冬香が教室の窓から飛び出して直ぐのこと。
綾斗の下へ身の丈ほどの杖を持って夏目が駆けつけてきたのだ。
しかし、綾斗は目の前の夏目が誰か分からず、視界の端に捉えながら冬香を心配そうに見つめる。数秒後、杖で後頭部を殴打されたことは言うまでもない。
それでも綾斗は夏目を夏目として認識していないのか訝し気な視線を送る。
「私は夏目です。この可愛いポニーテールで覚えて下さい。そんなことより、その右腕を今すぐ使えるようにします。この魔法陣を組むのに午前の授業を全て聞き逃してしまいました。責任取って下さいね」
姉妹揃って同じこと言うなよ、とは言えず綾斗は頷く。
「ちなみにあなたの右腕は単純な魔力神経の断裂ではありません」
「ま、マリョクシンケイ?」
綾斗は聞き慣れない単語に復唱してしまう。
「ようするに魔力を全身に伝える魔法使い特有の神経系です。一般の人にはありません。あなたの右腕はまさにその状態なのです。無理な複製を行った反動で右腕の魔力神経が消滅してしまったのです。そのため、今からあなたの失われた魔力神経を再生させます。でなければあなたはこの先一生魔法を使うことが出来ません。加えて、魔力神経のない右腕にとって魔力神経のある身体に繋がれていること事態が悪循環になってしまいます。そのため最悪の場合は切断しなければなりません」
ここで右腕を諦める選択肢を取れば、確実に伏見家の援助がなくなり兄妹共々路頭に迷う生活になってしまうだろう。しかし、代わりにタロット戦争に関わることがなく、平和な日常を送ることができる。
だが、綾斗はそんなことを一切考えず、ただ目の前の魔獣を倒すために言う。
「やってくれ」
真っ直ぐなその眼差しに夏目は思わず心を打たれそうになったが、深呼吸をしてから向き直る。
「分かりました。再生する際は魔力神経を失った時よりも苦しい思いをするでしょうがご了承ください。それでは始――」
「ちょっと待った!」
綾斗は夏目の言葉を遮り冷汗を掻きながら言う。
「さらっと凄いこと言ったよな? 俺、あまりの痛さで失神しかけたんだぞ」
「仕方ありません。まさか魔獣が出てくるとは思いませんでしたから。ちゃんとした儀式場があればもう少しマシだと思いますが」
「失神したらすぐに起こしてくれよ。冬香が心配だ」
「心配する必要はありません。冬香はすでに伝心魔法で私達姉妹に作戦を伝えてくれました。なので、あなたは右腕を治すことだけ考えて下さい。それでは私は次女なので、二で魔法を発動しますね」
「いや、そこは五とかだろ」
「良いから始めますよ。二!」
「うぁあああああああああああああああッ! ああああああッ! あああああああああッ!」
心の準備をする間も与えず夏目は魔力神経再生の魔法を綾斗に施す。右腕に隙間なく刻まれる刻印。そのどれもが魔力神経を再生させるための魔法陣であり、呪文である。青白い火花を迸らせながら綾斗は苦痛に悶え、心の底から苦痛の悲鳴をあげた。あまりにも酷い有様に夏目は中断しようとまで思ったが、綾斗のそれでも歪まない真っ直ぐな目にただ再生させることだけを考えた。
体感時間は一時間。
実際の時間は十秒もない。
綾斗は間一髪のところで踏み止まり失神を逃れることができた。しかし、目に涙を浮かべていることに変わりはなかった。
「大丈夫ですか?」
夏目が問うと綾斗は頷き、右腕で涙を拭う。
「まだ痛い。それで作戦って……」
次の瞬間、爆発音が響き渡った。
次に起こったのは爆風と衝撃波による破壊。魔獣の緑の霧の効果も相まって教室の窓ガラスは全て粉々に粉砕されたのだ。さらに勢いそのままに破片が教室に横たわっている生徒達に降り注ぐ。夏目はこれ以上被害を拡大させないため慌てて結界を張る。
いや、結界ではなく修復したのだ。
二人のいる教室だけではない。学校中の割れた窓ガラスを全て割れる前の状態に戻したのだ。
「反転魔法――『時空間巻戻(クロック・バック)』――三秒前までが限界ですけど。これで大丈夫なはずです。しかし、これでチェックメイトです」
夏目が言った瞬間、姉妹の誰かが絶叫と共に特別棟の屋上から発射された。そして、空中に逃げ延びたタロットの魔獣と交差する。刹那、タロットの魔獣の上半身と下半身がそれぞれ別の方向に吹き飛んだ。
「やったみたいですね」
安堵の息を漏らす夏目。だが、綾斗はフールの魔法を発動させ二振りの剣を生成し窓から飛び出す。この行動が示しているのは、魔獣はまだ封印できていないということだ。その証拠にタロットカードが生成されていない。途端に冬香の方へ緑の霧を纏った上半身だけが恐ろしい速さで迫っていく。
次の瞬間、冬香の目の前にヒーローが爆誕した。
☆☆☆☆☆☆
時間は少し遡り冬香の作戦を聞いた春菜、秋蘭、新葉の三人は特別棟の屋上に集まる。
「ホントにやるの?」
不安に満ちた表情を浮かべるのは桃色の短髪をした美少女――春菜。
「ちょっと自信ないかも」
オレンジ色の髪を肩まで伸ばした美少女――秋蘭は不安そうな表情を浮かべて頭を掻く。
「それでもあのコがやるって言うんだからやるわよ」
いつもは反発するはずの緑の髪を腰の辺りまで伸ばした美少女――新葉は真っ直ぐ校庭を見つめその時を待つ。
そんな新葉の姿を見てしまったからか、二人は気を引き締め準備に取り掛かる。元々、新葉の仕事は照準を合わせることで後は二人に合図を送るだけだ。
秋蘭は何度も利き足の蹴り上げを練習している。そして、その都度聞こえてくる野太い風の鳴き声が少女の足刀の破壊力を物語っている。
春菜は精神統一のために左腰に差した刀の柄に左手を添えて両目を閉じる。
チャンスは一度。
タイミングを間違えれば五つ子の誰かがやられる。もしくは少年と二度と会えなくなる。三人は各々の役割を理解し、タロットの魔獣と奮闘している冬香を信じる。それしか彼女たちには出来ない。
しばらくして緑の竜巻が姿を現す。
失敗した。
心のどこかでそう思った。だが、すぐにそれは否定された。
――冬香なら必ずやり遂げる!
瞬間、竜巻が内側から破裂した。
そして、激しい銃撃の後、その時が来た。
「今よ!」
新葉の合図の下、二人は動き出す。
秋蘭は目一杯踏み込み、腰の捻りを最大限生かした足刀を大きく横薙ぎする。その直前に春菜は軽く跳躍し、横薙ぎされる秋蘭の脚の上に両足を置き、身を縮こませ居合の構えを取る。そして、秋蘭の脚が振り抜かれるのと同時に春菜も全力で跳躍する。
魔力解放に加えて身体強化魔法を施した秋蘭の蹴りは人一人なぞ容易く打ち上げてしまう。そんな規格外の威力に加えて、魔力解放し超人離れした身体能力を引き出すことができる春菜の跳躍力が合わさる。その加速はまさに目にも止まらぬ速さであり、飛ばされた春菜も目を開けていられないほどの風圧が顔面に襲いかかる。
耳には空気が震える音が叩き込まれる。
それでも春菜は根性で両目を開きある一線を見極める。
完璧かつ最速の軌跡。
すでにイメージは出来ている。
――きっと全速力の新幹線の上はこんな感じなんだろうな。
全神経を研ぎ澄まし、最後のリラックスを終えた春菜は、刹那、魔獣と向き合う。しかし、その頃には抜刀を終え、あるものを真っ二つに切り終えていた。春菜は確かな手応えを感じたまま絶叫しながらどこまでも飛んで行くのだった。
☆☆☆☆☆☆
全て終わった。
そう思った矢先に事が起きた。
魔獣が上半身に緑の霧を纏って恐ろしい速さで冬香に襲いかかる。
予想外の出来事に冬香は脚がすくみ尻餅をついてしまう。M4A1アサルトカービンの銃口を向けるよりも早く魔獣は確実に冬香を殺す。
――やられる。
少女が覚悟を決めた時、天空よりヒーローが隕石の如く少女の前に着地した。
綾斗は教室から勢いよく飛び出し、落下の勢いそのままに二振りの剣を斜め右上から斜め左下に掛けて全力で振り下ろした。その衝撃は凄まじく、爆発が起きたと錯覚するほどの轟音と共に地面に衝突し土煙が立ち昇る。
そのせいで冬香は土煙に呑まれてしまった。
「冬香!」
頭上から夏目の声が聞こえる。
「大丈夫か? 冬香」
土煙のせいで目の前にいるのが誰だか分からない。それでも差し出された右手を拒むことが出来なかった。どうしてだかこの手を無性に握りたくなった。
引き上げられる力は強く、すぐに彼の胸に顔が当たる。
「タロットはゲットしたぞ」
顔を上げると綾斗が微笑んでいた。
「み、右手!」
冬香は慌てて綾斗から離れるが、どこか名残惜しそうに綾斗を見つめる。
「さっき夏目に治してもらった。本気で泣くかと思った」
げんなりした様子で言う綾斗は左手にタロットカードを持っていた。
女教皇『ハイプリエステス』のカードだ。
ハイプリエステスが封印されたことで気絶していた生徒や教員が続々と起き始める。
次の瞬間、散らばっていた建物の破片がまるで吸い寄せられるように元の場所に戻る。腐敗した部分もそれに従って瞬く間に元に戻っていく。
「夏目の修復魔法。これのお陰で昨日の住宅街ももう元通りになってるよ」
「え、そうなのか? さっきは三秒前って言ってた気がするけど」
「それは反転魔法。魔法の中でも上級魔法に位置する時間を操作する魔法。修復魔法は壊れたっていう事象が必要なの。だから。壊れてから修復するまでタイムラグが生じる。でも、反転魔法は壊れたという事象そのものを無かったことにするの。だからタイムラグを起こさない。それでも上級魔法ってだけでかなりの魔力を使うから夏目無理してると思う」
「冬香史上一番の長文だな」
「むっ! 怒るよ」
「ごめんごめん。でも凄いな魔法って。便利だけど難しいって言うかなんて言うか……」
呑気なことを言っていると教室の窓から身を乗り出した龍鬼がまた血相をかいてこちらを見ている。
「早くしないと昼休み終わっちまうぞ!」
二人はクスクスと笑いながら教室に戻った。
一方その頃春菜は常盤市にある数多の河川敷の一つに不時着し、川に転覆していた。