六月一日土曜日。
ハングドマンを封印して一週間ほどが経った。
谷坂綾斗は勉学に励みつつも魔法についても学ばなければならないため、ある意味では二重生活を強いられていた。しかし、当の本人はまるで正体を隠しているヒーローのような生活感に心のどこかでは気持ちが華やいでいた。そんな少年の前には、なぜか仁王立ちをしている伏見家の次女――夏目がその特徴的な
現在、少年と少女がいるのは
綾斗はそんな一室で豪華な装飾が成された木製の椅子に座るのではなく、木目の床に正座させられていた。
「まったく、本当に、どうしてアナタは、もう! どうしてこうなったのですか!」
綾斗の前に仁王立ちしている夏目は憤りを、いや、焦りを露にしながら綾斗に怒号を吐く。
綾斗は心底申し訳なさそうにしながら魔法の訓練に置いて先生の立場にある夏目に深々と頭を下げる。
それでも夏目の焦りと怒りがおさまることはなかった。
「今日は大事な……」
夏目は室内の時計と窓の外に広がる夕焼け空を交互に見て焦燥に駆られていた。
普段は五つ子の司令塔、もとい、まとめ役であり、真面目な夏目らしからぬ姿に綾斗は本当に申し訳なくなってしまっていた。
全ては少年の不注意、且つ、無謀な突撃から始まってしまった。
まさか休日の校内で魔獣が出るなんて思いもしなかった。
今は教室の扉の鍵を閉め、魔法で結界も張っているため突き破られることはないだろうが、それでも扉や廊下側の壁の向こうからは獣の
事の発端は学園に宿題を忘れてしまった谷坂綾斗の朝から始まる。
☆☆☆☆☆☆
谷坂綾斗は今朝の目覚めが最悪だったことに憂鬱になりながらリビングのソファーに寝転がっていた。最早半袖半ズボンのパジャマを着替えることすら面倒になってしまうほどの目覚めの悪さに二度寝をしようとしたところで最愛の妹――梨乃が現れた。
梨乃は両腕を組み、頬を膨らませて怠け者と化してしまった兄を凝視する。その瞳には光がなく、頬を膨らませて怒っているかのように見えるが、覇気の無い無表情で行っているため不穏な気配を漂わせている。
綾斗はそんな妹の無表情で怒った顔という矛盾を体現した表情にじっと見つめられ恐怖すら覚えていた。そして、それが十分、いや、二十分以上続いたことで綾斗は折れてしまった。
「もうやめてその顔。怖すぎる。お兄ちゃん起きるから。ぐーたらやめるから、だからやめて! やめてください、お願いします!」
綾斗が飛び起きて必死に弁解するが、梨乃の表情が和らぐことはなく、ただ無言で頬を膨らませながら綾斗を凝視していた。
「ほら、お兄ちゃんもう起きたぞ! 朝ごはんは何がいい?」
「……」
「あ、ソファーに座るか? いや、座りますか?」
「……」
「て、テレビ! テレビでも見ますか?」
「……ッ」
梨乃の肩が少しだけ動いた気がした。
綾斗はまるで姫に手を差し伸べる王子様のように手を伸ばし梨乃の手を優しく引いてソファーに座らせる。梨乃自身が特に抵抗しなかったことからテレビを見るで正解だったことが分かる。
少年はテレビの電源を入れるやどのチャンネルにすればいいか梨乃に問う。
しかし、返ってくるのは無言だけだった。いや、光のない瞳がずっとリモコンを追っている。
綾斗はそっと渡すと梨乃は無言で受け取り朝の子ども向けアニメを見始める。
「ま、魔法少女だっけ? か、可愛いよな?」
「……した」
梨乃が今日初めて口を開いた。
「ん? もう一回言ってくれ」
「……がした、おーぷ……のがした」
「ごめん、もう一回!」
「オープニング見逃したじゃん、この馬鹿兄!」
梨乃の怒号に綾斗は耳を穿たれ、そのままの勢いでソファーの腰掛から後ろへ転げてしまい、後頭部から床に激突してしまった。なんとも哀れな兄の姿を一瞥することなく、妹は大好きな魔法少女が主役の子ども向けアニメを満面の笑みで見ていた。
綾斗は後頭部を押さえながら立ち上がりテレビに映る魔法少女を見やる。
――あの五つ子はこんなに可愛くなくもないな。
と上から目線で姉妹たちの容姿を評価する。
だが、幸か不幸か後頭部を強打したことで完全に目が覚めた。
「お兄ちゃん。目覚めが悪そうだったけどどうしたの? 何か嫌なことでもあった?」
「んーお兄ちゃんは数秒前の梨乃を知っているせいか『目覚めが悪い』という言葉がとてつもなくブーメランになってる気がして答えに困ってしまう」
「だってお兄ちゃんがぐーたらモードになってたんだもん。それに『魔法少女マジカルファイブ』も始まる時間だったし」
綾斗は梨乃の言い分よりもアニメの名前が『魔法少女マジカルファイブ』ということに驚きを隠せなかった。このアニメは五人の女子中学生か小学生が魔法少女に変身して悪の魔物と戦うというストーリーなのだが、まさに現実でも五つ子で女子高校生版に少年を加えたタロット戦争が開戦されているのだ。
こんな奇跡が起こっていいものなのかと思った時、綾斗は不意に乱雑に捨てられていた、もとい、置かれていた自身の学校用のリュックが目に入る。
綾斗の目覚めの悪さの原因はそれだった。
リュックには特に何も変化もない。破れた訳でも、穴があいた訳でもない。問題は中身だ。
「お兄ちゃん、もしかして学校に忘れ物したことを寝れば無かったことになると思ってたの?」
梨乃はマジカルファイブから一度も目を離していないにもかかわらず、綾斗がリュックを見つめていたことに気付く。おそらく会話が不自然に途切れたからだろうが、それだけで正解を言い当ててしまう辺り、梨乃の洞察力の凄まじさが分かる。
「俺の妹が凄すぎて何も言えないです」
「それはどうも。取りに行くなら午前中の方が良いと思うよ? あと一ヶ月ちょっとで期末試験も始まるからテスト製作で午後から入れなくなるかもよ」
「マジで?」
「さあ、少なくとも中等部の掲示物には今日の午後から試験までの土日祝は校舎に入ることを固く禁ずるって書いてたよ」
「流石俺の妹だ。俺は学校の掲示物をちゃんと見たことないぞ」
「まだ朝の八時十分だけど取りに行くなら早い方がいいよ」
「ああ、そうするよ」
綾斗はげんなりした様子で自室に戻り私立常盤桜花学園の制服に着替える。以前の学校の制服が学ランだったこともあり、ブレザー制服となった今では違和感を覚えて仕方ない。しかし、そんな感覚もすぐに慣れてしまうのだろう。常盤桜花学園の校風に慣れてしまったように。
それとは別に常盤桜花学園の制服になって一ヶ月近く経つが未だに出来ないことがある。
「このネクタイ絶対おかしい。どう結んでも後ろが長くなってしまう」
学ランに慣れ過ぎたこともあるが、綾斗は家事以外にも機械の簡単な修理程度ならお茶の子さいさいなのだが、裁縫だけはできなかった。ネクタイの結び方は何度か母親から教わったこともあったが、どうしても出来なかった。タイの前と後ろの長さがどうしても合わない。
そうこうしている内に時間は過ぎていき、十回目にしてようやく結ぶことができた。
綾斗は玄関に座り込みローファーとなった学校用の靴を履く。と言っても伏見家特製の物であるため、見た目はローファーだがスポーツシューズよりも軽く、柔軟性があるため軽快な足運びを可能としている。魔獣と戦うには最適の靴ということだ。
「そんじゃ行ってくるわ。昼までには帰ってくると思うけど、もし学校で宿題できそうならやってくるわ」
梨乃はリビングでマジカルファイブを見ながら大声で答えた。
「はーい。私も午後から予定あるからお昼は各自でねー!」
綾斗は「見送りはなしか」と落ち込みつつも一言「わかった」と言って谷坂家を後にした。