吊られた男『ハングドマン』との最初の戦闘から二日が経った。あれ以来ハングドマンは一度も姿も反応も見せず、綾斗たちは『マジシャン』の時のようにもう現れないのではと思い始めていた。それでも彼らはその日がくるまで鍛錬を怠ることを知らない。いや、綾斗に限っては日に日に鍛錬の度を越えていき、反発剤でもある新葉ですら止めるほどになっていた。
見かねた夏目が特訓を中止するように促したが聞く耳を持たなかった。
何せもう一度隠者のタロット『ハーミット』を使おうとしているのだから。
綾斗は魔術師『マジシャン』との戦闘では三十秒も保てなかったそれを最低でも十分は扱えるようになりたいと思っているのだ。その願いの下、学校も休み、この二日間で五十回以上も命を落とし掛けた。内四十回は五つ子の誰かが、或いは五つ子の父親である康臣がいなければ、本当にこの世を去らなければならない状態になっていた。
「クソっ! どうしてだ……」
「焦っても仕方ありません。ここで本当に壊れてしまっては梨乃さんが悲しみます」
「分かってる。けど、おかしくないか? 俺だけなんだぞ。ハーミットを三十秒も保てないの。夏目も他の五つ子たちも三十分以上は保てているのにどうして……」
「それはおそらく――」
「俺がすでにフールを使っているからか」
夏目が言い切る前に綾斗が言う。
頷く夏目はハーミットのタロットカードを手に取り向かい合うように立つ。
「はい。タロットの魔法については以前お父様がお話した通りです。タロットカード一枚一枚には最高峰の魔法が施されています。カードの状態は言わば封印状態です。しかし、解放すれば所有権のある者は一定の時間ではありますが、その最高峰の魔法を扱えるようになります」
夏目は言いながらハーミットのカードを握り潰す。すると硝子が砕けるように散り、それらは光の粒子となって突風を巻き起こし夏目の全身を包み込む。瞬間、ハーミットが纏っていた灰色のローブが顕現し、左腰にはハーミットが持っていた短剣が差される。
「タロットを使用中は魔獣化した時に使っていた武器や特徴が衣装となって実体化します。まあ、簡単に言ってしまうとそのタロットカードが持つ最高峰の魔法を扱えるようになるためのコスプレですね」
夏目が言い終えると少女の背後から蛇のように蠢きながら影の槍が何本も伸びる。
綾斗がそれを羨ましそうに見ていると、夏目は何を思ったのかその影を綾斗の喉元に突きつける。
「どうです? ここで一勝負してみませんか?」
「え? どうして」
「私に勝てば最短でも五分は確実に保てる方法を教えましょう」
夏目は引きつった表情を見せながら言う。
嘘だ。
そんな方法があるならとっくにしている。
綾斗はやれやれっと言った面持ちで二振りの剣を構える。嘘だと分かっていても誘いを断る理由はない。フール以外のタロットの魔法が使えないのなら、フールの魔法を極めるしかない。
直後、訓練場の扉が勢いよく開けられる。
そこにはやるせないと言いたげな表情を浮かべた春菜が立っていた。
「夏目ちゃん、私も一緒にやるから下がってて」
「え、あ……私、そんなつもりで……」
「良いから。私が前に出るから後方支援頼んだよ」
春菜は夏目の返答を待たずに抜刀し切っ先を綾斗に向ける。その表情は怒りに満ちていた。
綾斗は何も言わずに構える。
春菜にとって綾斗のこの行動が全てを見透かされているようで憤怒の炎がさらに燃え上がり、掻き立てられる。
一歩目は静かに、しかし、重い踏み込みが綾斗との距離を己の距離へと変える。
上段の構えから振り下ろされる一撃。普通の剣道なら振り下ろされているのだから一撃しかないだろう。しかし、春菜の剣技は常人の一振りの間に三度の斬撃を可能とする。
迎え撃つ綾斗もまた静かに踏み込み、素早く二振りの剣を逆手に持ち替え、春菜の三連撃を見事受け止める。それでも春菜の猛威は留まることを知らず鋭い斬撃の嵐が綾斗を襲う。
綾斗は一歩ずつ下がりながら捌き、弾き、牽制するが、春菜の刀は確実に綾斗の首を取ろうと藻掻き、押し込み、いつしか綾斗の背は壁際まで追いやられていた。流石の綾斗も予想外の手数に圧倒され、ついには複製された二振りの剣が悲鳴を上げる。たまらず少年は真上に跳躍し、壁に垂直に立つように体勢を整える。
傍から見れば壁に座っているという奇妙な構図に見えるだろうが、彼等は特に驚くこともなく、意味のない光景だった。何せ座っているように壁に張り付いていられるのは跳躍した勢いが続く限りだけだ。勢いがなくなれば静止状態になり重力によって自由落下する。
しかし、壁際まで追い詰められたのが幸いした。
綾斗は壁を蹴り春菜と正反対の方向へ跳躍し距離を取る。
「私がいることをお忘れなきように」
綾斗と春菜からさらに離れた場所に陣取っている夏目が影の槍を構え右手を勢いよく突き出す。
その動作が指示となり、影の槍がまるで意志でもあるかのように素早く地面を這い向かって少年目掛けて突き進んでいく。影はその間にも無数に枝分かれし、綾斗を串刺しにするための槍の数は最早数えきれないほど増えていた。
尖端は人体など容易く貫くほどの硬度を誇り、側面も槍には見えるが実際は布の側面のように線になっているためそれだけでも刃となる。変幻自在の軌道と形に加えて影さえあればどこまでも伸ばし、増殖させることができる。
「元は夏目の影なんだよな」
綾斗は目の前の光景にうんざりしそうになる。
防ぎ切れる自信がない。手持ちの剣は、もとい、複製できる剣はいくらでもある。しかし、それ等を影の槍と同じ数まで一度に複製し放つのは不可能に等しいだろう。今の綾斗の実力からして一度に複製できるのは四本が限界だろう。
意を決した綾斗は手に持つ罅割れた二振りの剣を投擲する。同時に二本の剣を生成し、おもむろに影の群れに突っ込んでいく
――軌道は確かに変幻自在だが突き穿つ瞬間は真っ直ぐになる。見極めろッ!
人外の動き。
魔法使いである夏目と春菜でさえその動きは人間と言う枠組みから一線を、いや、一閃を超えていた。身体能力強化魔法を施している訳でもないはずの綾斗の動きは、言うなればタロットの魔獣のそれだ。おそらくこれが魔獣化したフールの俊敏性なのだろう。
数多の影の槍が向かい来るが、少年は槍と槍の間を縫うようにして避け、時には剣で弾くように防ぐが、その反動すら利用して身を翻し躱しつつ、避けた槍を足場に跳躍する。もちろん進行方向にも影の槍が迎え撃つように肉薄するが、今の少年には通用しない。
瞬く間に影の群れを突破した綾斗は二振りの剣を振り降ろす。
キンッ! という金属と金属がぶつかり合う音が訓練場に響き渡り火花が散った。
二振りの剣の軌跡は夏目を守るように二本の影が交差して伸長し止められた。
「変幻自在なのは形だけではありませんよ。軟化に硬化、そしてその硬さの調整も自在だということを忘れましたか?」
夏目は得意げに言う。
対して綾斗も余裕の笑みを浮かべる。
「この剣は何本目だと思う?」
瞬間、夏目の背筋に悪寒が走った。罅割れた二振りの剣は投擲後すぐに迎撃した。新たに生成した剣は今まさに綾斗が握っているはずだ。いや、夏目は綾斗の対魔法訓練を率先して行っていたため五つ子の中で誰よりも綾斗の実力を知っている。故に一度に出来る剣の生成は四本だと思い出す。
振り向くよりも早く疾風が夏目の青いポニーテールを薙いだ。
「二対一だってこと忘れた?」
春菜が放った斬撃波が綾斗の投擲したマチェットを迎撃したのだ。
そう。綾斗は罅割れた二振りの剣を投擲してすぐに二本の新たな剣を生成した。ここまでの流れは夏目も理解していた。しかし、その先があった。罅割れた二振りの剣が影の槍によって粉砕された瞬間、同時に少年は数多の影の槍に突っ込み少女の死角に入ったのだ。直後、新たに刃がブーメランのように湾曲したマチェットを『
だが、この勝負は綾斗対夏目、春菜である。
春菜は影の槍の外側から綾斗の行動を全て視ていた。だからこそ、マチェットの存在にいち早く気付き、そして、綾斗の人外的な動きによる影の槍に対する回避行動を目撃することができた。
「チェックメイトですね」
夏目は綾斗が春菜に気を取られている隙にハーミットの短剣を引き抜き綾斗の喉元に突きつける。
綾斗は降参すると言いたげな表情を浮かべて剣を消滅させ、両手を挙げた。
夏目も満足げに笑みを浮かべながら勝敗が決したことでハーミットを解除する。
しかし、春菜だけは抜刀したまま俯いていた。綾斗も夏目も春菜を怪訝そうに見つめるがそれでも桃色の少女は一向に刀を納めようとしない。
「どうして? 私達って喧嘩中だよね? ただの口喧嘩から武器を使って争うまで……仮に争いじゃなくても訓練以外で刀を抜いたのには変わりないのに。殺気だって込めてたのに。どうしてそんなに普通に接することができるの!」
綾斗は言われて初めて春菜が綾斗との喧嘩を気にしていることに気付いたのだ。
「俺が気にしてなくても春菜は気にしてたんだな。悪いとは思ってる。お前の剣技を馬鹿にしたようなもんだからな。許して欲しい」
綾斗の言葉に春菜は困惑する。
「ムキになったのは私の方なのに……どうして簡単に謝れるの?」
「どうしてって、それはお前が天賦の才だけでその剣技を磨き上げた訳じゃ無いって分かってるからだ。才能だけじゃなくて努力で成り立っている物を馬鹿にしちゃあ駄目だ。だから、俺はお前に酷いことをしたと思ってる」
綾斗は思い詰めた表情を見せる。そこであることを思い出した綾斗は訓練場にある時計を見やる。
「悪い。今日も夕食当番俺なんだ。だからこれで帰る」
綾斗が足早にこの場を去ろうとするが、春菜がそれを許さなかった。いや、帰ることに対して異論はない。ただまだ話したいことがあるのに少年が行ってしまうことを拒みたかったのだ。
春菜が選んだのは単純でとても勇気のいる行動。
春菜は綾斗の袖を掴み、顔を赤くしながら言う。
「わ、私も! 一緒に帰る。いいでしょ? 冬香だって行ってるみたいだし」
綾斗は驚いたような顔を見せるが、一言「分かった」とだけ伝えて二人でこの場を後にした。