔法の世界に入ってまだ二ヶ月しか経っていないというのに少年の感性はすでに常人と比べるとずれが生じていた。いや、そもそも綾斗の感性はとっくに狂っていた。そのことに自覚があるかと言われれば、綾斗にとって狂っていることが普通であるため「ずれてるんだな、俺」程度に軽く流していた。


 綾斗はぼろぼろになった現代文の教科書に合掌をして天寿を全うしたことに祈りを捧げた。


 そんなことをしている内に校舎への立ち入り禁止時間が迫ってきていた。あと四時間近く時間はあるが、あると思っていた場所に無かったことに綾斗は焦りを覚える。


 常盤桜花学園に来てまだ宿題を忘れたことは一度もない。いや、綾斗は学生という身分になってから一度も宿題を忘れたことはない。もし忘れようものなら母親からきついお仕置きが待っていた。


 今になってはそれがトラウマのようになっている。


「さてさて。ここに無いとなるとロッカーか?」


 綾斗は視線をロッカーに向ける。


 しかし、綾斗の記憶が正しければ常盤桜花学園に来て一回もロッカーを使ったことはない。いつも机の鞄かけにリュックをかけ、そこから直接教科書などを取り出している。今回机の引き出しに教科書が入っていたのはたまたまだ。いつも空っぽであり、入れるとするなら筆箱くらいだ。


「まさか、誰も何も入れてないよな」


 学園に来て二ヶ月。


 初めて綾斗のロッカーの扉が開かれる。そこには、


「まあ、やっぱり何も入ってないよな」


綾斗の言う通り何も入っていなかった。


 ならば綾斗の宿題はいったいどこへ行ってしまったのか。


 少年が顎に手をあて深く考え込む。その時、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンに着信が入ったのかバイブレーション機能で震える。


 綾斗は「誰だよ」と言いたげな表情を浮かべながらスマートフォンを取り出す。


 着信は梨乃からのメッセージだった。


 最愛の妹からのメッセージに兄は心を躍らせ、目を輝かせながらメッセージの内容に目を通す。そして、その目が飛び出るのではないかと思うほど見開かれた。


『ヤッホー! 今、冬香さんと新葉さんが来てお兄ちゃんの宿題持ってきてくれたよ! なんか机の上に置いてあったのを冬香さんが気付いてくれたみたい。良かったね』


 綾斗は驚愕を露にしながら返信しようとするが、それよりも早く新しいメッセージが届く。


『お兄ちゃん。なんで冬香さんたちの連絡先知らないの?』


 忘れてた。


 なんて言えない綾斗は数多の言い訳を考え返信しようとする。だが、やはりそれよりも早く梨乃からまた新しいメッセージが届く。


『どうせ忘れてたんでしょ? お兄ちゃんが今でも私以外に連絡取ってるのって前の学校の先輩一人と康臣ダディーぐらいなんでしょ? では、私はこれからお出掛けするので夕飯までには帰ると思うから』


 妹に見透かされた兄は口を開けて呆気に取られてしまっていた。


 そんなことをしていると廊下を見知った顔が通った。


「夏目!」


 綾斗は慌てて廊下に飛び出る。


 あまりの勢いに名前を呼ばれた少女は驚き後退ってしまう。そのせいで持っていた荷物が手から離れてしまう。


「しまっ……ッ!」


 夏目は目を見開き手を伸ばすが間に合わない。指先から十センチ、いや、五センチ程度の距離だと言うのに届かない。瞬間、全てが止まっているかのように見えた。あと一歩、踏み込めば絶対に届く。それなのに身体が硬直してしまったのか全く動かない。夏目は覚悟を決め、荷物の落下を見届けることにした。


――せめて中身さえ無事なら。


 少女は目に涙を浮かべる。できれば傷一つない状態で保存しておきたかったが、その願いはもう叶わない。


 そんな少女を他所に全ての原因である少年は、まるで野球のヘッドスライディングのように廊下に飛び出した勢いを利用して、そのまま夏目の荷物に向かって滑空する。十分な加速に加えて綾斗の手足は夏目よりも長い。


 間に合う。


 確実に廊下に荷物が接触する前に受け止めることができる。


 綾斗は歯を食いしばり目いっぱい腕を伸ばして夏目の荷物を両手で捕らえた。しかし、安心したのも束の間、勢いはおさまることを知らず、綾斗はそのまま廊下に顔面を滑らせ、生々しい音とともに頭頂部を壁に激突させ緊急停止した。危うく思考も一緒に止まりそうになったが、魔獣との戦闘や魔法の訓練のおかげで何とか繋ぎ止めることができた。いや、後頭部を金属バットでフルスイングされても三回程度ならまともな思考力のまま立っていられる。それがタロットをその身に宿す前の綾斗だ。


「あぶねー、間に合って良かった」

「あ、ありがとうございます。いえ、そもそもアナタが……もういいです」

「すまん」


 綾斗は頭頂部を押さえながら立ち上がり夏目の荷物を手渡す。


 夏目は受け取るや否やすぐに中身を確認しようとするが、綾斗の「何が入っているんだ?」という視線に気付き訝し気な視線を送る。


 数秒間見つめ合う二人。


 そこでようやく綾斗は中身を見られたくない、という夏目の思いに気付き身体ごと後ろに振り返る。


「ホント、ごめん。大事な物なんだな、それ」

「はい。私とっては大事な物です。とっても……」

「お母さんの形見とか?」


 綾斗の言葉に夏目は目を見開く。そして、大きく溜め息をついて答える。


「いえ、これは私のプラ……趣味の一端です。壊したくなかったので」

「プラ? プラーぷら……プラ……プラモデルか!」

「本当にアナタは……っ! デリカシーと言うものをもう少し勉強した方がいいのではないでしょうか? 隠している私の身にもなって下さい!」

「え、隠してたのか? なんで?」

「なんでって……」


 夏目はやれやれと言った表情を浮かべ、呆れを通りこし諦めてしまった。


「お、女の子の、それもこの町で三大富豪に入る令嬢の趣味がプラモデルとは……」

「流石に言えないと?」


 夏目は小さく頷く。その顔は少し恥ずかしそうにされどどこか悲しそうな雰囲気が滲み出ていた。


「別に俺は良いと思うけど」

「それは谷坂さんが元は一般人だからです。この学校に来て分かっていると思いますが、上流階級の家の者はそれ相応の気品を纏わなければありません。そして、将来を約束される代わりに家の名を背負わなければなりません。その圧に耐えるために他人を格付けし見下します」

「ん? つまるところ他の家の人に見下されると?」

「はい。そして、それは私個人ではなく伏見家に直結します」

「そ、そんなもんなのか? お金持ちの世界って」

「ええ、そんなものですよ」


 ですから、と夏目が付け加えて何かを話そうとしたところで事が起きた。


 突如、常盤桜花学園高等部を覆うほどの膨大な魔力の爆発を感じた。同時に綾斗の胸の内が躍動し、不穏な気配が学園の至るところから感じられた。


 複数体。


 それも一体や二体ではない。十を優に超える数の気配がそこら中から感じた。


 直後、窓の外で異変が起きた。


 雲の流れが、学生、教員の動きが加速する。


「夏目!」


 綾斗に呼ばれた夏目は綾斗の視線の先を辿る。


 そこにあったのは何の変哲もない時計。いや、窓の外のように異変が起きているとすれば針だ。時計の針がまるで独楽こまでも回しているかのように高速で回転し、十時から一息に十九時まで進んだ。そして、それは時計だけではない。窓の外が一転して夕暮れ時になる。


「これって……」

「間違いなくタロットの魔法です。構えて下さい、谷坂さん……来ます!」


 夏目は荷物を片手に空いた手には身の丈ほどの杖が出現する。


 綾斗も促されるまま『錬成始動オープンワークス』で一振りの剣を錬成し構える。


 次の瞬間、廊下の角から十体の黒い犬の姿をした魔獣が現れ、二人に向かって駆けてくる。いや、その背後からもさらに別の猿のような姿をした魔獣が天井に指先を吸着させて、まるで雲梯うんていでもしているかのように猛威を振るって迫りくる。


 二人は野生を剥き出しにした猛獣たちの圧に負けてしまい、その場から離れることを優先し駆け出すのだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?